ナマエの人間関係における取捨選択は、わりと他人任せだ。選び取るのも拾い上げるのも簡単だが、彼のスタンスはいつだって来る者拒まず、去る者は追わない。ESに所属し出会いの場が増えてからは、その傾向が特に顕著だった。それは体感、少し流れのはやい川を強引に進んでいるようで。目の前に迫りくる岩を避けずによくぶつかった。小石の脇を通り過ぎることも、あった。繋がる縁と、解ける縁。案外バランスが取れているのだと、なんとなしに思ったことがある。
本来の用途から大きく逸れて活用されている男子用シャワールームは、更に現在男7、女1と異様な男女比率を呈しつつ沈黙していた。この部屋の主たるシャワーにはここにいる誰も見向きもしない。
「それで、結局なんでおまえら知り合いなわけ。納得できるように説明してくれる?」
「瀬名を納得させる必要ある?」
「……はぁ?」
響くのはタイルを打ち付ける細かな水音ではなく、機嫌をひん曲げた粗い声音だ。歌えば観客を惹きつける芯ある美声だが、唸れば声の通りの良さと芯が別ベクトルで作用して人を蹴散らせそうだった。要は良くも悪くも、当たりがつよい。
「…………っ」
「怯えてるけど。いちかが」
「俺に向かって言わないでくれない? まるで俺が悪いみたいじゃん。こっちは訊きたいこと訊いてるだけなんだけどねぇ? なんでそんな逃げ腰でびくつかれなきゃいけないのかなぁ? つうか、あんた人の話聞いてる?」
「そうやって詰めるからだろ」
だいたいわかった、と呟くナマエは、この数分でいちかと泉の間に存在する見えない壁を把握した。分厚すぎるという程ではないにしろ、高すぎる壁ではある。この段階に来るまでになにかしら起こったのは確かなのだろうが、なんにせよ大本の原因は相性の問題だろう。泉と相性のいい人間を、ナマエはあまり知らない。思い返せばいちかと相性の良い人間も、あまり知らない。彼女に至っては、相性の悪い方もだ。
泉が前方を射抜くように睥睨していた。ナマエの感覚では大して鋭利でもないその視線を受け止めるいちかは、十分に顔をひきつらせている。珍しくシュシュで括られている彼女の髪が、肩を揺らす彼女に合わせて上下した。その髪型も、制服や私服とは違う軽装も、今日という日のためのものだろう。決してこんなところで人質にされるためではなく。
相手が男でも女でも容赦のない幼馴染を横目で眺めて、ナマエは何気ない動作で彼のパーカーの首元に長い指を添えた。泉は一瞥だけ投げてきたものの、すぐにまた空色の瞳にナマエは映されなくなる。そうして藍色と白に彩られたフードの下、Tシャツの襟元をつまんでそのまま下方に引き下ろすと、間もなく。泉はナマエの予想よりもやや潰れた、ぐえ、というアイドルらしからぬ音を鳴らす。直後、五秒と待たずにナマエの後頭部を鋭い痛みが駆け抜けた。
「殴るなよ」
「あんたが急に引っ張るからでしょっ?! 殺す気か!」
「たぶんおれの方が痛かった」
「ぜったい俺の方が苦しかったんだけど!」
「だ、大丈夫ですか……?」
「ねえそれどっちに言ってるわけ?」
「っ、えぇ、と……」
「ほらまた詰めてる」
詰められている方の、蒼白した顔を見ながら。記憶に散らばるぼんやりとした彼女の姿を手繰り寄せた。
ナマエの元アルバイト先でありいちかが出入りしていた場所でもあるライブハウスは、治安の悪化がすこぶる捗っていた時期がある。常連客は見た目も態度も泉よりずっと厳しい者ばかりだった。それでいて、いちかが彼ら相手に怯えた姿は、どんなに漁れどもナマエの記憶にない。距離を取ろうとも、していない。であればなるほど、この壁は天辺が見えないほどに高いらしい。さすがだ。さすが、瀬名。
「よく築いた。すごいよ」
「気づ……なんの話?」
感心のこもった強さで泉の肩をぽんとたたいて、当たり前にわいた泉の疑問は流しておく。困惑を浮かべて首をかしげるいちかとも目が合ったので、とりあえず頷いておく。彼女は曖昧に浅く首を縦に振った。たぶんなにも伝わってはいない。誰にも。
やがて、彼女の後ろで撃沈し頭を抱えていた青年が、唐突にがばりと勢いをつけて腰を上げた。重力に逆らって揺れ動く橙色を意に介さず、レオは真っ直ぐに人差し指の先でナマエを捉えていた。
「ていうかおまえらなんで知り合いなんだっけ?! いつどこでどこでなにをなんでどうやったら、人質にしたりされたりする関係になるのっ? ずるい!」
「あ、月ぴー復活した」
復活はしたが、その場から一歩も動く様子はない。レオの指先と動揺を帯びた目を順に見て、ナマエは素っ気なく言った。
「妄想したら。好きなだけ」
「い、今のおまえにだけは言われたくない……! 絶対に近寄ってやらないからな? そのお兄ちゃん身長でおれを高いところから見下ろそうとしたって、そうはさせない! まだ負けてないぞ。針を刀に替えてやる、丸呑みしたっておまえのお腹の中を刺しまくって暴れてやるから!」
「なんで今の一瞬でおまえのサイズ自認一寸になったの?」
「持ち運びが、しやすそう」
ぽつりとそうこぼしたのは、いちかだった。
「ポケットにも入りますね、一寸だと」
「入るけど。月永を入れたくはない、おれは。暴れそうじゃん」
「……暴れる?」
いちかが問いかけた相手は、ナマエではない。ごく間近から見上げられ、訊ねられたレオは勢いを殺されて、あるいは振り上げた拳を下ろせないようで、どことなく弱って見える。眉間の皺が増えたり減ったりを忙しなく繰り返していた。昔から、ナマエから見ると疲れないのかと思うくらいに感情を表に出す人種ではあったが。こういう顔をする青年だったかは、定かではない。なるほど、とナマエは誰に宛ててでもなくひとりごちる。
「暴れ、ない、けど。ポケットの中で感じる音は、楽器の距離と振動の伝わり方がいつもと違ってそこには新しい世界が開けてるのかもしれないし興味もあるけどっ。待って、もしかして、おれは今いちかに小さくなることを求められてる……?」
「はいはい心配しなくても人間は小さくなんないからぁ。なんで揃って妄想に巻き込まれちゃうわけ。ちょ〜だるい」
しびれを切らしたように仕切り直しに入ったのは泉だ。短気な彼にしては恐らく持った方だ。すっかり抜けていたが、彼の機嫌はべつに直ったわけではない。
「それで。おまえらいい加減白状すれば? べつに言えないような関係でもないんでしょ〜?」
「粘るね、おまえも」
「隠すから」
「隠してないよ」
どこかで縁があって知り合った。ただそれだけで、そんなことは泉たちだって同じだろうにと。そんな理屈を並べて、誤魔化していると泉に取られるのも後が面倒だとよく知っているナマエは、大人しく答えを用意することにして。
「関係の白状か。いちかと」
「ナマエさんと、関係」
答えらしい答えを捻り出すために、二人揃って唸った。白状するほどのなにかを築き上げたつもりはなく、何を言えば泉の言う納得に持って行けるのかナマエにはわからない。同じくなにか考えていたらしいいちかと、再び控えめに視線が重なる。口を開くのは、ナマエが先だった。
「バイト先の、客?」
「お店の、スタッフさん?」
互いに答え合わせをするまでもない。そもそもそこから始まっていることは共通認識。そして本来はここにあともうひとり。残りのひとりはともかく、いちかとはアルバイトへ行かなくなったことを機に顔を合わせる機会が消えた。怒涛の日々に押し流され、時間を費やす場所が変わって、その中で解かれた縁のひとつなのだと思っていた。しかし。
「今は、店では会わないけど。なんだかご縁が、続いてた? 感じです。たぶん」
彼女の回答は当事者であるナマエからしても、過不足がない。けれどもやはり詳細がないので、当事者たち以外は腑に落ちていないようだった。
エアコンのぎこちない稼働音が、室内を無音からかろうじて遠ざける。確かめるようにこちらをうかがういちかを、視界の真ん中に据えた。会わなかった間にも彼女が重ねてきた時間の長さを、時折感じ取ることがある。たぶん、自分も同じだ。同じ分だけの時間を重ねたし、無為に過ごしたわけじゃない。
「うん」
そうやってお互い変わったから、ここにいるのかもしれない。拾い上げたつもりはなくとも、途切れない縁があるのは、そういうことなのかもしれず。つまり、瞼の裏に淡く浮かぶ、どこか昏さを拭いきれない面持ちを直接目にすることは、きっともうないのだろう。
「そんな感じ、だと思う。おれも」
理解と納得を腹の中に落とし、軽く伏せかけた瞼を開いてゆく。解けないひとたちが、ここだけでもたくさん在る。変化の先にも、手に残るものが、在る。
薄く微笑んだ少女に向けて、わずかに口の端を上げて頷いて見せたら。先程よりも、ずっと明確な頷きをもらった。