きっとどうかしているのだ、自分たちの家は。とっくの昔に誰かが気付いていてもいいはずなのに、大人もこどももみんな揃って知らないふりをしている。
 一族の事業は金融からエンターテイメントまで手広く、外向きには最先端のより良いものを提供し、古いものに囚われないなどと語るくせに。その内側は、目も当てられないほど酷いものだ。

 古臭い価値観を大事に大事に守り通した結果、今でもこの家は一から十まで序列がすべてである。ここで言われる、序列の頂点にいるのは長男だ。長男を讃え、長男を支えるためだけにそれ以外が存在していると言ってもいい。ばかみたいだと思うのに、刷り込みとは恐ろしいもので、身体の隅々までその価値観で侵されている。

 本家と分家はいわゆる家制度の中のひとつの形態。旧い家でまだひっそりと存続しているそれは、”彼女”の身近なところで朱桜と桜河などもそうだ。分家の扱いのきな臭さにおいては桜河には劣るが。本家の絶対的な権力と、その人間性や能力を問わず本家であるというだけで優遇され一番に押し上げられその他大勢は彼らを押し上げなければいけない一族全体の有り様の異常さでは、"こちら"が優位にあるように思う。

 本家が一番でなければならないということは、つまり序列の二番は彼らを越えてはならないということ。本家よりも優秀な分家がいてはならないということ。自らの力で頂点に君臨できれば最善ではあるけれど、それができないのならば他を下げてでも頂点であり続けろということ。下にいなければいけない鬱屈と、上にいなければならない重圧。そのどちらかが生まれたときから付いて回って逃げられない。端的に言って、地獄が完成している。
 誰も彼もが歴史あるルールの被害者で、だからこんな家はもっと早く滅んで然るべきなのだと──己もまた染み付いた価値観から抜け出せない日々を生きながら、ミョウジ沙也加は生家に怨嗟を抱くのだ。



 恐らく日本家屋としてはオーソドックスなつくりなのだろう。そこは良く言えば歴史があり、悪く言うなら古ぼけた小汚い家であった。広さだけは一級だが、どこもかしこも木造で、雨の日には床が湿気を吸ってぎしぎしと鳴くほどだ。ここを訪れるとどうしても鼻をくすぐる古めかしい畳の匂いも木材の匂いも、彼女は昔から嫌いだった。何度かリフォームも行っているらしいけれど、どれだけ外面を取り繕おうともこの家が厄介者を遠ざけるための場であることに変わりはないからだ。
「ナマエ、ちょっと遅すぎない? いつ来てもぜんっぜん帰って来ないってどういうことなの?」
「うん」
 沙也加は自分の家ではない玄関で、自宅に帰ってきた従兄を出迎えた。沙也加がこの家を訪れた夕方から約四時間後。玄関の式台に腰掛け彼を待ち始めてからは二十分後のことだ。彼女に言わせれば安っぽい学生服を身にまとったミョウジナマエは、家の住人ではない従妹の姿を認めても、眉を動かすことすらなかった。戸の向こう側は真っ暗闇で、夕食を食べる時間もとっくに過ぎていた。
 細かな格子にガラスがはめ込まれた引き戸は、この家唯一の出入り口である。扉が開いたり閉じたりされる度、ガラスの揺れる音がやかましく響くのは仕様だ。スペースが大きく取られた土間より少し高い位置には式台を設けており、更に段差がついて廊下へ続く。靴箱の上には名前のわからない花が生けられ晒されて、強引に玄関の彩りとされていた。
 ネクタイの緩まりとボタンが機能していないブレザーを、沙也加は値踏みするように上から下まで眺めた。彼女の学校では見逃されることのない着崩しはたまに見かける「不良」と似ているのに、彼の姿勢の良さと佇まいそのものが、低俗とはかけ離れているように見せている。ただ時代遅れなだけの玄関に、晒された生花よりも品を添えることができる生意気な男だった。
「答えになってないんだけど?」
「バイトだった」
 一言で答えてそれきり、まるでここには誰もいないかのように。ナマエは式台の前まで来ると靴を脱ぎ、揃えて持ち上げたそれを靴箱へと直す。そのまま沙也加を横切った彼が廊下へと一歩踏み出したとき、彼女は慌てて手を伸ばし、段差に体重をかけながら彼の自分よりも長い指をどうにか捕らえた。そうしなければ、ナマエはこのまま一直線に部屋に向かってしまうから。
「ちょっと、ナマエ」
「なに」
 やっと、青年の虚ろな瞳に沙也加が映り込む。触れた手を振り払われはしないのに、昏い視線だけでそれ以上の拒絶を突きつけられた気がして、沙也加は恐る恐る握っていた彼の指を手放した。見下ろされているのか、見下されているのか、わからない。
「もっと言うことあるでしょう。なんで私がここにいるのかとか、気にしたらどうなの」
「ここも実質おまえらの家みたいなもんだろ。どうでもいい」
「偉そうにして」
「どこが。つっかかるなよ」
 本当にどうでもよさそうに、ナマエは沙也加を見下ろすのをやめたかと思うと、静けさが立ち込める廊下へと身体を向け直した。一番奥の向かって右側が、彼の部屋だ。態度の大きさは、何度窘めても改善される気配がない。人の集まる親戚の前でだけ、かろうじて従順そうに振る舞う。
 序列では分家にあたるナマエよりも本家である沙也加の方が上だけれど、年齢だけなら彼の方がふたつばかり上をいく。更に言うと、彼女の兄の壮志──この代における"長男"で一番の権力を持つ彼は、ナマエのひとつ年下だ。つまり従兄妹同士の中ではナマエが年長者だった。
 讃えられるべき存在が、本家のこどもが次男の家よりも後に生まれたというのは大きな問題であったらしい。本来どちらが先に生まれようとパワーバランスに何らかの狂いが発生しえるはずもなく、年齢程度で下の立場が優位に傾くことはない。重要なのは生まれた家の格だけだ。にも関わらず、その手の上と下に彼女たちの父の代は非常に敏感だった。兄が上で、弟が下。口数の少ない父親は絶対的にそれを譲らず、ナマエの父親であり沙也加の叔父である男は、いつでも彼女の父親の顔色を伺っていた。誰よりも、それこそ己の息子よりも兄の機嫌を優先していた。こどもにも、そうと理解出来てしまうくらいに。
 そこで誰しもにとって、きっと本人にとっても誤算となった最たるところは、ナマエが一族で頭ひとつ抜けて優秀だったことだろう。何をやらせても、彼は高い水準で結果を出してしまった。習い事も勉強もどこにも文句をつける隙がなく、彼を越えようとするなら一度のミスも許されない状況が出来上がった。その負担の行き先は、もちろん本家の長男だ。
 壮志とナマエには年齢差が一歳分あるが、二人の成果の差をその一年のハンデが要因だと受け止めている者は果たしてどれくらいいたのか。単なる能力の優劣の差であることは、ひとりも口にしなかった。否、できなかった。
 そんなことはあり得てはいけない。一番は、本家の長男でなければならない。そこから何が起きるかは、明白だ。
「用がないなら、」
「泉さんに会ったわよ」
 この場を一秒でも早く去りたくて仕方ない──それを隠さず今にもここから逃げそうなナマエを前に、沙也加は早々に最終兵器を持ち出す。彼の意識を、ようやくまともにこちらに引っ張ることができた。
「この前、道でたまたまね。相変わらずどこにいても目立つから、すぐわかった。あんなに綺麗なのにモデルを辞めてしまうなんて、本当に勿体ない」
「へえ。そう」
 瀬名泉の名前には、ナマエの足をここに縫い止める効力がある。口ではどうでもいいと言いながら、沙也加が泉の名前を呼ぶとあからさまに嫌な顔をする。
 泉とナマエは幼馴染のようなものらしく、けれども泉と沙也加はまた違った関係を築いていた。彼は同じモデル事務所に所属する、業界の先輩にあたる。
 ナマエと仲が良く、ナマエよりも優しく、ナマエよりも笑い、ナマエよりも厳しく、ナマエよりも態度に出る。ナマエは全く泉の話をしないのに、泉はナマエの話をよくする。そういうひとだった、瀬名泉とは。仲が良いことが信じられないくらい、沙也加から見たふたりは真逆の性質の持ち主だ。
「私に優しいから好きよ、あのひと」
「泉は年下に甘いから」
「年下なら誰でもってわけじゃないでしょう。そんなに簡単なひとには見えないわ。結構気難しいし。年下だからとは言うけど……それ以上の意味があるのかもしれないじゃない?」
「変な期待、押し付けるのやめたら。あいつが可哀想」
「……知ったように言って、何も知らないくせに。そっちこそ、中途半端に泉さんに関わるのをやめたらいいのよ。そんなだから、優しい彼はあなたの面倒を見なくちゃいけなくなる」
 ナマエの踏みしめる年季の入った床が、ぎしりと苦しげな声を出した。
「そっちの方が可哀想とは思わない? ナマエはなんでも持ってるんだから、甘えてないで手放せば? 変な期待を押し付けてるのは、どちらかしらね」
「なんでも、持ってる。そうかな」
 沙也加の言葉の一部を拾い上げ、どこか不思議そうにナマエは反芻した。その態度が、沙也加の癪に障った。
 少し考えるような沈黙を挟んだのち、ナマエがひとつ細い息をつく。その両の目に責めるような鋭さはないのに、沙也加は勝手に気圧されて言葉を詰まらせることとなった。この青年が自分を見ないことが気分を悪くさせるのに、こうして彼の視界に入ると急に緊張に取り憑かれる。
「おまえらのために、なんでも捨ててきたつもりだけど。おれは十分、人を遠ざけたろ。違うか」
 自分たち兄妹のために己の評価を落としていくことを本家どころか実の両親からも、求められた。習い事をやめ、進学校へ行くのもやめて。家を何日も空けるようになり、真っ当な道から外れていく彼を、親戚どころか外部の人間すら、遠巻きにするようになった。求めに彼が応じた結果に他ならず。彼の言うことは違わない、周りは事実満足している。
 この家においてナマエが一等割りを食っているようでいて、本当に惨めなのは、彼ではないと沙也加は思う。自分と、それ以上に壮志だろう。一生容赦され、舐められているのとなんら変わらないのだから。
「あとなにを捨てれば、おまえらは満足するの」
 ただの問いかけが、無神経な煽動のように思えた。綺麗に整えられた爪が食い込む程に両手を握りしめながら、沙也加は式台から離れた。ナマエの顔がぐっと近くなり、睨むように見上げても、彼は涼しげな顔つきのまま。
「まだ足りない。兄さんはそう言う。反抗で続けてる下らない音楽も、兄さんの機嫌でひとつでいつか取り上げられるわよ。取り上げられかけたくせに」
「べつに反抗でやってるわけじゃない。おまえの芸能活動の方が、よっぽど反抗だろ」
「……一緒にしないで」
 ナマエは、できるだけ壮志と交わらない道を選り分けた。習い事も、趣味も、学校も。壮志が音楽に一切興味を持たなかったのは彼にとって都合がよかったと言うよりも、壮志が興味を持たないものを選択した結果だろうし、壮志は壮志でナマエが好んだものは避けていたはずだ。記憶にある限り、始まりは学校だった。その次はバレエだ。一度壮志がナマエと同じバレエ教室に通い始めたときは、その直後にナマエは「飽きた」とバレエをやらなくなった。どうでもいいから、それも捨てたのだ。
 人も物も、この男はなんでも簡単に手に入れるし、同じくらい簡単に捨てられる。彼にとって、目の前にあるものの価値はすべて均一だ。手放して困るものなんてない。誰のことも、端からまともに相手にしていない。両親のことも、壮志や沙也加のことも──きっと、瀬名泉のことだってそうに違いなく。
「どうせ、ナマエは困らないのよね。何を取り上げられたって。だからそんなに余裕なんでしょう。音楽も、泉のことだってそう。最初からどうでもいいんでしょ」
「おれにはおまえがなにを聞きたいのか、わからないけど」
 どうせ泉という友人も、入れ込んでいるらしい音楽も、その他大勢よりも手放すのが多少"惜しい"というだけに決まっている。そうでなければおかしいのだから、後は彼が頷くのを見るだけだ。
 外へ繋がる引き戸へと吸い寄せられるように、ふとナマエが顔を上げた。彼の首が、縦に振られることはなかった。
「どうでもいいもの以外もあるよ。この家の外は、結構広いから」
 沙也加が、彼の視界の真ん中から消えてゆく。自分が置いて行かれたようだった。
「……なにそれ。そんなの、ぜんぶ嘘。嘘ばっかり」
「沙也加」
 幾度となく、考える。せめて、ナマエが怒ってくれればよかったのだと。理不尽な立場に腹を立て、自分たちを恨んでくれたっていい。感情のやりとりがあれば関係はもっと変わっていたかもしれなくて、どうでもいいものじゃなくなっていたかもしれない。けれども、実際の彼はこちらを見ることもない。
「外ばっかり見て、出て行きたいなら、早く出て行ったらいいじゃない。こんな家から」
 この家は狂っていて、その認識だけは従兄妹の中で共通しているはずなのに、ナマエがそこに言及したことはなかった。いつからか沙也加たち兄妹と会話の場を持とうとすることを避けているようで、まるで向き合う価値もないと言われた気がした。本当は、ナマエなら。彼なら何とかしてくれるかもしれないなんて漠然としたかたちのない期待が、昔はあった。なんでも出来て、なんでも持っている賢しい少年。壮志と一緒になって彼を兄のように慕って、そう呼んだ日もあったけれど。この従兄は抗えるはずなのに見ないふりで、自分たちを助けてくれなかった。歳を重ねる度、見ようともしなくなっていった。思えば、自分たちが兄と呼ぼうが彼から沙也加たちへ弟や妹に向けるような優しさを与えられたこともない。
 身勝手すぎる期待と失望を繰り返した残骸が、消えずに燻っている。狭まったはずの道でも素知らぬ顔で好きなように過ごすナマエが、嫌いだった。彼女も、兄も。逆恨み以外のなにものでもない。
「さっさと縁を切ればいいのよ。あんたなんか……」
 そしてその逆恨みからくる八つ当たりを実際にやってのけたのが、壮志だ。ナマエの両親を巻き込んで、彼らすら権力で味方につけ、気まぐれにナマエの道を阻む。彼の一言でそれができる環境が整っており、沙也加も含め誰もそれを咎めなかった。ゆえに、ナマエはこの家で生きていくメリットがない。捨てることに躊躇いなどないだろう。今は無理でも、いずれはそうなる。だからこれは、ただの確認だった。そこに余計な期待なんて、ない。
「おまえさ、おれになんて言ってほしいわけ。さっきから」
 うなだれるように俯いた沙也加に、氷より冷たい音が落ちてくる。目頭が火を放ったような熱を持っていた。その熱が顔にも広がって、いよいよこの従兄に見られるわけにはいかなくなった。羞恥と甘えと、それを見通したような彼の言葉と。
「そっちの価値観でおれを測るのは勝手だけど。誘導には乗らない。試されるのも、嫌いだ」
 何でも見えているように言いながら、何も知らないくせに。言ってやりたいことは山ほどあるのに、喉から出て来るのは弱りきった息だけだ。視界の端で、踵が無情な軽やかさで翻った。
「おまえの思い通りにはならない。でも、命令なら。聞いてやる」
 どんなに虚勢を張ったって自分だって逃げられないくせに。
「……私の方が、きらいなんだから」
 大嫌い、こんな従兄。

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