そもそもたぶんわたしが悪い。
昨夜、電話で瀬名先輩が一緒に出かけようと誘ってくれた日は、先約があった。約束とは、幼馴染の家族との食事会。幼馴染の財閥傘下の会社で社長を務めるのがわたしの父親で、立場上食事会の招待を断る理由を探す方が難しい。昔馴染みなのでそう重く捉えるものでもないけれど、気楽に別の予定を割り込ませてなかったことにして良いものではなかった。それは例えその家族であっても。親同士は親同士の、子供同士には子供同士の付き合いがある。つまりドタキャンは後が面倒くさい。幼馴染は、自分を中心に世界が回っているようなひとだ。ことわたしに関しては、自分の思い通りになるのが当たり前だと思っている節があった。いつまでも彼の言いなりではいられないけれど、長年の癖と言うべきか、幼馴染の機嫌を損ねるような行動はなるたけ避けるような思考が出来上がっている。だから、食事会も不参加という選択肢が存在しなかった。
そんな事情で、瀬名先輩からのお誘いを惜しみながらお断りした。用事があって、と普通に断ればそれで済んだ話だったのに、わたしはひとつミスをおかす。幼馴染の名前を、出してしまった。
「ばーーーか」
それだけ言って、彼は電話を切った。そこからは何度電話をかけ直しても、メッセージアプリにメッセージを送っても、なんの反応も返って来なくなった。端的に言うと、怒らせてしまったらしい。彼は、瀬名泉先輩は、わたしの幼馴染が好きじゃないからだ。
大人げない拗ね方だと思う反面、配慮が足りなかったという自省は過分にあった。瀬名先輩はわたしが幼馴染に甘いと言う。それはわかる。先輩が、わたしが幼馴染に構うのを嫌がる理由も、わかる。先輩ではない男性を優先させるような行為が、先輩を傷つけてしまった。
だからこそ、早く瀬名先輩と会わなければいけない。会って、伝えなければ──わたしの一番は、あなたなのだと。
「瀬名先輩ですか? ここにはおりませんよ」
「そう、ですか」
防音練習室で自主練習に励んでいたらしい朱桜司さまは、手に持ったタオルで首元の汗を拭いながら、わたしの恋人がここにはいないことを教えてくれた。汗を拭き取ってもまだ暑さが落ち着かないのか、体操服の襟をぱたぱたとさせている。そんな仕草ひとつ取っても、彼には上品さが纏わりついていた。格式の高い家に生まれた彼は気位も高く、そういうものが言動の端々に染み込んでいる。幼馴染ほどではないものの、そこそこ古い付き合いになる彼のことは昔から知っているからか、まだまだ子供っぽい一面はあれども年々着実に品のある青年へと向かって成長していく様を見ていると素直に感心してしまう。
「先程までいらっしゃったのですが」
「どうやら逃げられちゃったみたいですねえ。どちらへ向かったか知ってます?」
「ええと……」
「司さま?」
居心地が悪そうに、彼はアメジストの瞳をそっとわたしから逸した。何か言いたいことがありそうな面持ちで、どう言葉にするべきか、あるいは言葉にしていいものか逡巡しているみたいに見える。どうしましたか、と一度だけ尋ねれば、彼の眉が少し下がって、こちらを心配するような顔になった。
「不躾なことを聞きますが、瀬名先輩と何かあったのですか?」
「あったと言えば、そうですね。先輩はなにか話してました?」
「いえ、私は詳しいことは何も聞いておりません。ただ、すこぶる機嫌が悪いことはわかりました」
「あー……すみません、各所にご迷惑をおかけしてるみたいで」
嵐さんが微笑ましげにわたしを見ていたのはつまりそういうことだろうと、ここで合点がいった。彼も先輩の機嫌の悪さはきっと知っていたはずだ。そして先輩がどこまで話したのかは知れないけれど、わたしと何かあったことは状況を見ればおおよそ見当がつくというもの。
「いいえ、ナマエが謝ることではありませんよ。なんだか、瀬名先輩はいつもナマエを困らせておりますね。元々遊木先輩が関わるとひとが変わるかたではありますし、それに比べればナマエと関わっているときの方が余程理性が働いているように見えますけど」
「確かにあんなに激しく愛を伝えられたことはないかな……されてもどうしたらいいのかわからないですし」
「……それに、なんと言えばいいのでしょう。瀬名先輩の遊木先輩に対する行き過ぎた言動は結果的に相手を困らせているだけですが……まあそれもどうかと思いますが……ナマエに対するそれは、あなたを故意に困らせようとしているかのようです。まるで母親の気を引こうとする子供ですよね」
「その例えはだいぶ愉快ですね。本人には言わない方がいいと思いますけど」
きっとそうなのだと思う。あのひとは、とてもかわいらしいひとだから。困らせて悩ませて、自分のことで頭をいっぱいにして、もっとこちらを見ていろと言わずして主張するようなひとだから。それがとても愛しくなってしまうわたしも、大概だ。本当に困ったひとですよねえ、と笑いながら零せば、司さまが目をまるくした。
「でも、嫌ではないのですね」
「好きなひとですから。困らせたいと思ってもらえるのは嬉しいし、わがままは聞いてあげたくなるんです」
「──なるほど、私にはまだ早い感情のようです」
綺麗な顔に苦笑を滲ませる彼は、子供らしい感想を述べながら、それでいて少し大人びて映った。わたしを見据えて、どことなく安堵したように。
「ともあれ、ナマエが幸せそうでなによりです。お二人が今の関係に落ち着いたと知ったときは正直少し不安もありました。今日のこともそうですけど。けれど今のナマエを見ていると、きっとこれで良かったのだと改めて納得できました。最初から杞憂だったのでしょうね。私も、瀬名先輩にしても」
「それは、どういうことですか」
司さまは微笑むだけで、答えない。数秒の間を置いたのち、彼もまた、わたしが最初に欲した答えを、だいぶ時間差で与えてくれた。
「瀬名先輩は、音楽室に向かわれましたよ。どうぞ行ってさしあげてください」
ぼんやりとした既視感に、わたしはつい司さまを見つめた。その瞳にどれだけ探るように見入っても、きっとここで求める正解は得られないのだろう。今わたしがすべきことは、彼にお礼を言って、音楽室へ向かうことだ。そこで待っているのが、瀬名泉先輩でも、そうでなくとも。追いかけて来いと言うなら、どこまでも。
「司のわがままも、たまには聞いてくださいね」
わたしの去り際にそんなことを言ってきた彼は再び年齢相応の可愛げに溢れていて、それを正面から受け止めたわたしは、頷くほかなかった。