アンビバレント・ブルー
その感情を自覚したのは、本当に些細なことだった。
不二と名前は中学に上がった時からの友人で、同じクラスになったことがきっかけの何の変哲もない友人同士である。それでも、異性から人気の高い不二との関係を問われることは、名前にとっては日常茶飯事。毎回決まって何もないよ、と笑って言い退けて、それでおしまい。けれど、その「何もない」という言葉が、次第に喉でつっかえるようになり始めた。たった、それだけのこと。
「本当に、不二くんとは何もないんだよね?」
けれど、仮にここで名前が「そんなことはない」と答えてしまえば、どうなるかは明白。分かっているからこそ、名前はいつも通り「何もないよ」と笑って答えるのだった。もう三年も続けてきたことだ、今更造作もない。それでも、胸中のざわつきだけが収まらない。どうにも嫌な予感がしてならない。
「だったらお願い、私に協力してほしいの!」
嫌な予感が、こんな形で的中するとは思わなかった。言葉に詰まる名前に対して、目の前の女子生徒はもう一度同じ言葉を繰り返す。見るからに必死なその女子生徒は、男子生徒からも可愛いと評判の、隣のクラスの子だった。仮に、万が一、不二と彼女が付き合うとして——二人が横に並んだ画を名前は勝手に脳内で想像して、眩暈がした。それでもどうしてか、この頭は本当に回らないものだと、名前はのちに酷く後悔することとなる。
名前の首肯に合わせて輝く女子生徒の表情は、到底叶うものではないという絶望感を確かに名前に植え付けるほどに、夕焼けに照らされてかわいらしく光っていた。
「おはよう。今日は随分と早いね」
翌朝。いつも通り部活の朝練を終えて教室へと入ってくる不二に対して、名前は何とも言えない苦笑いを浮かべることしかできなかった。そんな名前の機微を不二はどこか感じ取っていたようで、それ以上は言葉を投げて来なかった。
「不二、名字と喧嘩でもしたの?」
「いいや?特に心当たりはないけど」
いつもであれば、今日の課題の話やら部活での話やら日常会話を始める二人が何も言葉を交わさないことに違和感を抱いたのだろう、不二の後ろをついて教室に入ってきた菊丸と、そんな言葉を交わすのが名前の耳に入る。確かに菊丸の言う通り、普段なら予鈴が鳴るまでずっと話しているというのに、今日に限っては名前の一方的な都合によって、それは叶わない。
名前は慌てて体調の悪いふりをして、そのまま机に突っ伏す。こんなにも授業を渇望した休み時間が過去にあっただろうか。遠くに聞こえる不二の声だけを正確に拾ってしまう耳が、今だけは憎らしくて仕方がなかった。
そんなこんなで過ごした一日は、いつもの数倍もの疲れが名前を襲った。誰が見ても疲れていると一目瞭然の表情のまま、騒がしい教室を後にする。帰路、どうしてあんな無謀な約束をしてしまったのだろう、と名前は後悔するばかりだった。協力、なんてことが罷り通るのであれば、こちらが協力してほしいくらいである。ふと鳴ったメールの受信音に鞄の中を弄れば、画面には不二からのメールだということを知らせる表示。
「今日、何だか体調悪いみたいだったけれど、大丈夫?明日は休みだし、ゆっくり休んでね」
この不二の言葉に他意はない。他の女子生徒はこれを羨んでいるのだろうけれど、名前にとっては、不二が名前に対して抱くものが、あからさまに自分が不二に抱くものとは違った感情である事が見え透いていて、苦痛だった。どうにも、自分には不二の友人という間柄から抜け出すことができない。暗にそれを告げられているような。この感情は所詮通い合っているものではなくて、一方通行でしかないのだ。
「なあ名字、不二となんかあった?」
そんな生活にも慣れ、名前はすっかり寝たふりがうまくなった頃だった。とある昼休み、教室をぐるりと見渡しながら名前にそう声を掛けてきたのは菊丸だった。名前は菊丸の声に応えるように顔を上げて、同じように教室を見渡す。確認したのは、互いにそこに不二の姿がないかどうか。
「いや別に、不二くんと何かあったわけじゃないんだけど」
「じゃあ、五組のあの子?」
「……え、なんで」
じっ、と突き刺すような菊丸からの視線に、名前は身動きが取れなくなる。思わず漏れた素っ頓狂な声に菊丸は腑に落ちたような反応を示したけれど、名前にはそれを肯定することができない。「誰にも口外しないでほしい」と彼女から頼まれている以上、ここで吐き出すことは約束を違えることになってしまう。
本当は、もう誰でもいい。一刻も早くこの事を誰かに吐き出して、楽になってしまいたかった。いつの間にか友人であった筈の不二に対して芽生えていた感情のことも、彼女との約束のことも、どうしようもなく遠い存在になってしまった不二のことを、より一層焦がれる気持ちも。
「最近の不二、なんか様子が変なんだよね。今日みたいに、突然いなくなったりするし。なんか知らない?」
「さ、さあ。それなら菊丸くんのが詳しいんじゃないの、部活も一緒なんだし」
「うんにゃ、俺にもよく分かんないんだよね。ほら、不二って何にも言わないからさ、そういうの」
確かにそうだ、と名前は頷く。思えば、普段であれば不二と話す流れで一緒に話すことの多かった菊丸とでさえ、話すのはもう随分と久しぶりだ。それだけ、不二との関係も、希薄になっているということ。それを実感して、胸が痛む。
菊丸が言うには、普段なら取り乱す事のない部活中でさえも集中力がまばらな時があるのだという。ついこの間も後輩にすら指摘されていたらしいのだが、当の不二本人はいつも通りの表情を繕ったまま、特別何も言わないらしかった。
不二の集中力が途切れるようなこと。
菊丸はそれを名前との関係悪化が原因だと捉えたようだったが、名前にはひとつ、それとは別の嫌な考えが浮かぶ。いつもならこの時間には教室にいるはずの不二が、教室にいない理由。それすなわち。
「にしてもおっそいな〜〜、不二のやつ。ちょっと出かけてくるだけだって言ってたのにさ」
不満を垂れる菊丸の背後に、名前はとある二つの影を捉えた。不二と、件の女子生徒。楽しそうに会話を弾ませるその姿に、名前は心臓に釘を刺されたような気持ちになる。それと同時に、菊丸からの問いがどこか結び付いたような気がした。教室に入ってきた不二と思わず目が合って、名前はその視線を勢い良く逸らす。不審そうに菊丸が振り返ったのに合わせて、不二はようやく口を開いた。
「ごめん英二、待たせたかな」
「も〜〜う!遅いぞ不二!早くしなきゃ怒られるの俺もなんだかんね!」
どうやら二人は部活の集まりがあるらしく、そのまま忙しなく教室を後にする。取り残された名前はただ唖然とする中、頭の中でひたすらに巡るのは先程目に入った彼女と不二の姿。今までも、ただの友人だというのに名前と不二が共にいることに難色を示す女子は多かったが、きっとあそこまで美男美女が並ぶと、誰も文句をつけやしないのだろう。それくらい、お似合いに見えた。
今更、あそこに自分が入り込む余地などあるのだろうか。今まで築いてきた関係なんて、所詮あの約束一つで覆ってしまうようなものだというのに。そう考えると、どうしようもない倦怠感に襲われる。もういっそ、本当にこのまま眠ってしまいたい。廊下を歩く先生にバレないようにひっそりとスクールバックの中からイヤフォンを取り出して、適当な音楽を再生する。もう、周りのどんな声も不快でならなかった。
放課後。びっくりするくらい晴れた炎天下の中、校舎の脇をテニス部が走っていくのが名前の目に入った。いつもなら、いないと分かっているときでさえその列の中から無意識に不二の姿を探すのに、今日はどこかそんな気にはなれなくて、黒板に書かれている先ほどまでの授業の跡を消していく。これが終われば次は日誌を書いて、教室の戸締りをして、それで日直の仕事は終了する。幸いなことに、今日の放課後は誰も教室に残っておらず、日直の仕事は思いの外早く終わりそうだった。
「ごめんね、遅くなって」
名前が黒板の高い位置に書かれた文字に悪戦苦闘している中、背後から聞こえてきたのは不二の声。今日の日直は運悪く名前と不二で、授業が終わった後に一言だけ名前に断りを入れてそそくさと教室を去っていった不二の代わりに日直の仕事を進めていたのだ。随分と久しぶりに自分に向けられたようにも感じる不二の声は酷く優しくて、胸が締め付けられる。
「ごめん不二くん、黒板の上の方届かなくて。踏み台見当たらないから、お願いしてもいいかな。日誌、先進めとくから」
「うん、いいよ」
顔を合わせられないまま、名前は吐き捨てるように投げかけて席へと戻る。机の中から既に端の折れ曲がっている不格好なノートを一冊取り出して、その中に必要な事項を書き込んでいく。最早三年間の中学生活の中で形骸化しているのその作業に無心になる名前に対して、その間不二は何故かじっと黒板を見つめたまま、動こうとしなかった。
「……不二くん?」
不審に思った名前が顔を上げて問いかけても、不二はそのまま手を動かすどころか、返事すらないまま。名前は恐る恐る席を立って、不二の顔を覗き込む。そこでやっと不二は名前の存在に気付いたようで、ハッとした表情を一瞬浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「これ、そのまま受け取っていいの?」
「え、なにが?」
「……いや、気付いてないならいいや」
そういってやっと不二は黒板消しに手を掛けて、未だにわざとらしく残っている文字に手を伸ばす。その間、不二の言葉の意味を読み取らんとジッと黒板を見つめる名前の頬が、赤く染まり始めるまで数秒。頭の文字が消えて、それは徐々に形を帯びる。いや、違う。いや、違わなくはないのだけれど。ひとり錯乱する名前の様子がおかしいことに気付いた不二は文字を消す手を止めて、黒板消しを戻す。
「そんなに動揺するってことは、都合よく取っても構わないのかな」
「え!?えっと、これはその、偶然で、」
「そうだろうね。明らかにこれは田所先生の筆跡だ」
女性の先生の、丸みを帯びた独特の字。国語の授業で詩をそのまま板書していた、その頭文字。それだけの話なのに、問題はそこに残された文字だった。
あなたのことがすきです。アナグラムにすらなっていないそのままの文章に、名前は卒倒しそうだった。これだけを残して不二に託すなんて、ラブレターを渡すよりもきっと恥ずかしいことをしている。無意識にやってしまったことでなんの意図もないけれど、この文章に込められた感情を否定もできない。
それよりも、だ。
名前の脳内を最も錯乱させているのは、他でもない不二の言葉。「都合よく取っても構わないのかな」というワンフレーズだけがリフレインして、何度も何度も鼓膜を通り抜けていく。不二にとって、この言葉は都合がいいのだろうか。それなら、名前の中に燻り続けているこの感情は、一方通行ではないのだろうか。とっくに脳はオーバーヒートを起こしそうなくらいにはいっぱいいっぱいで、深く考えられなくて。それでも、自然と口をついて言葉は出ていく。
「都合よく取ってほしい、です」
思わずこぼれてしまった涙を抑えきることができない。彼女に協力する、と言った約束も違えてしまった。様々な不安で熱を増す名前の目尻にそっと不二の指が這って、不二の目尻が下がる。この笑顔が自分だけに向く日を、名前はずっと心待ちにしていたのだろう。憑き物が落ちたように、心がすっと軽くなるような錯覚に襲われる。
「よかった。……僕も、キミのことが好きだよ」
「ほ、ほんとに?だって不二くん、隣のクラスのあの子が好きなんじゃ、」
「まさか。彼女にはテニス部のマネージャーになりたいって話を持ちかけられただけで、別になにもないよ」
証拠ならここに、と不二は自分の鞄から一枚のファイルを取り出して、それを名前に見せる。そこには確かに入部希望の旨と、彼女の名前が記載された書類が入っている。最後の半年だけの入部なんて珍しいよね、と笑う不二に、事情を知っている名前は苦笑いしかできなかった。ということは、不二の言葉は、本当に——半ば夢でも見ているかのように信じられていなかった名前の頭の中が徐々にクリアになっていくにつれて、不二の言葉がより鮮明にリフレインする。現実味を帯びるたびに増す熱や羞恥心に勝とうと、名前は必死に言葉を絞り出していく。
「あの、不二くん、」
「どうしたの?」
「その、こんな形になっちゃった、けど。改めて、よろしくお願いします」
「もちろん。僕の方こそ、よろしく」
日が徐々に長くなっていく、学生にとっての一年の始まり。沈む夕陽の中に溶けていくように、影がひとつになっていく。