大神晃牙が一生分の憧憬を捧げた相手と同じ舞台に、その少年が存在したことを晃牙は知っていた。ボーカルの真後ろを陣取っていたのは、晃牙とそう年齢が離れていなさそうな少年と、彼が操るドラムセットだったのだ。
正直に言うと。少年のドラム演奏は晃牙の好みとはずれがあった。晃牙は王道のロックが好きだ。ドラムは、バスドラの低音が腹に穴を穿ちそうな、ステージ上に渦巻く激しい熱気を更に煽り立てるような強い音がいい。その方が、朔間零のステージを構成するにも相応しいはずだと思った。ナマエの演奏が放つのは、熱とは違った。吹き飛ばされそうなほどのパワーはない。心臓の真ん中まで焼き尽くされそうな熱気もない。表情も、微動だにしない。なにもないのだ。ただしそれを補って余りあるほどの技術があった。
どんなに朔間零が原曲と違うアドリブを入れようとも絶対的な安定感を有して、一定のクオリティの維持がなされているのは、確かにあの正確な刻みをするドラムのせいだ。彼のドラムは派手さのないシンプルな組み立てながらもタムの、スネアの、クラッシュシンバルの響きに名状しがたい説得力もあった。それは曲に一層エッジをきかせ、客を煽るフロントマンの熱を引き立てる。それでいて、曲のバランスを崩さないことにも手が行き届いた理想の裏方の音。朔間零を立てるという意味では、彼以外のどのドラマーより優れているかもしれず。そしてそこに感心を覚えてそう経たずに──ミョウジナマエは、表舞台から跡形もなく消えてしまった。
「下手ギター、聞いてるか。おい、大神。おまえだ」
「……え、あぁ、すみません」
一度思考の海へ沈めた意識を現実に引き戻すには、やや時間がかかった。気づいたときには、上手にいるギターも、ベースも、ドラムも。バンドメンバーひとり残らず晃牙を不思議そうに見つめていた。ここにきて、ひとりの男のせいで集中が緩んだことを、晃牙は一瞬で猛省する。
「サウンドチェックつぎおまえだから。音出して」
「……おう。いや、はい」
スピーカーを通して耳が拾う指示は、やたらと偉そうだ。何度睨みつけても、その態度が改まることはない。指示の発信源は、ホール後方の下手に設置されたPAブースだった。視力がいい晃牙の目には、表情の起伏の薄い青年がどこか気怠げに眉根を寄せたのがステージからでも見えた。初対面のときから、この男はこうである。
「おれが良いって言うまで弾き続けて」
ギターの弦をピックではじくと、それは背後のアンプから歪んだ音となってホール内に溢れてゆく。直後、気分がみるみる持ち上がっていくのを、感じた。家でフレーズの練習をするのも楽しい時間ではあるものの、やはりアンプを通して大きな音を響き渡らせる気持ちよさには敵わない。音は大きければ大きいほど、歪んでいれば歪んでいるほど、いい。聴く者の耳にアイスピックを突き立てて頭まで侵してやるような。そんな強烈なロックで魅せてやりたい。
ライブハウスのステージに、こうしてバンドの一員として立つのは思えばあまりないことだ。不慣れでも迷惑だけではかけまいと、晃牙は入りからここまでずっと必要以上に気を張っていた。今回は本番を想定したゲネプロであって実際に客が入っているわけではないが、それでも気楽どころか、良い緊張感が絶えず晃牙の中を満たす。自分の目指す場所ではないけれど、この経験もきっとそこへたどり着くための一歩だと彼は迷いなく信じている。他でもない、憧れたひと──朔間零が、そうするように言ったからだ。
あの偉そうなPAブースの青年は。ミョウジナマエは、地下ライブハウスの音響担当でありブッキング担当でもあり、零に頼まれて晃牙にバンドを直接紹介した男でもあった。丁度ギターがひとり飛んじゃって、と。そんな裏事情もあるこのバンドは、元々ナマエのブッキング担当らしい。愛想はないし、零への態度も決して尊敬が込められているとは言えず初対面からなんとなしに気に入らなかったが、彼はサポートとは言え元々零のバンドメンバーだ。言葉にはされなくとも、零に尽くすナマエのステージを、晃牙は何度も己の目で見た。それだけで、文句を言う気は失せていた。まあ結局気に入らないのだが。
「いいよ。じゃあつぎ上手ギター」
晃牙のサウンドチェックはつつがなく終わりを迎えた。どこが、というわけではないが自分の音が気に入らないまま。思うようなロックを表現するには、ギターの地力が足りない気がする。これがシングルコイルの限界か。新しいギターを買う金はないしなぁと上手にいるメンバーのギターを羨ましそうに見やっていたが、やがて再び仕事をするナマエへ視線を吸い寄せられる。
このバンドは、やたらあの男に信頼を置いていた。メンバー内には、高校を卒業した者もいて彼は当然ナマエよりも年上のはずなのに、全員揃って”ナマエさん”などと呼ぶ。そんな中でおいミョウジ、なんて呼べるはずもなく。晃牙も郷に入りては郷に従う運びとなってしまった。ナマエの経歴と実力。その両方が、彼らをそうさせるのだろう。バンドに入って二週間。嫌というほどそれがわかった。
「つぎバンドで。ワンコーラス」
いよいよ、と晃牙は更に気を引き締めて、ピックを握り直す。今日のライブハウスを使ってのゲネプロは晃牙が入るよりも先に決まっていたことだ。一ヶ月後の企画ライブに向けたものらしい。スタジオ練習は週に二回の取り決めで、晃牙が入ってからここまでの練習は計四回。正直、少しどころじゃなく不安はある。曲は頭に入っているし、ミスもほとんどなくメンバーからの指摘もされない。けれども、音を出す場所が十畳のスタジオからライブハウスに替われば、きっと見えなかったものも見える。”外”で音を重ねることの、期待と不安が晃牙の心臓をはやらせた。
ドラムのフォーカウントで、リードギターのソロでイントロが始まる。バッキングである晃牙の出番は、八小節後だ。この二週間夢に出るほど聴き込んだ曲の流れは身体に染み付いていた。きっと意識が飛んでいたって弾けてしまうだろう。怯えるような緊張はない。込み上げるのは、今にも暴れだしたくなるような楽しさだ。身を委ねるのは、心臓の鼓動の速さではない。曲の地盤であるドラムの音で、そこに寄り添い低音を担うベースの音だ。その、はずだったのに。
「…………?」
──なぜか噛み合わない。縦は確かに合っている。それなのに、音のバランスにどうもまとまりがない、ような。自分が耳にしているのは足元のモニターから流れる中音だけだが、これで果たして外音はどうなっているのか。メンバーの顔を見回せば、彼らの顔つきもまた険しい。最後にPAブースに顔を向けた、瞬間。
「止めろ」
ナマエはワンコーラス聴かずに、一声で演奏を止めた。
「大神。ステージ降りて」
「は? なんでだよ」
「自分の音聴いてみろ、フロアで。たぶん、わかるから」
つまりはスピーカーで客が耳にする外音を、自分で確認しろと。言われるままに、晃牙はギターを持ったまま、ケーブルを引きずってステージから降りた。ひとのいないフロアの真ん中に立って、舞台を見上げる。ここは、昔の自分がいた場所だ。戻りたくない。あの上に、いたい。
間もなく、再度スティックがハイハットを打つフォーカウントが鳴り響く。リードギターのイントロの後、自身のギターが入って、ベースとボーカルも混ざり──その原因がやっとはっきりした。道理で合わないはずだ。
晃牙はギターを弾く手を止め、手を上げて全体の演奏を止めさせる。スピーカーから、ナマエの無機質な声がした。
「おまえに問題。これから調整するツマミは?」
「……ゲインとトレブル」
「おまえやっぱ耳いいね。正解。どうぞ」
ステージへと戻りながら、晃牙は内心舌打ちをする。ナマエはこれを知っていて敢えて、晃牙に自分で気付くよう仕向けた。それが意味するのは、試されたということ。知れば知るほど、どうしても”気に入らない”が先立つ男だ。
「ある程度はこっちでも調整するけど。限界あるから。個性を殺すんじゃない。自分の役割を、把握する。それだけ」
頭を過ぎったのは、零の歌声の後ろで鳴る彼のドラムだ。湊はきっと、役割を全うしていた。零が望むように、観客が望むように。
結論から言うと、晃牙の音は浮いている。このバンドも、傾向としては彼の好きなロックの路線。音源に寄せ過ぎる必要はないと言われたのもあり、自分なりの最高の音作りをしたつもりだった。それが、どうも過剰に歪ませてしまっていたらしい。音が抜けすぎて、ボーカルの帯域とも被っているときている。これでは、バッキングの役割を果たせているとは胸を張って言えなかった。
スタジオ練習ではボーカルの音抜けを邪魔しているようには聴こえなかったはずだけれど、スタジオはそもそもスピーカーの向きも変わるし、部屋のつくりで聴こえ方も変わる。フロアで聴いた自分の音で、晃牙は知った。自分の思い描くかっこいいだけでは、全体のかっこいいは完成しないことを。
「あとおまえらさ、大神に遠慮しすぎ。上手いからびびったんだろ。外から来た奴にそんな耐性なくてどうするんだ、この先」
情けない、と容赦ない言葉を立て続けに浴びせられ、「すみません」とボーカル上手ギターがマイクを通して唸るように謝罪した。彼らは自分に遠慮して言えなかったことがあったのだろう。
ナマエの表情にはやはり何の変化もなくて、ひとを窘めていてもただ淡々とやるべき仕事をこなしているだけのようだ。それは昔日の、ステージの上でスティックを振るうときの彼と、まるで変わりがなくぴたりと重なってしまう。本命でやっていたバンドも辞めて、あっさりと舞台上から去った彼が何を思っていまPAミキサーと向かい合うのか。晃牙には、想像もつかないことだった。