同じユニットに所属するメンバーの恋人が、傍から見るよりも歪んでいることを、朔間凛月は知っている。
「ナマエが捜してるのは金のセッちゃん? それとも銀のセッちゃん?」
「金です」
「セッちゃんそろそろ泣くんじゃない?」
放課後の音楽室は、凛月がよく出入りする場所のひとつだ。昼間よりもずっと柔らかくなった陽の光が、窓越しに使用者のいない机と椅子を精一杯染め上げる。グランドピアノは黒塗りの体にオレンジ色の光をたくさん反射させて、まるでぬくもりを持ったように輝いた。見慣れた景色。そこにごく自然に混ざってきたのは、本来であればこの校舎にいるはずのない少女。
目的はこの場所で無ければ、凛月でもないことはわかっている。けれども音楽室へと足を踏み入れたナマエはすぐに要件を切り出さず、彼がピアノを弾き終わるまで、黙ってその音色に耳を傾けていた。演奏が止まって、凛月がピアノ椅子の背もたれに背を預けたときにやっと、彼女は一言「機嫌が良くなさそうですね」とだけこぼした。そんなにわかりやすい弾き方だっただろうか。問えば認めたのと同義なので、凛月はその感想を黙殺する。そして替わりに、彼女の捜し人の名前を出したのだった。
「愛が足りないって怒られる絵は見えますけど。そもそもあのひとここにいないでしょう。いまは次の目的地に向けて移動中?」
ナマエはここへたどり着くまでに、スタジオと防音練習室を通って来たのだろう。少し察しが良ければすぐに気づく。ここに瀬名泉はいないのだと。最早知っていて来たと見るのが正しい。賢い彼女は、この遠回りの全貌が見えているはずだ。泉が、ナマエが追いかけて来るのを待っていることも。
「大正解〜。相変わらずだよねぇ、ナマエとセッちゃんって。噛み合ってるんだか噛み合ってないんだか。ていうか、そもそも噛み合わせようとしてないんじゃないの」
「努力はしてますよ」
涼しい顔でそう話すナマエほどしらじらしいものはここ一ヶ月くらい見かけていないと思う。
「疑わしいなぁ。俺から見れば、どういう手順を踏めば最短で解けるかわかりきってるパズルを、わざわざ別の手順を使って遠回りして、その過程を楽しんでるみたいだ。そう考えるとなかなかの変態かもね、ナマエって」
「え、わたしの話ですか?」
「自覚ないとか言わせないから。ちょっとセッちゃんが可哀想になってきた……」
本来の彼女はもっと合理的で、無駄を好まない。そうさせているのが瀬名泉そのひとだというところが、この二人の複雑怪奇なところだ。元から面倒くさい男を更に面倒くさくさせる女。相性が良いのか悪いのか判断に困る。愛はひとを面倒くさくさせるものだけれど、それにしてもこれはひどい。
「瀬名先輩に振り回されてるとか困らされてるとか、周りにはそう見えてるみたいですけどね。さっき司さまからも言われましたし」
「元からナマエ贔屓のスーちゃんから見れば特にそうでしょ。もちろん俺の目は誤魔化せないけど。セッちゃんの方が自己主張が激しいから、一見すると大人しくそれを受け止めてるだけのナマエに被害者っぽい印象がつくのは道理だよねぇ。それで、スーちゃんにはなんて言ったの?」
「好きなひとのわがままは聞いてあげたくなると」
「オブラート捨ててみて」
「あのひとにされて嫌なことなんてひとつとありません。なんでも差し出すので、もっとわたしでだめになってほしい。わたしがいないと息できないくらいには」
「あはは歪んでる〜」
古い知人の手前、見栄を張ったのだろう。未だに司はナマエに夢を見ているところがあるし、ナマエはそれを壊さないような努力を続けているので。
「それを本人に直接言ってあげたらいいのに。セッちゃんは面倒くさい女子と似たところがあるんだから、ちゃんと言葉にしてあげないと拗ねちゃうのわかってたでしょ」
「わたしの薄っぺらい言葉では信じてもらえないと思います。たぶん。それに……まずこんなかっこ悪いこと言えない」
「ナマエのかっこ悪い判定ってよくわかんない……。なんにしろ、機嫌の悪いセッちゃんの相手するのは俺たちなので、かっこつけも大概にして欲しいんだけど」
「それはすみません」
好きなひとに良く見られたい、という誰もが持つ意識が、ナマエは常人よりも飛び抜けて高かった。幼い頃より煩雑な人間関係の中に引っ張り出され劣等感を順調に育てていったせいなのか、裕福な家に生まれたお嬢様然とした振る舞いをしながら、その実中身はねじ曲がっている。もう十分なくらいに瀬名泉という人間が好きで好きでたまらないくせに、そんなことはないようなすまし顔をしてしまうから、泉の機嫌を度々損ねているのだろうに。どんな茶番だ。猫を被っているわけでもなく良い性格をしていることは隠そうとしないのに、自身の欲望や弱みはひた隠しにする傾向にあるらしい。そしてその一端を元から知っている凛月だけには、見栄の張り方が甘かった。だからこの状況を一番客観視できるのも、彼だけだ。
「ともあれ、このままだとセッちゃんはナマエを試し続けるんじゃない? ナマエはこれからも試され続けたいわけ?」
ううんと唸りつつ、それでもさして悩むようでもなく。いつも通りの穏やかさで、恋話と言うよりは世間話と同等の気軽さで、ナマエは肯定を伝えた。
「瀬名先輩がわたしを試したいというのなら、いくらでも。愛は行動で示します。追いかけろと言うならそうしますし、火鼠の皮衣でも蓬莱の玉の枝でも、なんでも望むものを望むだけ、ご用意してみせますよ。わたしのお姫さまには」
「えー、さすがにお姫さまって柄じゃないでしょ……。ナマエはセッちゃんをなんだと思ってるの」
「わたしのかわいい恋人」
「そんな即答出来るなら、それ相応の扱いをしてあげなよ。たまにはさ。爆発する前にちゃんとガス抜きとかしてあげてないから、こうなってるんじゃないの」
「考えておきます。今回は、わたしの不甲斐なさのせいで怒らせてしまってますしね」
そこを即答できないあたりが、ナマエという人間を表していた。
ともあれ、これにて泉が事前に出した"条件"はクリアしていることになる。ミーティング中からあからさまに機嫌が悪かった彼は今日、Knightsのメンバーが各々自主練習やスタジオで一息つく中で、ひとつ協力を頼んできた。これから追いかけてくるであろうナマエに、少し焦らしてから次の居場所を教えてほしい──少し手間のかかる厄介な頼み事だ。彼が積極的に痴話喧嘩にこちらを巻き込むのは珍しい。今回は余程、思うところがあったのだろう。向こうから勝手に来るのを待つだけならそこまで面倒でもないかと引き受けたものの、惚気を聞くのは思ったよりあまり愉快ではなかった。泉の話をしながら困ったように笑うナマエを見ていたら──ちょっと前まで彼女が心から笑ったり泣いたりできるのは、この夕暮れの光の籠もる音楽室のピアノを弾いているときだけだったはずなのに、なんて性懲りもなく思い返してしまったからかもしれない。
「──教室だよ。セッちゃんは、自分のクラスにいる」
だからさっさと行ってしまえと、凛月はナマエが一番知りたがっている情報を訊ねられる前に引き渡した。頃合いだろう。待たせ過ぎれば、余計に拗ねる未来が瞼の裏に見える。ありがとうございます、とナマエが嬉しそうに口の端を持ち上げながら、凛月に礼を言った。満ち足りたような笑い方も、そういえばここ最近目にするようになったものだ。
「ナマエもすっかりめんどいやつになっちゃったねぇ」
「嫌いになりましたか?」
「……意地が悪いなぁ」
「お互いに。ここで話したこと、先輩には言わないでくださいね」
「仕方ないから内緒にしといてあげる。たくさん感謝して」
変わってしまったものがあって、それを寂しく思うときもあるけれど。まだしばらくは、その彼女の一番面倒なところを知るのは朔間凛月ただひとりのまま。その事実に、彼は少しだけ気分を良くした。