クラクラ
呼び出された雑多な音で溢れかえる居酒屋の座敷には、酒やら脂っぽい料理の匂いやら男と女の香水の匂いやらが蔓延していて、黒マスクと帽子、黒縁眼鏡で変装したジュンは持ってきた鞄の肩ひもをずるりと落とした。
ジュンが今日の夜にご飯にでも行かないかと名字を誘うと、今日は飲み会があるからと断られた。帰りが遅くなりそうだったので迎えに行くと言うと、今度はサークルの軽い飲みだから大丈夫だよと微笑んで、やんわりと拒絶された。たしかにジュンは名前の帰りを待つような間柄でもないし、迎えに行く義理もないはずだが、そう突き放されると傷付くような感情は勝手にも持ち合わせていた。まあ端的に言うと、ジュンは名前を好いていた。それはきっと、片思いなのだけれど。
だからジュンはこの空間の男と女の比率のひとしさを見過ごせなかった。どう考えても合コンとしか思えない席順、しかももう席替えは行われた後のようで、正面向かってではなく横並びで談笑する姿があちらこちらで見られた。そもそもあの人は今日のは女の子しかいないから、とか言っていなかったか。そんなしょうもない嘘を吐かれるほど自分はあの人にとって邪魔な存在なのだろうか。
ジュンは途方に暮れて立ち竦んだが、そんなジュンの姿を見つけた座敷のある一角の人が大きく手を振っているのが見えた。近づくと、ジュンが名前と待ち合わせをする際に何度か会ったことのある名前の高校時代からの友人たちが固まっていた。その中のとりわけ彼女と仲のいい子の横で、頬を赤く染めた名前が全体重を預けて眠っている。しかしその無防備な寝顔を晒している面前や左隣には見知らぬ男たちも座っていて、ジュンは会釈しながらも無意識に威嚇するかのように睨みつけた。
「漣くんごめんね〜飲みすぎだって止めたんだけど、聞かなくて」
困ったように眉を下げた名前の友人はそう言いながら名前の頭をバシバシとたたいた。友人は起きな、お迎えだよ、と呼びかけるが、眠たげな彼女は駄々をこねる子供のように嫌々と頭を振るばかりで眼を開こうとはしない。ため息を吐いて、彼女の友人と一緒になって名前の身体を揺らす。いつもよりずいぶんと熱くなった彼女の体温が、火傷するほどに愛おしく感じた。
「ほら名前さん。帰りますよぉ」
ジュンが呼びかけると、名前の眼は突然ぱちりと開かれた。ジュンの存在を認識すると、花が咲いたように顔をほころばせる。酒で赤く染められたその表情はジュンの心臓をいとも容易く撃ち抜いた。こんな顔、他の男に見せないでください。そんな独占欲が名前のやわらかい頬を包んで、隣の男からの視線を防いだ。
「ジュンくんだあ。本物?」
「はい、本物ですから背中乗ってください。そんな感じじゃろくに歩けないでしょう?」
「え〜やだあ。お姫様抱っこがいい」
「はは、いいっすよ。途中で恥ずかしがってもやめてやらねえっすけど」
時間の経った生クリームのようにゆるく蕩けた甘ったるい眼、声でねだられて、断れる男がどこにいようか。ジュンは名前のショルダーバッグを肩に引っ掛けたあと、軽軽と彼女の身体を横に抱いた。名前は赤子のようにきゃっきゃと笑って、浮遊感を楽しんでいる。ジュンはじゃあ失礼します、と彼女の友人とついでに男どもにも会釈をして店を出た。座敷を横切る道すがら「ねえあの人誰!?」やら「名前ちゃん彼氏いたの!?」やら噂をする声が喧しく耳に入ったが、答えてやる義理などジュンは持ち合わせていなかった。
名前を横抱きしたままなるべく人通りの少ない道を選んで彼女の家へと向かっていたが、流石に腕が疲れて一度自動販売機横のベンチに彼女をおろした。歩調が心地よかったのか、はじめはお姫様抱っこに燥いでいた名前だったが、今はもう微睡みとろんとした目でいる。酔い覚ましの水を買って渡すとつめたさで身体をびくつかせたが、そののちほんのり微笑んで、火照った身体に透明な一口を流し込んだ。
ジュンもお茶を買って名前の隣に腰掛ける。じ、じ、という古びた自動販売機らしい気味の悪い音と少し離れて聞こえる大通りの車の音とが二人の静寂の間に流れていた。
あの。口を開いたのはジュンだった。
「どうして合コンなんか行ったんすか」
「……なんでだろうね」
はぐらかすように笑うのを、ジュンはじっとみつめた。口を割るのを待つつもりだったが、名前が手のひらに包んだ水を見つめたまま俯くのを止めないから、ため息をついて諦めた。しかしジュンはどうにも癪に触って、これぐらいならいいだろうと名前の頭をぐい、と自分の肩に乗せた。瞬間に香った酒と男物の香水の残り香がジュンの腹にどろどろと溜まる。隣に座っていたあの男のものだろうか。だとしたら匂いが移るほどなんて、どのぐらい近づいたのだろうか。腹いせにしたつもりが考えれば考えるほどに苛々した感情だけが募り、ジュンは勢いのままに口を開いた。眩うほどの酒匂を浴びて、ジュンも悪酔いしているのかもしれない。
「名前さん、香水持ってますか」
「え〜…あったかなあ」
名前は未だジュンの手元にある鞄を指さして、開けていいよとジェスチャーする。無防備だと思いながらも小さめのボトルに入ったスプレータイプの香水を見つけて取り出して、ジュンは躊躇わずに二回押した。花をそのまま溶かしたような甘い名前の匂いが、辺りに充満する。
「これそんな直でつけるものじゃないよ」
そう言ってわらう名前の吐息にはアルコールの匂いが残っていたものの、纏う空気はやっと彼女自身になった。ジュンはなんだかほっとして名前を強く抱き締めた。名前は一瞬だけ目を瞠った後、悲しそうに瞳に影を落として、ジュンくん、駄目だよ、と宥めようとした。ジュンはその静止を聞かなかった。鼻孔の奥を燻る名前の匂いをいっぱいに感じていた。
好きだと思った。
口に出すことは出来ないし、伝えたところで酒に記憶を預けた彼女は朝には忘れてしまうだろうけれど。どうして、気を許されているとは思うのに、あなたはこんなにも遠いのだろう。どうして、迎えに来ると言った時には拒んだのに、あなたが飲みすぎたときの連絡先はいつだってオレになっているのだろう。
問いただしたいことはいつだってジュンの中にごまんとあるのだが、そのどれか一つにでも触れれば、あの人は自分を逃れてどこか遠くに行ってしまう気がしていた。
だから、言えない。言わなくていい。
くらくらしそうなほど濃い彼女の香に埋もれるように溺れながら、そう思い込んだ。
「ジュンくん」
薄紅色の小さな唇が紡ぐ舌足らずな声が、ジュンを耳元で呼ぶ。
「だめだよ、こんなことしちゃ」
今でも泣き出しそうな声に、ジュンの抱き締める手は殊更強くなった。
「頼まれても来ちゃダメなんだよ」
わかっている。あなたとオレが結ばれる未来は、弱くて優しいあなたにとっては苦しいものにしかならないことも、多くの人を傷つけることも。
だから、続きは言わないでください。なんて、我儘にもほどがあるのもわかっていた。
「……ジュンくんが、アイドルじゃなかったらよかったのに」