わたしがあのひとに会うために。あのひとがわたしに会うために。互いに大事にとっておいた時間は、時折唐突に霧散する。
『ごめん』
いつからか電話越しの彼の”ごめん”は、やけに悲哀が滲む響きとなって耳の奥に残るようになった。今学校にいる時間なのに電話したから、仕事が長引いて迎えに行けなくなったから、急に会えなくなったから──謝罪の前置きは日替わりだけれど、大概似たり寄ったりだ。聞きたいのは、そんなものじゃないのに。
スマートフォンを耳にあてがいながら廊下を進むわたしに、行く宛はなかった。ただ静かに相手の声に耳を傾けられる場所を求め、賑やかな教室や通路からどうにか離れようと彷徨った。まだ昼食を取っていないものの、昼休憩をすべてこの通話に費やしても悔いはない。ふと目を向けた窓の下に広がるグラウンドは、砂粒たちが太陽から与えられる熱をじりじりと吸い続け、その熱を順調に蓄えているようだった。目眩がしそうなその暑さを、いまは少し浴びたい気分だ。たまには熱に浮かされて、この冷静さから逃げてみたい。どんな心地なのだろう。
『────』
電話の向こうの申し訳無さそうな声音が、懺悔の続きを発する気配があった。ここで空気を読んで彼の言葉を待つのは、逆に空気が読めないというものだと思う。
「新しいお仕事じゃないですか。よいことです。なにも謝ることはありません。もちろん、寂しくないと言えば嘘になりますけどね?」
明日は、二人で会う予定を立てていた。けれどもわたしの恋人は、瀬名泉さんには、たったいま明後日にイタリアで行う仕事の予定が舞い込んだ。これからすぐに空港へ向かいフィレンツェへと発たなければならない。
日本でのアイドルとしての仕事とイタリアでのモデルとしての仕事。今の自分が向かうべき場所、残された人たちの動向、役割。きっとあらゆる要素を鑑みて、必要性の天秤にかけた結果、それは後者に傾いた。それだけのことだった。わたしは、その天秤に触れることすら許されない。そういうものだった。
わたしの、愛せない父親は。華やかな芸能界の維持に裏から一枚噛んでいるらしい。だからそういう世界の仕組みは、その触りだけ把握していた。常に高い能力を求められる一方で、コネクションがものを言うことも多い。コネクションは、多ければ多いほどいいものだ。いつかのどこかで出来た何気ない繋がりが、後々大きなチャンスを生むこともざらにある。そういう世界だった。
つまりフットワークの軽さを武器にして大小問わず多く仕事を受けることが、いまのいずみさんにとっての正解に違いないのだと。モデルというものをよく知らないわたしでも大方察しはついた。
『……最近、寂しい思いさせることが増えたよねぇ』
笑うような音に混ざるのは苦味だった。自嘲のようでも、あった。このひとは、そういう人だった。
「あら、そうきます? いまのはちょっとしたリップサービスですよ。いずみさん、寂しいと付け足しておかないと寂しくないのかって拗ねるから」
『はぁ? いまここでそういう強がり方してくる?』
「強がりくらい許してくださいよ、まだまだ格好を付けたいお年頃なので。有意義な予定変更に後ろめたさなんて、持たせたくないんです」
仕事という括りのものが理由で彼が謝ることを、儀式にはしたくなかった。これはこの先も繰り返すことだと確定しているから。前へ進んでいるのに、後ろめたさに振り返らせたくなかった。でも、彼は優しいひとで、後ろにわたしが存在する限りきっと見ないふりはできないと知っているので。
「ごめんではなく、見ていてと。会えないじゃなくて、また迎えに行くと。そう言ってください」
『ナマエ……』
「見てますよ、ここで。いずみさんが迎えに来てくれるのをいい子で待ってます。そう、わたしは前に言いましたよね」
『あんたがいい子だったことなんてほとんどないって言ったのは覚えてる』
「いつ聞いても心外です」
思考も精神も、どうしようもなく平静だ。揺らぎはなく、焼かれたグラウンドのような熱もない。たまには夢を見るような、感情に押し流された行動にまみれた恋を見上げてみたりもするけれど。生憎それは、わたしたちのジャンルじゃない。いずみさん、と努めて柔らかに名前を呼んで間を置いて。とめどなくあふれる己が彼に向けた願望と欲望と羨望と。その中から一際見目が良いものを選び、旅立つ彼の目を見据えるつもりで、電話の向こう側へ手渡した。
「世界で一番うつくしい、わたしのいずみさん。あなたのうつくしさが、ひとりでも多くのひとの目に触れて──彼らが幸福を知りますように」
そのためなら、とっておいた時間もいまはいくら譲ったって構わない。彼の中の天秤に触れたいとも、思わない。いずみさんは、細く長い息を聴かせたのちに。
『──いい子にして、ちゃんと待ってなよ。あんたの恋人は、恋人の期待には応える男だからね。それを、証明していくから』
「いずみ、さん」
凛然たる彼らしい声が。悲哀とは全く別のものが、耳を通り胸まで落ちると、やがて熱を持った。与えられたもののせいで胸裏が焦げてゆく感覚に、安堵が生まれた。離れている時間が増えたことに伴い、忘れかけていたけれど。わたしはわたしが思うよりずっと、簡単に揺らいで冷静じゃいられなくなるらしい。そしてそれは決して嫌な心地ではないのだと、どうして抜けていたのだろう。
耳朶をくすぐる愛しい声。今度その声を聴くときは、それとわたしの間に隔てるものがなにもありませんように。いずみさんを送り出す言葉を唱えながら。わたしはもう一度、グラウンドを見た。
「いってらっしゃい。それと──好きですよ」