ミョウジナマエは、好いた相手に好かれていない。その優しくない事実を、彼女は真っ向から受け入れ、きちんと記憶の真ん中に据えていた。一秒たりとも忘れたことはない。例え周囲から、どう否定されようとも。なぜなら、他でもない本人がそう言ったのだ。彼は自分に嘘を吐いたりしない。
「ナマエのことなんか、ぜんっぜん好きじゃない」
 知ってるよ。ちゃんとわかってるよ、イズミ。

 この朝も、まだ目に馴染まない天井を拝むところから始まるはずだった。手を伸ばしても、椅子に上がっても触れることのできない高さに広がる一面の白は、もし汚したくなっても汚す術がないのだとここへ引っ越してきた十日前に思った。一人で住むには色も温度も無さすぎる、とも。充満する新築特有の匂いを家族は気に入っていたが、ナマエは鼻を慣らすのに時間をかけた。新しいものは、好きじゃない。
 新築のマンションに自分一人を置いて再び日本の外へと旅立って行った家族を、感慨もなく見送ったのは昨日のことだ。彼らの出国一週間前も、三日前も、当日になっても、別れを惜しむような寂しさはやって来てくれなかった。自分は自分が思っているよりも、薄情なのかもしれない。それとも、家族の立ち位置がこの数年で入れ替わってしまったからだろうか。血の繋がった父と母がいたはずの場所に、いまは別のひとが立ってしまったから。
「ちょっと、あんた今日なんの日かわかってる?! いつまで寝こけてるわけ? 心配して来てみれば、やっぱりあんた一人じゃまともに起きられもしない。こんな有様で一人暮らしなんて、みんなよく許したよねぇ。最後まで大反対した俺が正しかったってことじゃん!」
 ベッドの中で重たいまぶたをこじ開けると。馴染まない天井よりも先に、馴染んだ顔が視界を塞いでいた。カーテンをすり抜けて室内に入ってくる陽光が、目の前の青年へと注がれている。後ろから陽を浴びた銀色のくせっ毛が、白くきらきらと輝きを放っているように見えた。いつも光が似合うひとだ、わたしの血の繋がらない”家族”は。整えられた眉をつり上げ、空のような色をした瞳に呆れと怒りの両方を塗り込み、唇の端は眉と反比例するように下がっていた。それでも尚、己を輝かせる才能を持つ彼は、瀬名泉は。無自覚に目が覚めるような鮮やかな景色をここに放り込んできた。あんなに味気ないと思っていた部屋が、様変わりしたように色付いた。十日前までは、当たり前だった世界だ。寂しさが、今更にじり寄ってくる。いや、今日もまたそれを目にできた奇跡への、感激か。
「イズミ?」
「泉だけど。なに、まだ寝ぼけてんのぉ、このおバカ」
「……わたしってバカ?」
「ちょう、バカ」
「ちょう」
 身体を起こそうとしないナマエを、ベッドに腰を下ろしたままの泉が呆れ返ったように見下ろしていた。彼は肩肘をベッドにつき、上半身を傾けて。こちらに体重をかけてくる身体は細く映るが、曰くそこにまとわりついている、傍から見ると判定の難しい脂肪と彼はよく戦っている。よくよく見ていれば、どことなくフォルムの一部がまるみを帯びたように感じるときがだいぶ昔にはあった。指摘した日には、泉は大層お怒りになる。そんなことで彼のどんなうつくしさも損なわれはしないのに、とは彼女だけの所感だ。
 不意に目と鼻の先に掲げられた泉の手は狐のようなかたちをしていた。その狐のようななにかと見つめ合うこと二秒。狐の鼻筋にあたる人差し指が、ナマエの額目掛けて突っ込んだ。
「でこ、ぴん……痛い」
「早く目ぇ覚ましな」
「覚めてる。イズミのおかげで」
「じゃあ起き上がって」
「うん。わかった」
 ナマエが腰から上をベッドから起き上がらせれば、泉の身体も寄せて返す海のように引いていった。慌ててそれを追いかけるように、ナマエは制服に覆われた泉の腕を力任せに掴み止める。
「待って」
「なぁに」
 何気ない、柔らかい声音での反応。更に返事をする前に、ナマエはその完成された綺麗な顔へ、自分のそれを近寄せる。よく乾燥してると怒られる薄い唇で白い頬に触れてから、まるくなる瞳に閉じ込められた空を見上げた。遠い異国で見た空の色に、よく似ていた。
「おはよう、イズミ」
「…………」
「イズミ、今から怒る?」
「……べつに怒ってはない、けどさぁ。あー、化粧が」
「メイク? 落ちる? あぁそっか、ここ家じゃないね。ごめんなさい」
「まあこれくらいなら、いいけど」
「けど。怒る?」
「……っ、ああもう、怒んないから。はい、おはよう」
 先程のナマエの行為をなぞるように彼女の頬に口付けて、「これでいい?」と問う泉は見たところふてくされていた。いつもこれは化粧の前に行うのに、今日はそうじゃないからかもしれない。
 朝の挨拶を済ませて満足したナマエは、さっさとベッドから抜け出し、昨夜棚の上に畳んで置いておいた制服へと手を伸ばす。今日から三年間世話になる、新しい制服だ。新しいものは嫌いだが、この制服はちょっとだけ袖を通すのが楽しみだった。鼻歌交じりに寝間着のボタンに手をかけると、慌てたような怒声が飛来した。
「着替えは俺が出て行ってからっていつも言ってるでしょ?!」
「そうだった。かもしれない」
「あんたまだ寝てんの?」
 勝手が違うことが多くて、勝手が同じひとがいて、どうも習慣のピントが合ってくれない。
「ナマエは着替えたら顔洗ってきて。時間ないし冷蔵庫の中身もまともにないし、今日はトーストと目玉焼きだけ用意しとく」
「その卵とトーストはどこから駆けつけて来てくれたやつ?」
「俺の家から。あと、学校着いたら買い物リスト送るから、帰りに全部買ってくること」
「なんだっけそういうの。ぱしり?」
「はぁ? どこで覚えてきたのそんな人聞きの悪い言葉。てか、よく言えたもんだよねぇ、これあんたが食べる分の買い物だから」
 心外とばかりに大きく嘆息してから、泉はナマエの部屋を出てダイニングへと繋がる廊下へと姿を隠した。ナマエは泉の消えた扉を見つめ、今の日本語を噛み砕こうとするが上手くいかない。ニュアンスが掴めない。一人暮らしの自分が食べるものを、どうして泉が指示するのか。その意味を問うたら、また怒られるだろうか。
「(いつもと変わらない……ひとりじゃないみたい)」
 ナマエにとって正真正銘の一人暮らしと高校生活の初日となるはずだった、今日。高校生になったら、独り立ちだと定められていた。そういう教育方針らしい。口うるさいこの青年は、十日前までの同居人だ。生まれてから小学校中学年までを日本人の血の繋がった両親と海外で過ごした彼女は、十歳の頃急に見知らぬ日本の家族に預けられた。そういう教育方針、らしい。両親の友人ではあれども彼女の友人ではないので、実質赤の他人との同居にすんなり馴染めたかと言えばそんなことはなく。元いた場所とは習慣も常識も一新されてしまったナマエに一番寄り添ってくれた、泉がいなければアメリカへ逃げ帰っていたかもしれない。大げさではなく。彼はナマエの十年で培ったあらゆる常識に毅然としてNOを唱え、ナマエの非常識を笑った級友に怒り、百回に一回くらい譲歩してくれた。朝の挨拶はその譲歩の一例だ。
「いい? 今日から家を出たら俺たちは見ず知らずの他人だし、俺はあんたの先輩だから。万が一外で会っても、俺をイズミとか呼ばないこと。あと絶対に余計なことも言わないように」
 揃いの制服に着替えて、顔を洗ってダイニングへ向かったら、見様見真似で精一杯結んだネクタイはやはりと言うべきか、泉の合格ラインに届かなかった。視界の正面にある彼の緑のネクタイは、ナマエのものと違い乱れがない。彼女の首元を確認するなり長い指がすぐ赤いネクタイを解きにかかり、指はそのまま手慣れた様子で綺麗な結び目を作っていった。その片手間、泉がごく真面目な顔で外では他人で通せと命じた。だからナマエも、同じく真面目に思考して。
「……ええと、セナ?」
「俺先輩だって言ったよねぇ? あんたそんなだから上級生に目ぇつけられるんだからね?」
「でも最後は仲良くなる──いひゃい」
「お兄ちゃんに口答えするのはこのお口かなぁ?」
 両の頬が横にも縦にも好き放題伸ばされ、ナマエの反論は機能しなくなった。話してみれば、みんなだいたい仲良くしてくれるのに。
「じゃあ、セナさん。こうだね」
「さんでも先輩でもいいけど、敬語も」
「わかりました。セナさん。どうですか、えらいですか?」
「はいはいえらいえらい。でも今はいいから。とりあえず、座ってご飯食べて。その間に髪やってあげる」
「ひとりでできるよ」
「──いいから」
 ああ。これは譲る気がないやつだ。
「わかった」
 時間ないでしょ、とか面倒ばっかりかけて、とか文句を連ねているけれど、これは泉がやりたいだけだ。ナマエは彼のやりたいようにさせてあげることにして、黙って席についた。目の前では、オレンジ色の液体で満たされたグラスと、きつね色に焼けたトーストと、ナマエ好みの生に近い半熟の目玉焼きが買ったばかりの皿の上に仲良く並んでナマエの胃に収まるのを待ちわびている。いつの間にか、ベランダとリビングを繋ぐ戸は開け放たれ、室内のこもった空気と室外の冷たさをらんだ空気を混ぜっ返していた。換気のために泉が開けたのだろう。真っ白のカーテンが光を反射しながら、緩く吹き込む風になびいては波打つ。まだ見慣れないのに、傍に泉が立つだけで見知った日常の空間であるような錯覚が広がった。
 ぴかぴかに磨かれたフォークを持ち上げたとき、自分の髪の毛も持ち上がっていく気配がした。櫛が毛束の隙間を何度も何度も丁寧に行き来しては、絡まった髪をかき分けて真っ直ぐになだめてゆく。傍目には短気に映る泉だが、その手つきは穏やかそのもので、力加減に過不足はない。そうやって、生き方も加減できればいいのに。三つ又の鋭い先端で卵の黄身をつつき、中身がじわじわと白身を侵していくのを眺めながら、ナマエは泉の生き方をおもった。これからを憂いた。未来の不安定さを、恨んだ。
「こら、食べ物で遊ばないの」
「ワインは香りから楽しむ。目玉焼きは黄身のとろみから楽しむ」
「それ時間があるときにしてくれる?」
 ごもっともだったので、楽しむのを止めて卵黄が絡まる白身をフォークで切り取ったのち、口に運ぶ。髪に触れる手は休まらないのに、視線はこちらの食事へと向いているのを、なんとなしに感じた。器用なひとだ。時間がないと言いつつ、彼の指は恐らく編み込みを始めている。
「イズミ、楽しい?」
「楽しいとか楽しくないとかじゃない。人は第一印象で全部決まるんだからね。入学式なんだから、ちゃんとして行かないと舐められるでしょ〜?」
「すごい喧嘩腰だ。そんなに怖いところなの」
「怖いところなの。あんたみたいな甘ったれた子は、すぐに良いように利用されちゃうよぉ。気を抜かないようにしな」
「なんか思ってたのとちがう、高校って」
「俺もね、そう思ってたよ。二年前に」
 泉も利用されたのか、それとも、利用したのか。だから、悲しそうにすることが増えたの──矢継ぎ早に浮かんだそれらを正面から訊ねられるほど、呑気にはなれなかった。泉の表情を見たくなってあごを上げると、動かないで、と頭を掴んで押し戻される。きみいまどんな顔してる?
「ちょっとぉ、手が止まってる。なぁに、もしかしてお兄ちゃんが食べさせてくれるのを待ってるの?」
「ぜんぜん。食べさせたいの?」
「ぜんっぜん。あのさぁ、俺が好きでやってるみたいな言い方やめてくれない。立場上、あんたがまともに生活出来てるか気にしなきゃいけないからそうしてるだけ。そうやって調子に乗るなら、放り出してやるから」
「ここ私の家だよ」
 泉は、自分のなにかしらの欲求がナマエに向いているような言い方を嫌う。直前までの甘さを呆気なく捨てて、突き放してまで否定する。拒絶じゃない、防衛のようだ。前だけを見据えて、決して振り返らない。後ろを見ると、見てはいけないものをが見えてしまうのかもしれない。
「知ってるよ。イズミは、私のこと好きじゃない。歳が近い兄妹ってそういう、すんなり上手くいかないものらしいね、オニイチャン」
 うんともすんとも返ってこなかった。ただちょっとだけ、髪を引っ張る力が過多に寄る。無言の肯定とかじりついたトーストをどちらも黙々と飲み下した。混ざった結果、味が犠牲になった。新鮮なオレンジジュースで舌をリセットしておく。
「私たちは兄妹じゃなくて、私は泉の、」
 不意に顎に添えられた手に、今度は上へ向くことを強いられる。ナマエの目線はテーブルをなぞり、天井へ打ち上げられる。兄のようなひとの反転したしかめっ面に、覗き込まれて目が合った。泉の美貌がナマエのそれへとそろりと降りる。唇の端に、彼のかさつきのない唇がついばむように重なった。頻繁にリップクリームでコーティングされる、手入れの行き届いた唇だ。
「トーストの屑、口元についてた」
「ありがとう」
「……はー、むかつく。かわいくない。きらい。このぶす。ちょう、ぶす」
「ちょう」
 泉は、怒ると語彙力が落ちる。
「フライパン洗ってくる。グラス寄越しな、おかわりは?」
「いる。ありがとう」
「あとあんた唇乾燥しすぎ。あとで俺のリップクリーム貸すから、ちゃんとして」
「舐められるから?」
「その通り」
 ナマエのあごからも髪からも泉の指が逃げるように去り、彼は舌打ちを残してからキッチンへと引っ込んでいった。日本人との適切な距離感は、ナマエにはよくわからない。初めておはようのキスを泉に送った日はひどく怒られたものだが、いつしか挨拶以外でも彼との距離は時々互いの隙間がなくなるから、感覚が狂う。ナマエに日本人の適切を教えてくれていたのは、いつも泉だった。”泉”はいいけど、”他人”にはいけないという回答も存在した。彼の正解は、たまに複雑に入り組んでいる。
 自分たちが傍からどう見えるかは、ナマエには関係なかった。泉が”好きじゃない”と言うなら、彼女にとってはその認識で変わらない。泉はナマエに嘘を吐かない。でも、ナマエは泉がいつも正しいわけではないことを知っている。彼にも、気付かないことはある。
「イズミ」
「なぁに?」
 キッチンカウンターの奥で、背中を向けてフライパンを洗う後ろ姿は振り返らなかった。蛇口からあふれる水音にかき消されまいと、ナマエは少しだけ声を張る。
「愛してる」
 泉の耳がそれを受け取った自信があったが、彼の視線は変わらずフライパンだけのものだった。反応の無さを意に介すことなく、ナマエはトーストのまだ口をつけていない角を攻め始める。
「──あんたは一生片思いだねぇ、可哀想に。片思いのまま、貰われて……奪われて、いくんだから」
 可哀想という表現の正確さは、適切な距離感と同じくらい、よくわからない。確かなことは、泉が自分を好いてはいないと主張していること、それでも一緒にいてくれること、そして泉はこの学院に入る少し前から変わってしまったこと。
 元々世話焼きな性分であることは骨身にしみていたけれども、その傾向は二年前からより強くなった。泉はナマエの行うあらゆることに口を出した。ナマエは大人しくそれに従いながら、彼の正しさをずっと考えあぐねている。まるで見たくないものから目をそらすようだと、思ったのだ。学科は違えども同じ学校に進めば、近い空気を吸い込めば少しでもその答えに近付けると期待して、今日という日を待った。
「可哀想に」
 繰り返されるその憐れみの向かう先が、ナマエには見えない。泉と同じものを見るには、きっとまだまだ時間がかかる。同じ目線になれたら。外でも同じ空気を吸ったら。彼が自分を好きではないという主張の本質が、見えるだろうか。それは果たして、泉と自分が両親の言い付け通りに同じ名字になる日に間に合うのかな、ねえイズミ。きみは私には嘘を吐かないけど、自分自身にはそうじゃないみたいだから。

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