人がこの世で初めて光を浴びた日は、何度でも祝福されて然るべきだと認識していた。それが大事な相手であるなら尚のこと。家族、友達、恋人、対象はどうあれそれを祝う、あるいは祝われることは国を越えても普遍的な価値観に違いなく。常識と呼ぶのも違和感があるその誕生日における概念。それが常識ではないと瀬名泉が知ったのは、小学校の頃に一人の少年と仲良くなったときだった。


 人を待つときは、時間の流れが緩やかに思えた。平時なら時間をかけない考え事に、耽る余裕ができるくらには。
 人気のない寒空の下で、泉は天へ向かって首を傾けた。夜更けのESビルは夕方に比べてだいぶ明度を下げていた。それでもまだ光を放つフロアが不規則に点在している。
 ここへ通うのは所属アイドル、アーティストの他に、プロデューサーやマネージャーなど所謂裏方を担うスタッフたちだ。その中で特にスタッフは頻繁に夜遅くまで居残っており、そこに男女は関係ない。泉のよく知るプロデューサーの少女も例に漏れず。根詰めやすい彼女を気にかけることは以前より増えたものの、お礼を言われるばかりで頼られる気配はない。
 気心知れた間柄である青年、ミョウジナマエも。一時はアイドルとして同じステージに立ったこともあったが、今は裏方としてこのビルに所属していたし、彼もまた残業に追われていることが珍しくない。そもそも現場の技術スタッフでもあるナマエは大きな現場になると朝七時から現場に入り夜十時まで拘束されているなんてざらにある。昔から大して体力もないくせに、よくやるよねぇと嫌味をいくつか投げてみたことはあるけれど、「おれもそう思うよ」と同意で返ってくるので張り合いがなく、それ以上なにか言う気も失せてしまった。
 泉が芸能活動を始めたのは夢ノ咲学院でアイドルを目指すよりもずっと前で、スタッフの仕事というものは年齢の近いアイドルたちよりももう一歩踏み込んで理解しているつもりだった。しかし身近にそのジャンルの仕事を担う者が増え、解像度が更に上がってきているらしい。結果、プロデューサー然り幼馴染然り学校と仕事の両立で大なり小なり無茶をしているのが視認しやすくなってしまった。結局泉がどれだけ声をかけようと、本人たちの仕事量が減るわけでも生活が変わるわけでもない。休めるときは休んでとどれだけ言い聞かせても、ちっとも言う通りに動きはしなしないのだ。この業界で働いている人間は、ワーカーホリックが多すぎる。どいつもこいつも。
 そんな呆れと内に募る心配の混じった息をついてESビルを見上げるのをやめたとき、泉の横に白のセダンが止まった。吊り目めいたかたちをしたヘッドライトが暗闇で包まれた周囲を白く照らし上げ、元々街灯がぼんやりと作っていた明暗の差を、明確なものへ変えた。
 ウィンカーが両側ともに自身の存在を主張するようにちかちかと瞬き、ヘッドライトと一緒になって夜目を刺激する。直後、泉のポケットに収まる端末が震えた。薄っぺらいそれを取り出して画面を確認すると、メッセージアプリからの通知が一件。
"乗って"
「いや普通に声かけたら?! なんなの。ちょっと、聞こえてるよねぇ!」
 どんな無精だ。棘がある言い回しを微かに柔らかい声音で並べながら、泉は荒々しく前ドアを開いた。冷たい風から守られたそこは、有り難くも冷え切った身体を労るような温度だ。
 車内には、どことなく聴き覚えのある音楽が流れていた。流暢な英語を紡ぐ歌声は高音がきんとしておらず、つまり耳に優しく疲れない。ナマエが車内で流す洋楽は大半が知らないものばかりで好みのものもそうじゃないものも同じくらいあったけれど、恐らくこれは好みだと話したことがあったものだ。
 運転席に乗る青年に形容すべき表情はなかった。文句をつけつつ助手席に乗り込み力強くシートベルトを引っ張る泉を、彼は横目で一瞥する。
「壊れる」
「壊れたことないでしょ」
「まあ社用車だから。いいけど。壊れても」
「いいわけないから。自分の車は?」
「通勤に自分の車使ったことないよ。今日は現場だったから社用車で直帰してやろうと思って」
「直帰って言うけど、ここまで戻ってきたら意味ないんじゃない?」
「ビルに入らないから。直帰だろ」
 謎理論を展開するナマエに「あんたがそれでいいならいいけど」と続けたら、浅い頷きと共に静かに車が発進した。
 最初こそ彼の運転する車に乗るとなると身構えたものだが、今ではそんな警戒をしていたことが遠い過去のようだ。どうやら、ナマエは歴のわりに運転が上手い。何人もの運転手が操る車を経験してきたからこそ、泉には良い悪いの区別がつく。驚くほど縦にも横にも揺れず、右左折も車線変更も必要最低限の動作で早すぎず遅すぎないときていた。生意気にも。
 ドリンクホルダーに伸ばされたナマエの左手をつい目で追っていくと、その手はやがて小さなペットボトルをキャップの上からつまんだ。持ち上げられたそれはこれから手の持ち主の喉を潤しに向かうのかと思っていたら。予想外にも、泉の方へとやや勢いを付けて飛び込んでくる。反射で両手の中に収めたボトルは想定以上の熱をはらんでいたので、泉は無意識に声を上げることとなった。
「あっつ……!」
「やる」
「……、あんたさぁ」
 意識しなければ湧き水のように溢れてくる文句は強い意志で打ち止めにして、手中のラベルを視線でなぞった。ボトルを一周するようにぴたりと貼りついた黄緑のビニール。その緑茶は、未開封だ。購入からそう時間が経っていないのか、十分に温い。外が冷え込んでいたせいで、尚更そう感じた。
「気が利いてるんだかないんだか……ていうか急にどうしたの?」
「寒かったから」
「それ答えになってないから。……まあありがとうね」
「どういたしまして」
 泉は自分が素直ではないという自覚がある。そして、この幼馴染も大概気の遣い方が下手くそだった。彼の場合は素直じゃないと言うよりも、素でわかりにくいだけだ。
「待たせてたか」
 長い指で髪を片耳にかけながら、ナマエは素っ気なく泉に訊ねた。
「そんなに待ってない。俺の方も仕事が長引いちゃったから。こんなに遅くなることってあんまりないんだけどねぇ。残った体力ぜんぶ持って行かれた」
「おつかれ」
「あんたもね」
 撮影、取材、収録、あらゆる仕事が重なりに重なって詰め込まれて、目まぐるしく忙しかったのが今日という一日だった。まさか日付が変わる直前まで帰れないとは思わなかった。ナマエが迎えを申し出てくれて本当に助かった。今から歩いて帰るなんて考えたくもない。
「そういえば、今日はどういう風の吹き回しだったわけ? 車で迎えに行くって昼間にメッセージ受け取ったときはエイプリルフールの前倒しかと思った。あんた普段俺が言わないと迎えなんて来ないじゃん。つうか、呼んでも来ないときあるし」
「うん」
「うんじゃないよ」
 前方を見つめる横顔が不意に泉の方を向いたが、この暗さでも薄茶の目が自分を捉えていないことはわかった。泉越しにコーナーを確認していただけなのか。骨ばった手がハンドルの奥から生えているレバーを操作し、のちにハンドルを慣れた手つきで捻る。間もなく、車体はスムーズに左へと進行方向を変更した。
「あんたも朝早くからさっきまで仕事だったんでしょ。こんな日に迎えに来てなんて言うほど俺も鬼じゃないんだけど〜?」
「でも、その方がいいと思って」
「はぁ? なぁに、夜道の心配でもしてくれたの?」
「そんな心配はしたことない」
「……ああそう。されても困るけどさぁ」
 心配するのはいつも自分ばかりである。ナマエの思考は未だに予測の斜め上をいったり下をいったりして読み切れたことがない。意味があるようでなかったなんてことも付き合いが長いと一度や二度じゃないので、深く考えても無駄だと泉は心得ていた。
 けれども、今日は。というか、あと数十分でやって来る明日という日は、泉にとって普段通りとはいかない日だったので、気を抜くと彼の行動を都合よく解釈してしまいそうになる。ナマエが寮まで一緒に帰ることを提案してきたのは、明日に起因しているのではないかと。先程から会話の裏でそんな予想を密かにしては、それはないと泉は切って捨てている。彼に期待したって、仕方ないのだと。
「あんたとは十年以上の付き合いになるけどさ、いつまで経ってもなに考えてんのかよくわかんないよね」
 愚痴のような、独り言に近い何かを落とし、やや後ろに倒された背もたれに体重を思い切りかけながら、足を組んだ。運転手がよく見えるようになった。泉の身体を柔く押さえるシートベルトは、彼の動きに合わせて延び縮みを繰り返す。
 なによりも美しいものを目指してつくられた石膏像のようにかたちのいい横顔は、動きのなさまで石像のようだった。中学の頃に遠足で行った美術館を思い出した。あのとき隣に本人がいたら、ひとつとひとりを並べた写真が撮れたのに。
「十年。いやもっとか。長いな」
 やや感心の滲んだ呟きが、その唇からこぼれるのをじっと見つめた。窓から入り込んでくる街灯の光は、ナマエを覆い尽くそうとする薄暗さを度々剥がしていた。
「……そうだねぇ」
 頷きで応じて、会話が途切れる。そこから先が続かないのは、泉がそこに集中していないのもある。
 自分の誕生日が、近い。近いどころか、目と鼻の先まで迫っている。そわそわするような年齢ではなくとも、思うところはある。
 昔、誕生日には家にナマエを呼びつけていた。泉が誘わなくとも、気付けば両親が勝手に招待していた。
 ナマエは、泉と出会うまで誕生日を祝うということをよく理解せずにいた。祝福することもされることも、知らなかった。だから毎年自分の誕生日とナマエの誕生日、どちらも強引に祝ったり祝わせたりしたものだ。中学の頃は疎遠同然だったけれど、誕生日だけは違った。高校に入り家に呼ぶことはなくなっても、泉は「おめでとう」を伝えることだけはやめなかった。毎年、泉はナマエの誕生日にメールを送る。少し夜更かしをして、日付が変わった頃に。同じ行為を、泉が返してもらったことはない。ナマエは連絡を無精する方だ。今までも、これからも恐らくそうだろうが、泉はそれでもメールを送り続けるつもりだった。同じものを求めているのではなく、与えていたいだけだ。あるいは知って欲しい、だけだ。
 家族に大げさに祝われる、ちょっと面倒臭い日だったのだ、泉にとっての誕生日とは。でもそれが普通ではないと知ってから、自分がその普通を彼に与えなければと生まれた使命感は、なぜか今日まで色褪せずに胸にある。
 努力の甲斐あってかナマエは泉の誕生日を一応覚えるようにはなった。ポッキー一箱というありがたくもないものでも、誕生日プレゼントであることに変わりはないので成長と呼ぶことにしている。丁度一年前のことだ。ポッキーの内一袋は当時クラスメイトだった羽風薫に横からさらわれるというケチがついた日でもあった。誕生日が明日の奴は引っ込んでてと睨んだ。
「おれは。十年ちょっとで色んなことを、瀬名に教えてもらった気がする」
 心無しか柔らかにそう切り出したナマエの目線は、彼が有効活用していないナビゲーターのディスプレイを捉えているようだった。
 何気なく泉もそちらを見やると、ディスプレイの隅っこに表示された時間が自然と目に入る。それは、あと二十分程で日付を越えることを知らせてくれた。
「気がする、じゃなくて事実そうなの。あんた小学生の俺から見ても世間知らずだったんだから。学校で習うこと以外はなんにも知らなくて。一番びっくりしたのは、自転車の乗り方知らなかったことかなぁ」
「あったね。自転車、借りたな」
「確か派手に転んでたよねぇ?」
「転んだ。おまえ血相変えて駆け寄って来てた」
「あんたはけろっとし過ぎだったよ。頭から血ぃ流してる奴の顔じゃなかった」
 家に自転車がないと幼い彼が言ったのが、自転車特訓の始まりだったような。泉が自前の自転車を貸して乗り方を指導すると、あっさり乗れるようになっていた。
「すごく怒られたな。瀬名に。あの後も──」
 互いに思い出話を持ち出す方ではなかったし、そのきっかけがナマエからだなんてもっと珍しいことだった。あれを教えたこれで怒ったと、絶え間なく記憶の底から浮かび上がる記憶たちを二人して引っ張り出した。虫食い同然の穴の多い思い出の断片を二人で集めて補って、パズルのピースを埋めるように当てはめる作業をしながら、懐旧の念を共有した。寒さと闇が深まる真夜中の中心で、暖かく穏やかな時間を過ごせることに言い知れぬ優越感が生まれた。
 そうしている内に、窓の向こう側を流れていく景色が、帰り道にしてはあまり目に慣れないものであることに気付く。ESビルから寮まで車で送ってもらうことはナマエの運転以外でも何度かありルートは大雑把に頭に入っているが、これはそのどのルートとも異なっていた。もっと言うなら、車ならもう寮に着いていていいはずだ。
「ねえ、これどこ向かってるの?」
「寮」
「寮への道じゃなくない?」
「遠回りを、してるから」
「……え? 遠回り? なんで?」
 正直に遠回りだと答えたきり、ナマエは口を噤んだ。すいとナマエの目が一瞬だけ泉を映して、そのあと再びナビゲーターを確認し、前方へと戻ってゆく。
「おれが、瀬名に教えてもらったことでたぶん一番驚いたのは」
 思い出話を彼はまだ引っ張るつもりなのかと思ったが、様子が少し違って見えた。背中を上げた泉は、背もたれに右肘をついて身体を支えた。シートベルトがするすると伸びる。長いまつげが瞬きの度に上下する様から目が離せない。そのまま、彼の次の言葉を待った。遠回りしてでも彼が伝えたかったこととは、なんだろう。
 眉も口角も先と変わらず上がりも下がりもしないのに、単なる思い出話とは違う、どこか懺悔めいた厳かさがあった。
「この世界に自分と他人以外が、存在すること」
 ここまで運良く信号に引っかからずに来た車が、ここにきて初めて赤信号に出会った。車体は発進したときと同じくとても静かに、身体を揺らすことなく車道で止まる。ナマエの向こう側の景色の流れも、同じく止まる。深夜の道路は昼間と比べて人も車もぐっと量が減り、寒々しくがらんとしていた。まるで自分以外の時間が止まってしまったような錯覚が、今は焦れったかった。
 ナマエは妙な間を置きながら、ディスプレイに気を割いている。今この時ナビゲーターを使わない彼がそこから得る情報は、きっと泉と同じものだ。つまり。あと、一分で。
「二番目は、誕生日を祝うことだった」
 もしかして、の期待と事実がいつぶりかに、重なる。薄茶の両目と、目を合わせることができた。寄せては引いていく波のように捕まらない視線を、ようやく自分の元に留められたような気がした。
「いずみ」
 その声でその音を紡がれたのは、やや久しぶりだったかもしれない。今となっては呼ばれ慣れなくなったそれに、どう返していたか上手く思い出せない。
「面白い顔、してる」
「……、世界一美しいって言われてきたしこれからもっと言われる予定の俺の顔に、言うに事欠いて面白いってなんなの? その目百回くらい洗った方がいいんじゃない?」
「じゃあ世界一美しい、面白い顔」
「とりあえず付けときゃいい枕詞だと思ってるよねぇ!」
「そうかも」
 らしくないことをしていても、中身は平常運転で不明瞭なナマエだ。憎たらしい軽口を、今日は寛大な心で許してやることにするけども。
「日付が変わった」
 自分が分け与えたものが僅かでも彼の中に残っていたら、それが彼に良き変化をもたらしていたのなら。そうだったらいい──そうに、違いない。他人じゃないから。己の自惚れも、彼の軽口と共に許した。
「誕生日おめでとう、泉」
 ナマエがゆっくりと、泉の好きな笑い方をする。悠然として品があるのに、なんとなしにあどけない。閉じた空間は、泉の好む曲が満たしていた。手元には温もりが抜け切らないボトルがある。日付が変わったとほぼ同時に贈られた祝福は、まだ耳に残っている気がした。
 信号が青に変わると、泉を乗せた車のタイヤがまた誰もいない道を駆けた。止まっていた窓の外の景色が流れ出す。隣の幼馴染にすら理解を得られない泉だけの感慨は、今も過ぎ去った信号の手前から動かない。動けない。今度はまるで彼の時間だけが、止まったかのようだった。

20201102

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