「長らく滞在した厳しい冬も、気付けば春らしい柔らかい陽光が──」
聞き慣れた恋人の声が、今は泉の耳元だけではなくスピーカーを通して建物の隅々まで行き渡っていた。体育館の後方に、瀬名泉は目立たないようひっそりと佇む。たったひとりで壇上に立つ築山「長らく滞在した厳しい冬も、気付けば春らしい柔らかい陽光が──」
聞き慣れた恋人の声が、今は泉の耳元だけではなくスピーカーを通して建物の隅々まで行き渡っていた。体育館の後方に、瀬名泉は目立たないようひっそりと佇む。たったひとりで壇上に立つミョウジナマエの姿を泉はサングラス越しに眺めては、時折サングラスを少しだけずらしてクリアな視界の中に彼女を留めた。
アリーナはパイプ椅子がずらりと並び、アイドル科を除いた全学科の生徒が大人しくそこに座してひとりの少女を泉と同じく見上げていた。彼らの前に立つナマエは全校生徒の注目を浴びながらも、臆するような素振りはない。いつもと変わらず姿勢を正し、厳かさと穏やかさを同時に滲ませた微笑を湛えながら、演台に設置されたマイクと向かい合っている。柔らかくも凛々しい声つきで紡がれる卒業生代表の答辞に、皆が静かに耳を傾けていた。程よい緊張感を生みながら、手繰り寄せるように人の気を引く話し方が上手い少女だった。
あれは自分の恋人だ。彼女が好きなのは自分なのだと、泉はなんとなしに誇らしげになった。そして再び、サングラスを傾けた。散々見てきた彼女の制服姿もじきに見納めになる。写真に留めることは容易いが、こうして自分の両の目が夢ノ咲にいる彼女を収めるのはきっと今日が最後だろう。
ナマエの胸元のポケットには卒業生の証であるコサージュが咲いている。コサージュと並ぶ緑のネクタイを認めて、泉は益々機嫌を良くした。昨年の三月まで、彼の持ち物であったネクタイだ。自分のものだと、泉だけがわかる。自分だけが知っていればいい。ここにいる他の誰も、知らなくていい。
優越感に浸りながらつい口の端を上げたその瞬間に、ナマエの目がこちらを捉えたような気がした。彼女とは卒業式の後にアイドル科校舎の屋上で落ち合う予定になっている。卒業式本番に紛れ込んでいることは、伝えていない。気付いたのだろうか。挨拶を続ける彼女に動揺や目立った変化は見られないが、そもそもこの程度で動じるようなか細い神経の持ち主ではないのでここから真意を推し量ることは難しい。
どうして来たんですか、騒ぎになったらどうするんです、と泉がここにいることを知った彼女は後々むっとするだろうけれど。彼は端からナマエに知られないように立ち回っているつもりはなかった。寧ろ見ていると気付いてほしいくらいだ。ファン心理に似たなにかを身を以て実感していることに、なんだかおかしくなった。
ゆったりと体育館の壁に背を預けながら、泉はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。全員が前方を注視しているこの空間の隅っこには、誰も気を割かさない。立ち上げたカメラのレンズを通して、ナマエを見た。ほぼ出入り口に近い泉の立ち位置から演台までは、それなりに距離がある。顔をはっきり映すには遠すぎるが、泉はそこから動かなかった。遠くからでも一目でナマエだとわかる、それで十分だった。そのフォルムだけで、彼女を取り巻く品を有した空気だけで。
画面越しに、また目が合ったように錯覚する。泉は画面の中のナマエに薄く笑いかけて、満足そうにシャッターボタンをタップした。どこからでも写真写りがいい──さすが俺の恋人。
「──卒業生代表、ミョウジナマエ」
20200330