休憩時間に入って数分、晃牙が意識を向けたときのPAブースは、既にもぬけの殻であった。二人分の水を両手に、晃牙はフロア内を見回した。あいつがいない。水の片方は晃牙が頼んだものだが、もう片方はPAブースの主にとバーカウンターで店長から押し付けられたものだ。人選に疑問が残るけれど、ここでNOはないと弁えていたので黙って受け取るしかなかった。
バーカウンターの向かって左奥の扉は、事務所へと続く扉だった。勤務日のスタッフがフロアにいなければ、大概ここで事務作業なり休憩なりをしている。両手の水を零さないように慎重に片肘をそのドアノブに引っかけていたら、気を利かせたスタッフがすぐに開けてくれた。
予想通りの人物が、予想外の姿で、そこにいた。事務所内のソファにて、ナマエはサンバーストのエレキギターを抱えていた。ナマエとギターの取り合わせが晃牙の中で繋がらず、その楽器を持つ人型が最初はナマエだとすぐには認識できなかった。他に誰もいない事務所のBGMは、彼の鳴らすギターの音以外になにもない。オフィス用の机と椅子、コピー機が並ぶ事務所は、ここだけだと一般的な会社のような見てくれだった。けれどもよく見れば壁掛けのホワイトボードには一ヶ月分のイベントスケジュールが書き込まれているなど、ちゃんとライブハウスの事務所らしさもある。一度だけバンド出演の際の精算に立ち入ったことはあるが、ホールやバーカウンターとは違った空気に、少しだけ緊張した。
ナマエの前髪が重力に従い流れ、目元を薄く覆い隠す。表情は見えないのに、どんな顔をしているかはだいたい想像がついた。身体の一部ように操っていたスティックを似合わないギターに持ち替えても、きっと目に見えた変化は彼に起こらない。
「あんたギター似合わねえな」
「よく言われる」
目の前に立っても隣に座ってもちっともこちらに意識を割こうとしないので、仕方なくこちらから声をかけた。ナマエに別段驚く様子はなく、一瞥も寄越さないのに返事はごく自然にされた。見向きもしないくせに、水そこに置いといて、とも。本当に嫌な奴だ。晃牙は左手のグラスをローテーブルに置き、ソファの背もたれに体重をかけながら右手のグラスに口をつける。後方を意に介さないナマエの後頭部がよく見えた。
「ギターも弾けんのか」
「弾けない。パワーコードがぎり」
よく見れば確かに彼の左手の長い指は先程から二本しか仕事をしておらず、本来のコードに存在するはずの第三音が押さえられる気配はない。ギターを弾くのに向いた手をしているのに勿体ない、とそんな感想が素直に過ぎった。
「じゃあなんでギター持ってんだよ」
「これは店の緊急貸し出し用」
「貸し出し? ライブハウスでライブやんのにギター持って来ねえ奴いんのかよ。やる気ねーな」
「本番中、弦切るやついるじゃん。基本ああいうとき用」
彼の言う、本番中に弦を切るバンドは晃牙も見たことがあった。大概は対バンのギタリストに借りて難を凌ぐらしいが、ここではすぐに予備が出てくるらしい。ナマエは、その予備ギターの調整を頼まれていると言った。休憩中に状態だけでも見ておこうと持ち出したらしいが、その説明では色々と不足している。
「弦がびびるって。店長が」
「弦高下がりすぎてんのか。ああいや、最近雨多いもんな。ネックでも反ってんじゃねえのか?」
「当たり」
ナマエの膝に乗っかっていたギターのボディが、不意に宙に浮いた。右手でボディの裏面を支え、左手を棹の裏に添えると、ナマエは目線と平行になる高さまで持ち上げてヘッド側から棹を覗き込む。ギターを弾く手は後ろから眺めているだけでもどこかぎこちなかったのに、ネックの反りを確認する動作だけはなぜか堂に入っていた。
「うん。逆反りだ」
「……で、なんでそれをあんたが見てんだよ」
ギターやベースは湿気に弱い、繊細な楽器である。保管状態次第では弦はサビやすくなるし、木製である棹部分は湿気を吸いそのかたちを微妙に変えてしまう。ネックが反るとは後者のことで、もちろん晃牙にも経験がある。自分自身で調整のやりようがあることも知識としてはあるものの、弦の交換や弦高の上げ下げといった調整とは難易度が変わり、失敗したときのリスクが大きいリペアだ。誰かに教わることができるならともかく、ネットの知識で見よう見まねの修理を試みるよりも、大事なギターを思えば多少お金を使っても楽器屋へ持っていくという手段の方が今の彼には最善だった。それを、ナマエはまるで自分で調整できるかのような口振りで。
浮かせていたギターを抱え直し再び彼が鳴らす音には、やはり第三音がなかった。
「やり方知ってるのはここでおれだけだから。前に教えてもらって、家に転がってたギターで調整の練習したことあって」
「教えてもらったって……まさか朔間先輩か?!」
「まさか。うちの、前にバンドメンバーだったギター。零さんがメンテナンスを自分でやるように見えるか」
「いや、見えねえけどさ。でも、朔間先輩なら出来んじゃねえの」
「出来るとは思うけど。でも、やらないよ。プロに任せるのが一番。それを知ってるひとだ」
知ったふうに言いやがってと思いつつも、妙に腑に落ちてしまった。朔間零はなんでもできる、できてしまう。そして最高のものを知っているからこそ。自身の時間を費やして中途半端にリペアの腕を磨くより、そこに全てを注いできたひとに対価を払い、ギターを最高の状態に保ちながら浮いた時間を他に活用する。きっとそういうひとだ。
「あんたはプロに任せねえんだな」
「それは零さんの話。おれはおれ。そもそも楽器触るのが好きなんだ」
「じゃあ、人のギターも見てやったりすんのか?」
「人のは見ないことにしてる」
「……なんでだよ。やっぱ面倒くせえのか」
「おれはプロじゃない。このギターは昔のスタッフが寄付したやつで、壊しても良いって言われてる。でも他人のギターは責任取れない。触らない」
ナマエが指でボディを弾くと、こつんと響きの悪い音がした。ブラウンのグラデーションが施されたボディに重なる白のピックガードは、目に見えて黄みがかってきている。保管状態のせいなのか、年季が入っているせいなのかまではわからない。ヘッドのロゴは、聞いたこともないメーカーのものだった。その昔スタッフだったというひとが、ギターを始めるときに買った安物なのかもしれない。
晃牙のギターも、別段高価なものではない。定番のひとつ、ストラトキャスターと同タイプではあるものの、有名メーカーのそれは値段のせいで手が届かなかった。このギターも大事にするけれど、もっとお金を貯めて自分のプレイスタイルや音楽性に合うギターが欲しいとも思う。それこそ、憧れの朔間零が持っていたようなものがいい。
晃牙はロックも好きだが、ギターそのものへの興味も強かった。購入前はあらゆるメーカーの、あらゆるタイプのギターを調べ尽くした。メンテナンスの方法も、ネットで慎重に手順を探った。欲しいものも、やってみたいこともたくさんある。そしていつか自分が最高のギターに出会える頃には、更にギターのことを知っておきたい。わがままを付け加えるなら、零のギターだって、自分が。
「なあナマエさん。例えば、俺が……ネックの調整教えて欲しいって言ったら、さ」
ソファから背を離した晃牙が、今度はやや前屈みに座り直す。後頭部しか見えなかったナマエの横顔が確認できるようになったものの、そこから読み取れるものはなにもなかった。切り出しておいて着地が見えなくなった言葉が途切れ、訪れた静寂の時間は一瞬だった。
「教えるのは、いいけど。おれ教え方下手だよ」
「いいのか?! べつに上手く教えてくれとか言わねえよ。ただ、ネットで見てもこう、いまひとつぴんとこねえんだよな。実際に見て注意点とか教えてくれるだけでいいんだ」
「零さんは楽器屋に持ってくよ」
「それは朔間先輩の話だろ。俺は俺だ」
「ふうん」
「俺は、自分でやりてえんだよ。金持ってる方じゃねえのもあるけど、自分のギターのことはもっとわかっときたいっつうか」
「そうか」
わかった、と。なにがわかったのかは不明だが、ナマエはひとりで納得しているようだったし、メンテナンスを教えるつもりではあるらしい。変わらずこちらの話をまともに聞いているとは思えない態度なのに、拒むようでもなく寧ろ受け止められたような気さえする。
一見酷く冷めた人間性を有しているようで、話せば案外突き放されることはないと段々理解してきた。実は絶望的に愛想がないだけなのかもしれないと。
昔一度だけ見に行った、ナマエのバンドのライブ。あのときも、物販スペースにいながら彼はにこりとも笑わないのに、やたらとファンに話しかけられていた覚えがある。物販に置くべき人間を間違えていると呆れたものだが。
「そういやあんたのバンドメンバーだった、ギターのやつ。いま別のバンドやってんだな。相変わらずややこしいリフの羅列だったけど」
「そう」
「興味ねえのかよ」
「ない」
「仲悪いのか?」
「良くも悪くもない」
今回加入したバンドのライブ動画を探している最中に見つけたのが、ナマエの元バンドメンバーの現行バンドの動画だった。
「不仲で抜けたわけじゃない」
「なら、なんで」
「色々ある。そういうもんだろ、バンドって」
ナマエはようやく、テーブルの上のグラスを手に取った。氷がからんと冷えた音を立てる。
「今おまえが入ってるバンドも、色々あるけど。良い奴らだから。仲良くしてやって。たぶん良いとこまでいくバンドだし」
「そりゃ全員上手い人らだもんな」
「表現者としてもおれは好きだけど。上手いだけで勝手には売れない。”大人”が要る。あいつらは、運とコミュ力があるんだ。その大人を動かすだけの。お膳立てはしたし、道筋も見えてる。ここまで順当だ。だからここからも順当に、良いとこまでいくよ」
「……理屈はわかるけどよう、夢がねえよな。つまんねえ。そういうのって」
「うん。そう思うよ。おれも」
まさか同意がされるとは思わなかった。当たり前だと言わんばかりの頷きも添えられている。
「あんたも。ナマエさんも、そうだったのか。大人を動かしてたから、CD流通できたってことなのかよ」
「ボーカルががんばってた。はず?」
「……他人事かよ。やっぱ仲悪かったんじゃねえの?」
言われてみれば口が上手そうなボーカルではあったけれども。ナマエは特別誰かと仲が良いようなイメージもないが、揉めるようなイメージもない。
ナマエは冷水で少しだけ口を湿らせてから、口を開いた。
「探るね。どうでもいいだろ、人のバンドの脱退理由なんか。知ってもどうにもならない。好きなバンドってわけでもないなら、尚更」
心からどうでもよさそうに呟いて、彼は氷だけを残しグラスの中身を空にした。ローテーブルに、再びグラスが戻る。
晃牙は手の中にあるグラスを持つ手に、ゆるく力をこめた。自分が客席で、ナマエがステージで。あのとき思ったことが、感じたことが蘇るような心地だった。脱退理由なんて本当はなんでもよくて、それが”どうでもいい”と同義ではないのは、恐らく勿体ないと思ってしまったからだ。
「確かに俺はあのバンド、べつに好みじゃなかったよ。あんたのドラムも、俺が思ってるロックよりちょっとお上品過ぎるしな。でも、もっとあんたのドラムを聴きたいとは思ったんだ。なんであんなに朔間先輩の曲と相性が良いのかって、気になって。だからCDも買ったし、ライブも一回だけ行った」
「そう。どうも」
「ほんとに興味ねえのかよ……」
結局なにをどう伝えようとも、ナマエの心を動かすには至らないようだった。バンド時代の話はされたくないようにも取れる。あのバンドはそれなりにファンが付いていたはずなのに、その時代に触れられることを肝心のメンバーが忌避しているなんて、当時のファンが聞いたらきっと嘆くに違いなく。なんとなしに腹も立ち、嫌味のひとつも言いたくなって。
「そういや、あんたライブの方が断然上手いよな。CDだと物足りねえっつうか……、下手になってねえ? 普通逆だろ?」
「────」
そこで初めて、ナマエがまともに顔を上げた。薄茶の目がふたつとも、晃牙を捉えて離れなくなった。大きく表情に動きはないが、数秒前までとは違う雰囲気であることだけはわかる。そこにあるのものが、無関心であるはずがなく。晃牙に対するなにかしらの感情が、間違いなく宿っている。
「おまえ、ほんとに耳いいね。驚いた」
声音からも感心の響きがきちんと拾える。目元が僅かに柔らかく細まってゆくところを、ただ黙って見入ってしまった。不覚だった。
「おまえの最初の音作り、零さんにだいぶ寄ってたから。耳が良いとは、思ってたけど」
「……あんたも、そこまでわかんのかよ」
憧れのひとの音と似ていると言われれば確かに嬉しさはあるけれど、それよりもむずがゆさが勝る。
そこから言葉を続けられず、逃げるように手元のグラスへ視線を落としていたら、間もなくナマエがソファから腰を上げた。
「休憩終わりそう。先に戻る」
「……おう」
ギターをすぐ近くに置いてあったスタンドに立てかけ、テーブルの上のグラスはそのままに。未だソファに体を沈めたままの晃牙の前を通り、ナマエは事務所を出ようとして、立ち止まる。
「ありがとう、大神」
やはりどうしても素っ気ない印象になる一瞥と、礼の言葉。それが一体どこに向けられたものなのかは、判然としない。水を持ってきた礼なのか、それとも。"耳が良い"の意味すら、晃牙が知ることはなく。
「つうかグラスくらい自分で返せよ!」
すべて有耶無耶にするように投げやりに飛ばした文句は、扉に阻まれ本人には届かずじまいだった。