「桜河?」
 己の名前が突然に音となり空気に混ざったとき、桜河こはくの全神経はその音を放った誰かがいる方向へと注がれた。身に染み付いた反射である。叩き込まれた技術である。背後を取らせることは死を意味すると、叩き込んだその人は言った。逆を言えば、背後を取れれば相手を追い詰められるとも。
 その有用性を、こはくは齢十五でよく知っている。知っていたから、このとき気配なく背後に立った誰かへの対処に、こはくは久方ぶりに緊張で全身を満たそうとした。満たし、かけて。
「なに。その顔。熊でも見たみたいだ」
「……ナマエ、はん?」
「うん。熊じゃない。残念だったね」
 振り向き様にあっさりと視界に収まってくれた男の、敵意の有無を認識する──時間にして一秒もかけず、本能が判断を下す。敵意なし。これは無害。同時、緊張がするすると抜けていくのを感じた。
 気を張る理由は消えても、油断をしていいと判じたわけではなかった。そういう手合だ。桜河こはくから見た、ミョウジナマエとは。表情に見て取れる彩りは一切ない。眉も、目も、口も。ここに立つ誰よりも、動きがないように見えた。どこまでも"無い"のに、この人口密度の高い場所でも決して埋もれない。否、あるかないかなど最早関係ないのかと思い直す。表情での修飾を必要としていない、が正しい。
 埋もれないとは、言い換えれば浮いているということ。そのくせ、敷居の高さを意識させる音楽堂のロビーにいても場違いという印象はなかった。紅梅色の絨毯を踏みしめるありふれたスニーカー、街を歩く軽薄な若者とお揃いの張りのないシャツやデニム、それらすべて、まるで己が上等な気品を持ったものであるかのような顔をする。その傲慢を、ここに存在することを許されている。恐らくは彼の持ち物であるおかげで。
 壁沿いに飾られ場内の華やかさを演出させられる、値段のわからない贅沢品のような男だ。無闇な見せかけの品の良さ──彼をそう評した、本家の少年の煩わしそうな顔がちらつく。問題は、彼自身がそう見せようとしているわけではないところにあるのだろう。
「そんなに驚くか。ふつう」
「いやだって、ぬしはん今気配なかったやろ。そんなんで背後立たれたら、一般人やったら心臓止まっとる。熊よりずっとタチ悪いで?」
「存在感、薄いかな」
「ちょっと、いやだいぶ、そういう話やないけど。まあええわ、どうでも。……言うてるそばからなにを考え込んでるん?」
「熊と比べるから」
「先に熊とか言い出したんそっちやろがい」
 会話の主導権が、宙にあるような気がした。あれが掴もうとも手放そうともしないからだ。ナマエがもう少しお喋りな男であれば会話のペースを根こそぎ持って行かれそうな気もするが、幸か不幸か彼はそうではなかった。ただただ、マイペースなだけだ。隙の無さそうな空気を身に着けながら、口を開けば存外無防備でさして何も考えていなさそうでもある。
「こんなとこでなにしてはるんや。っちゅうのは、愚問か」
「月永のコンサート。見に来た。おまえも、招かれたんじゃないの」
「生憎そんな仲やないな」
「じゃあ、招かれてない客だ」
 招かれざる客と見抜かれたようで、警戒心がどきりと脈打つ。ひんやりとして淡い茶色を帯びた瞳を一直線に向けられると、更に居心地が悪くなった。時間の経過が、やけに遅い。自分たちの横を、背後を、何事もなく通り過ぎていく人たちと同じ時間を過ごしているとは思えない。
 ナマエを隔てて奥の白い壁には、無機質さを有耶無耶にするための絵画。額縁の中には、オーバーコートと帽子をまとい同一の格好をした男たちが、異国の青い空とアパートを背景に宙に浮いたまま散らばっていた。不釣り合いな組み合わせだ。
「いいけど、どうでも。おまえひとり?」
「……ナマエはんも? そっちはレオはんと、仲良かったんやっけ」
「仲。仲は、普通」
「普通っちなんやねん。ようわからんな」
「そうかな。普通は、普通だろ」
 内容のいい加減さのわりに本人は至って真面目に答えているようだったので、こはくの方も真面目に困った。ただ、納得はある。顔を合わせたのはごく最近でも、こはくはミョウジナマエという人間の存在を少しだけ把握している。朱桜司の話を通し練り上げられた、薄っぺらいミョウジナマエ像。話半分にしていたが、司の話と概ね相違はなく、食えない奴だし確かにこれは司の手には負えたものじゃない。想定よりも、やや"阿呆"ではあったが。
 手に負えないと言えば、月永レオもそうだ。"普通じゃない者同士"で、曰く"普通の仲"なりの見え方とはどんなものだろう。案外"普通"はただの照れ隠しで、レオとの関係はそれなりに良い形に収まっていたりするのだろうか。延いては情報源として、この男はこはくの役に立つのか。一石投じてみなければ、頭の中だけでは何も見えてきそうにない。
「ナマエはんから見たレオはんって、どういうひとなん」
「月永? べつに、普通」
 仲を問われたときと変わらず。思考するような間が挟まれることもなく、算数の公式を答えるのと同じ気軽さと淀みのなさ。ああそうか普通かありがとうと、こちらまで危うく引っ張られるところだった。
「いやいや、あの月永レオ捕まえて普通っちことはあらへんやろ。どんだけ適当なんや自分。それとも、わしは馬鹿にされてるん?」
「普通は盛ったな。変だ。変な奴だ」
「それはぬしはんが言いなや」
「文句ばっかだね、おまえ。司みたい」
 嫌味とも取れる付け足しに。なぜか愉快そうな柔らかさが伴っていたので、こはくはつい反応を鈍らせた。彼を語る司の声が頭の片隅で丁寧に再生される。
「……坊から聞いてた通りのひとやな、ナマエはんは」
「そう」
「もっとあるやろ。何聞いてたとか気にならへんの」
「どうせ悪口だろ。あいつ、おれのこと好きじゃないから。好かれる理由もないけど」
「いきなり蟻食べてたいとか言い出して庭連れ回しよったら、そら悪口言われても文句は言えへんやろ」
「……そっち?」
「そっちもどっちもあらへんわ、さすがに坊に同情した。わしがその場におったら、ナマエはんは今この世におらんかったかもしれへんよ」
「あれは確か、蜜蟻なのに」
「心底どっちでもええわ……」
 司の文句は、正当だ。真っ直ぐに育った彼だからこそ、この男へのクレームはきっと尽きない。雑な人間性。反して、真っ直ぐ伸びた背筋と、雑さ荒さの見当たらないスマートな所作。見せかけの品の良さ、それに説得力を持たせてしまう見目。なるほどこれは、詐欺に近い。司とナマエ。二人並ぶ姿が、こはくには意外と想像がつきやすかった。司はこの青年が昔から好きじゃない。けれども、無関心でもいられない。ずるい奴を相手取っている。
「悪口、色々聞いてるならそれだけじゃないだろ。たぶん。でも逃げないんだ、おまえは」
「顔見知りに話しかけられておいて逃げ出すなんて礼が無さすぎやろ」
「逃げられたことがある」
「それはそいつらに礼がなかっただけじゃ」
「逃げてもいいよ、いまから」
 悪口の中身を、察しているようだった。ナマエの無頓着さが際立った平和なエピソードだけではないことを。振る舞いが身分不相応であったがゆえに、己は忌避されて然るべきと。理解し、諦観しているのか。
 逃げる理由がない、とこはくは答えた。司の愚痴も、外から耳に入る噂も。恵まれた裕福な家でゆるゆる育った子どもがグレたから、実家の窓ガラスを何枚割ったから、だからなんだという話だ。箱入りの人々には刺激が強かったのかもしれないけれど、こはくにしてみれば恐れるに足りない。自分の敵ではないのだから。
「司は、それでいいって?」
 周囲から腫れ物扱いされている自覚は、十分過ぎるくらいに持っているらしい。あの家の子どもには関わるなと、そういうお触れも事実存在するのだろう。
 朱桜司は。彼からは、そのような命を下されたことは一度たりともなかった。記憶にある限り、昔の彼は寧ろ気にかけていた側だ。ミョウジナマエを野蛮な人間と断じて尚、一定の好感度は保っているように見えた。というか、あれは期待を捨てきれないといったところか。そんなこと、わざわざ伝えてはやらないが。
「本家からはそんなしょうもないことに言及されへんし」
「意外」
「それはこっちの台詞や。ナマエはんこそ意外と、鈍感なんやね」
「……そうかな。いやそういう話か?」
 苦笑すら、嫌に様になっている。顔つきに僅かな人間味を灯しつつ、ナマエは腕時計を確認していた。
「まあ個人的には、長話したいタイプでもないんやけどな。そういう理由で、お望みどおり退散したるわ。開演時間、そろそろやろ」
 開演間近のアナウンスが会場内に響き、周囲をうろついていた観客が吸い込まれるようにホールへと消えてゆく。多少時間は持っていかれたが、これからの予定に支障は無い。今後の動きを頭の中で思い描きながら、二人の貸切のようになったロビーから一旦離脱しようとこはくは踵を返して。突き当たりにある階段を見据えたとき。
「待って。忘れ物」
 引き留められるとは、露ほども想定していなかった。振り返ると、先程と同じ佇まいで、ナマエがそこにいた。
「逃げろ言うたり引き留めたり、一体──」
「月永の話、聞きたいんだろ」
 うんともいやとも、言えなかった。普通、あるいは変以上の答えが、本当に彼にはないのだと思っていた。
 ナマエの視線がゆらめいて、こはくから少しずつ距離を取ってゆく。その先は、ホールへと続く観音開きの扉。あの向こう側は、これから月永レオがたくさんの観客を自身の世界へと誘い魅せるための場所となる。彼から生み出され彼が奏でる音楽たちを直接浴び、観客は彼が天才たる所以を知る。昔の人は、音楽を魂のクスリと呼んだ。月永レオはその強いクスリで、魂を酔わせるのだろう。
 なんとなく、この目の前の男は、そういうものとは無縁な気がした。こうしてコンサートに足を運んでいても尚、クスリに陶酔する絵が見えてこない。
「あいつは。月永は、引き寄せる奴だよ。よく何かに巻き込まれてる。昔から。あれで案外、律儀だから」
 水面を気まぐれに揺らすだけだった静謐な海が、明確な起伏をつくったようであった。夜で満たした海水の膜へ映り込んだ月に僅かな抵抗を示すように、それを掻き消すように。持ち上がり、間もなく落ちてゆく。酷くなだらかな起伏を、見た。幻かと思うほど一瞬でそれは霧散し、こはくは口を開くのを忘れかけた。ゆっくりと思考の焦点が合う。見えてきたものと知っていることをひとつずつ違和感と照らし合わせて、ひとつの確信を得た。
「──ナマエはん、知っとるな?」
「なにを」
「やられた。親とも親戚ともまるごと仲悪いって評判やったから、ノーマークやったわ。無知なお坊ちゃんでもないわけや。それで、さっきのはもしかしてお友達の心配をしとるんか?」
「どういうひとか、に答えた。その方がいいとは思ったから。でも、特に心配はしてないよ。おれには、関係ない」
 彼の"関係ない"、には当然親愛から来るような暖かみはなく、それでいて不思議と他人を突き放すような冷たさもなかった。薄茶の双眸が再びこはくの元へ帰ってくる。起伏のない瞳だった。なにかを誤魔化すような素振りもない。
「友達だったこともないし」
「えぇ……? わざわざ時間割いてコンサート見に来とるのに? いや仕事仲間っちことなんか?」
「暇だったし。友達じゃないけど、嫌いじゃない。見ててやるくらいは、するよ」
 こはくには、友達の定義はよくわからない。学校にもまともに通ったことがなく、狭い人間関係しか知り得ない。それでも尚、ナマエの言い分が一般的ではないように思える。あれは旧友を心配するようなものに見えたのだ。
「おかしな冷め方してはるなぁ」
「そんなつもりはないけど。おれは、人を逐一気にかけて心配する余裕がないだけ」
「でも口は出すわけや。やっぱりようわからん」
「友達でもない奴に時間を費やすのはおかしい。心配して、大事に守ってやらなきゃ友達としての情がない。おまえは、そう思う?」
 問いかけながらも、肯定や否定を求めているわけではなさそうだった。こはくがその答えを持っていないことまで、見通しているかのように。
「言ってみただけだよ」
 感じた通り、ナマエはこはくが何か言う前にそう締めくくった。悪戯っぽく上がった口角が、彼を急に幼い生き物と錯覚させる。嘘も誤魔化しもないのに、人と同じように息をしているくせに、こんなにも不透明な人間がいるなんて。
「それが、ナマエはんの普通っちやつか」
「うん。まあ、忘れていい。”しょうもない”だろ」
「いや、よおく覚えといたるよ」
 ふふんとこはくが笑うと。ナマエは目をまるくしたのち、少しだけ眉をひそめた。今度は都合が悪そうな顔をして。理解できないことが積み重なりもやついていた胸がすっとする感覚を味わうのは、久しぶりだ。ここ最近の八つ当たりに近いことも、認めるけれど。
「意地が悪い」
「ナマエはんの坊への対応には負けるわ」
「そんなにひどいことしたかな」
「……ほんまタチの悪いひとやな。全人類がぬしはんと同じ好奇心と感性で動いとるわけとちゃうし、その辺の他人の好き嫌い得手不得手を一時的にでもひっくり返させるくらいのもんを自分が持っとる自覚くらいはいい加減したらどうや。っちゅうか、今すぐ気付け。なんでわしがこんなこと言わなあかんのじゃ。こんなん熊の方がまだお利口さんやろ」
「おれ熊に勝てるところないな。そうか」
「納得するなや。しかもそこちゃうし。ああもう、ナマエはんと話してたら忙しないわ」
「おつかれ」
「……やっぱわしは喧嘩売られとるんか?」
 生産性のないやりとりを切り上げるため、早くホールに収容されてしまえと責っ付いた。一度別れてしまえば湊は惜しむことも振り返ることもなく。姿勢の良い背中をこはくに向けてそのまま、月永レオの舞台を目指した。
 難儀な男が消えてくれて、正直安堵はある。あれは悪意もなく悪気もなく、けれども善性と呼べもしない。独自の感性でやりたいようにやる、を体現しているだけだ。だから読めないし、あの立ち位置は利用できれば便利かもしれないが、彼の掌握に時間をかけても徒労に終わることは火を見るより明らかだった。
 どうして一瞬でもあんなによくわからない生き物に期待や理想を見ようとしていたのか──本家の兄のあまりにも儚いそれを心から疑問に思って。ロビーに残る最後の一般人となったこはくは従業員の手で扉が閉じられてゆくのを黙って見つめた。分断される空間。ホールの内側と外側。知っている者と、知らない者。いや、あれは知らないふりをしている、だけだ。
「タチ悪いわ、あんなん」

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