大抵のことはひとりでそこそこにこなせていた自負が、ミョウジナマエにはあった。何でもできると思い上がっているつもりではないが、成績と名のつくもので人様に顔向けできないような結果を残した記憶はほぼなかったように思う。下手に力まずともやるべきことを手順通りに要領良くやれば、結果はおのずとついてくるものだ。一度で成功しないのなら、二度三度、百度だって繰り返せばいい。そうすれば、大概のハードルは越えられるのだから話は非常にシンプルである。そういう思考で人生の半分以上を生きてきたナマエは他人にひた隠しにしてはいるけれども、元より大変な負けず嫌いであった。舐められるなんてあってはならない。壁を越えられるまで繰り返すことに躊躇が無ければ怠惰も過ぎらないが、その過程を他人には知られることを嫌う人種だ。隙のない人間で在りたいと望んで、実際周囲にそう見せているのだからある意味セルフプロデュースとしては成功している。
しかし、一方でナマエは理想の完璧を再現できる器ではなかったので。つまり綻びが生じ、事実として隙は発生していたし、手に負えないことだってある。だからこそ慎重にそういう都合の悪いものを避け、誰にも見せないようにすることで練り上げられた彼女の虚像は、彼女自身を追い詰めて息をしにくくさせた。振る舞いに大きな偽りはないが、真実を顕にすることもなく。研鑽し、砕身し、摩耗して。その先に、一度己の限界を見たのだ。そうして、今は。
あるきっかけを境に、ある人のおかげで、ナマエは以前より肩の力を抜いて生活するようになっていた。隠し事の量は減衰していき、詰めていた息を人前で少しだけ吐き出せるようなった。隙を見せることへの抵抗が薄まった──けれども、人の性根は簡単には変えられない。有り体に言ってしまえば、彼女は未だに格好つけだった。
この年齢になると新しいことへの挑戦や、新鮮な経験というものは幼い頃から格段に減った。それでもまだまだ、世の中には未知が多い。
「いずみさん。今日は日が悪い。もしくは、わたしとスケートとの相性が悪いのかもしれません」
「いやあんたまだリンクにもたどり着いてないじゃん。スタート地点に立ててないからねぇ?」
こんなとこでそんな弱気になっててリンクの上でどうすんのぉ、と恋人は呆れたような格好をつけながらも、どことなく楽しげに言い放つ。要は、始まる前から終わっているということだと解釈した。
恋人であるはずの瀬名泉からかけられる容赦のない言葉たちにがっくりと肩を落としていたナマエは今度こそと、安住の地である赤いベンチとお別れすることを決めた。この決断は三度目だ。なんせこの滑らない場所ですら、立って歩くのが困難な状態であったので。普段とは大きく異なる感覚で地を踏みしめ、足元に不安定を抱えたまま直立する。
彼女と泉が履いているブーツのように紐で編み上げられた靴の底には、靴とほぼ同じ長さの金属板が貼り付いていた。金属の厚さはおよそ三ミリといったところで、地上と接する面積は靴の横幅とは程遠いものだ。実用性に欠けたこの靴のせいで、移動時間が通常の数倍かかっている。こんなものを移動に使おうとする人間がナマエには理解できないが、兎にも角にも今日このアイススケート場にいる間はこれしか移動手段がないのだから文句を言っていても始まらないのだった。
「いずみさん、立てましたが動けません」
「動けるから。はい手ぇ出しな」
「いえ、とりあえずひとりで……」
「なにそれ。強がってても仕方ないでしょ〜?」
ナマエに自分の手を取るように要求してきた泉は、結局彼女がそれに従う前にその手を温度の高い指でさらった。彼のせっかちさは、意地を張る暇も与えてくれない。ナマエの両手を握った彼はスケートリンクに背を向けたまま、正面の彼女に愉快そうに笑いかけた。黒で縁取られた視力矯正効果のないレンズを隔てて、薄い青を帯びた瞳は急かすような言葉とは裏腹に柔らかな細まり方をする。
「足は一歩ずつ出して。ここは滑らないし、バランス取るのに慣れればすぐ歩けるよ」
「……はい」
その強引さに救われながら、ナマエは泉の指示通りに一歩ずつアスファルトを踏んでアイスリンクを囲うフェンスへと向かう。彼に掴まれた指は、気付くと彼女の方が強く掴み返していた。余裕の無さが極まって、周囲の喧騒は徐々に耳に入らなくなってきていたし、寒さも忘れ去っていた。
平日の夜のアイススケート場は、意外と人口密度が高い。そもそものアイススケートの人気の高さをナマエは知らないが、平日ど真ん中でも閑古鳥が鳴かない程度には賑わっているので、この時期はベターな遊びなのだろうと納得した。遊園地の近くに期間限定でできたこのアイスリンクをデート場所に選んだのは、泉の方だ。最近発売されたKnightsの記事が掲載された雑誌の、撮影時に使われた場所らしい。泉本人にはわざわざ言わないけれども、その雑誌はどういうわけか父親が差し入れと称して持って来たので、一応目を通している。確かテーマが氷上の騎士、だったはずだ。大方久しぶりに滑ったら楽しくて遊び足りなかったのだろうと彼女は凝り性な恋人を可愛らしく思い、彼からの誘いを受けた。
「みんな滑ってる……」
「みんな滑りに来てるからねぇ」
暗い色をしたアスファルトを数歩進んだ先には、正反対の白が一面に広がっていた。フェンスで仕切られた、この白い地面はどういう手法なのか、すべて氷で出来ている。遠目ではわからなかったけれど、近くで見ると表面にはスケートシューズにくっついたブレードが通った跡がいたるところに残る。別の誰かがその上をすいと軽やかに滑り、また新しい跡が作られる瞬間を見たナマエは自身の状態を一時忘れて感心した。右足へ、左足へと体重を順にかけ、絶妙なバランス感覚で流れる川のように前進していく。彼らがナマエと泉の前を通り過ぎるのは、文字通りあっという間だ。まるで最初からその靴を履いて生まれてきたかのようで、自分の一部であるかのようにその靴を自在に操っていた。フェンス周辺から離れられない、あるいはやっと離れることのできたアイススケート初心者の合間を縫うように玄人が風を切って優雅に滑る。周辺のベンチはやや混み合っていたようだが、リンクに出れば人が少なく感じるくらいで、初心者と玄人が混ざっていても事故の心配はなさそうだ。これならどうにかとやや安心して。
「ここ、フェンス掴んでて」
「え、え?」
泉から握ってきた手が、不意に泉から手放された。代わりにナマエのバランスの安定を委ねられたフェンスは、冷たい上に頼りなくて、彼の手とはなにもかもが違った。唐突に突き放されたような不安を隠せるゆとりがあるわけもなく、反射的に請うように泉を見上げると。目が合った彼はつい緩んだ口元を抑えるようにして指を添え、可笑しげに眉尻を下げた。
「あんた、なんて顔してんの」
「どんな顔してます?」
「さて、どんな顔だろうね。教えちゃったらつまんないから言わないけどぉ」
「……いじがわるいですよ」
今日はどうにも分が悪い、と今更に。靴の履き方ひとつから泉に世話してもらった時点で本日のアドバンテージが彼にあるのは明白だ。
ナマエの問いかけに軽い意地悪で返した泉のスケートシューズが、フェンスの切れ間を横切って真っ白なリンクに降り立つ。そこに新しい傷跡を刻みながら、くるりとこちらに身体の向きを変えるその動作はただただ優雅で、危なげなんてちっともなかった。泉が身体を反転させたのと合わせて、膝ほどまで丈のあるグレージュのチェスターコートが風を受ける。コート下のタートルネックのニットはリンクと同じ色をして、そこから伸びる細身のスキニーパンツは黒を纏い、スマートなコントラストを描いた。色合い自体に派手さはなくとも、この人が身につけるものはだいたい彼をより良く見せるものばかりだ。ナマエの目にはやけに鮮やかに整って、映る。このひとはきっと、何色で構成されてもこの華やかさを捨てられないのだろう──そんな取り留めのないことを浮かべた。彼は背筋をきれいに伸ばしたまま、氷の上でも堂々とした表情と立ち振る舞いで、瀬名泉然とする。どこに居ても、なにを纏おうと。あらゆる側面と彼なりの隙を持っていて尚、ナマエから見た泉は理想のかたちをしていた。”理想の相手”ではなく、”理想の自分”だ。端的に言えば、この人の前では格好悪いところは見せたくない。差し出される手を素直に取れないのは、そういう理由で。
「ほらおいで、強情張りのお姫さま?」
「ごう……またらしくない遊びをして」
泉の振りを呆れ半分に切り捨てた。もう半分は、単純に気に入らないからだった。不服そうなナマエを意に介さず、泉は続ける。
「撮影でここを使ったときのテーマが、氷上の騎士だったから、ちょっと思い出しちゃって。なかなか好評だったんだけど……まああんたはどうせ見てないよねぇ」
「……ここにいるいずみさんは騎士じゃないでしょう。公私混同じゃないですか?」
フェンスから指を放さず、差し出された手は取らなかった。無骨な鉄の塊に寄りかかりながら恐る恐る氷の上に左足を置いてみる。文字通り、立つというよりは置いただけだ。ここから体重を移動させるのはやや勇気が要った。
「そしてわたしはお姫さまではないので、一人でも大丈夫です」
「はぁ? なんでそこで拗ねるわけ」
「べつに拗ねてません」
「拗ねてるじゃん」
お姫さま、とは瀬名泉であって瀬名泉ではないひとが使う。彼が自分を好いて応援してくれる女性たちを指した呼び方である。彼はステージ上で星のような輝きを振りまき、彼女たちに特別と幸福の時間をもたらす。自分の隣で笑う彼とは違う、その瀬名泉を眺めると、いつも不思議な心地になる。夜空で瞬く星々は、決して手が届かず誰のものにもならない。それすら、眩く麗しいロマンの一部。つまりあの瀬名泉は、自分のものではない。でも、ここにいる瀬名泉は──騎士ではない彼は、自分のものであってほしい。そうあるべきだと彼女は勝手さを自覚しながら思うから。ほらまた格好悪い、と自己嫌悪を募らせた。やはりアイススケートとは相性が良くないらしい。惨めさすら覚えながら、右足もリンクに置いた瞬間に。
「…………っ」
左足の底のブレードが、ずるりと踵から想定外の方向へ滑り出す。右足のバランスを取ることはすっかり頭から抜けていたし、集中力に欠いた体重移動は結果として失敗へと転がっていた。動揺が冷静さを蝕んで、手にフェンスを掴んでいて尚、バランスが取り戻せない。氷の塊へと身体が転倒していくことへの抵抗はなかった。それはある種の諦めだ。こうやって失敗して、刻み込んできたのだと思い返す。記憶に、身体に。成功するまで何度も、何度も。
「……ば、っかじゃないの」
手を伸ばした泉に左手を強く引かれたかと思うと、腰には彼の左腕が回り、体重を預ける先ができた途端に言うことを聞いてくれなかった足元が急に大人しくなった。ナマエは息がかかりそうなくらい間近に迫った端正な顔を、どこか茫然と見る。人前では意識的に保っていたはずの一定の距離をゆうに越えているのに、その距離をどちらも正そうとしなかった。周りの存在すべてが、意識の外に追いやられた。思考が、この青年以外のものを拒む。人が美を追求して創り出した美術品だってここまで心奪われる輝きを得ることはないのだろうと、そんなことを思って。整えられた眉が呆れに歪むまで、ナマエは言葉を発するのを忘れた。
「言わんこっちゃない」
「……ええと、ありがとうございます」
「あんたが変な意地張らずにさっさと俺を頼っとけば要らない労力だったんだからねぇ?」
「すみません」
ナマエの腰から腕は離れていったが、片手はしっかりと繋がれて解放されなかった。どのみち、ここで突き放されても動けなくなるだけだ。甘えるほか、選択肢はない。
「あの、フェンスまで戻して頂ければ、」
「俺はさ」
てのひらを泉の親指が辿り、中指の付け根を握り込まれる。泉は言葉を選ぶようなぎこちない間を置いた。ナマエはやっと周囲に目を向ける余裕が戻ってきて、ゆるりと視線だけうろつかせてみたが、誰もこちらを気にする様子はなかった。短い間とはいえ、抱き合っていたように見えたはずなのに。ここにいる人たちにとっては、大したことではないのかもしれない。ここでは自分たちはただの仲のいい学生で、騎士の休息であるなどとは誰も知る由がない。この目の前で困ったようにこちらを見る彼は。子どもみたいな独占欲が笑えてしまうくらいに、わたしの、瀬名泉さん、なのかもしれない。
「俺は、あんたの格好悪いところを見るのが好きなの」
「えぇ……」
沈黙を泳がせたあとの第一声で、ナマエが見せたくないところが好きときた。元よりやや嗜虐的なところがある恋人だ。そういう一面に意外性はないけれど、面と向かって告白されて喜べもしない。
「そういう趣味もまあ、困りはしますが否定はしません。困りはしますけど」
「趣味ぃ? ほんと、あんたも大概鈍感だから嫌になる」
「いずみさんに言われたくないです」
「また生意気を……っ、そうじゃなくて」
いつもの調子で売り言葉に買い言葉でまくし立てるのかと思えば、彼は踏みとどまった。再び言葉選びをしているようだった。衝動的な言動の自制。泉は以前よりそれが上手になったように、ナマエには見えた。自分と接するのに、そんな努力は必要ない。そんな格好をつけなくとも、はっきりと好き嫌いを示す泉が、好きなのに。眼鏡越しの薄い青は、ひたむきに一点だけを捉えている。逸らされる気配がないことに、安堵が浮いた。
「ていうか、あんたの格好悪いとこなんか付き合う前から散々見てるんだからさぁ、今更気にする意味なんてないでしょ。言っとくけど、ナマエって自分で思ってるより抜けてるし、隙だらけだからね」
「そう、なんですか」
「そうなんです」
「……そうでしたね。たぶん」
「往生際が悪いんですけどぉ」
それもそうだ。この世界で一番好きな相手には、一番格好悪いところを知られている。彼の言う通りこの足掻きに意味はなく、でも良いところだけを見ていて欲しいというわがままは捨てられない──恐らく、この恋人も。似た者同士だと思うよ、と涼しげで掴みどころのない赤い瞳でナマエと泉を順に見やった青年に、そう評されたことがある。こういうところだろうか。
「わかったら、たまには素直に俺の言うこと聞いて。ほら」
そっと、神経質なくらいにゆったりとした動作で、泉の温かな指が解かれた。ナマエは泉が自分から離れていくのを見守り、ただ立ち尽くす。突き放す行為じゃない、ただのやり直しだ。心許なさを訴える間もなく、去ってしまったばかりの手がまた差し伸べられた。今日一度も、ナマエから触れることのなかった、てのひら。その手を取ることすら、きっと隙だけれど。彼がそれすら愛してくれているなら、もう少しだけ受け入れるべきかもしれない。
「よくできました」
指を重ねれば、手放した温もりが戻ってきた。満足そうに微笑を湛えた恋人は、見入るほどにうつくしくて、視線を自由にできないくらい格好がよくて。去来するそれは愛しさなのか羨望なのか。感情の境界を曖昧にしながら、泉の卒のないエスコートに身を任せる。まだ慣れない足元を見下ろすと、アイスリンクに彼の後を追うような、新しい跡ができていた。