誰を見ている
不思議と怒りは湧いてこない。広がる夜景が美しくて、虚しさが残るだけだ。
その日はもうすぐ付き合って6年になる男から誘われていた。お互いいい歳だし、恐らくそういうことになるのだろうと、微かに期待を抱いて向かったフレンチレストラン。もともと店先で待っていたのだが、予約時間になっても彼は現れない。高級フレンチは女ひとりで入るにはあれだったが、彼が仕事終わりの約束に遅れることはざらにあったから、仕方ないと思って店に入ることにした。机にはふたりぶんの皿とカトラリーが鎮座している。
少ししてウェイトレスが私の分だけの水を持ってきても、お食事はいかがなさいますかと問いかけても、もう少しだけ待ってくださいと情けなく会釈しても、何をしていても彼は来ない。
「お客様、間もなくラストオーダーのお時間でして」
そう言われて初めて気がついたが、私はずっと諦めがついていた。彼との付き合いは無に語りかけるのとよく似ている――神永新二とは、そういう男なのだ。
*
「すまない」
しばらく見つめて彼は一言、ようやくそれだけ言い添えた。足元からのぼった悪寒が心臓をひんやりと撫でる。嫌な予感はしていた。
日付も変わる頃に彼は姿を現したが、玄関に突っ立つ様子がどうにもいつもと違った。鋭いような、禍々しいような、包み込むような。
約束放ったらかして、最低。あまり怒ってはいないものの、少しくらい悪口言ってやろうと思って目を合わせると、不思議と何とも形容できない温度のない目が私を見下ろしていた。
何に謝っているんだ。
「私は神永新二ではない」
神永の見た目をした男がそう告げるので、私は酷く混乱して、立っているのにぐるぐる浮いているような心地がした。
*
彼が彼でなくなって数日。 世の中では禍威獣とかいうのが歴史的な災害となりつつあったが、彼が別人となって現れたあの日から様子は変わっていた。彼は禍特対という所属もあって度々家を空けることがあったが、そこは神永であった頃から変わらない。
狼狽する私に彼はひとつひとつ説明したが、まるで日本語を喋り慣れていないかのような丁寧な口調で、内容はあまり入ってこなかった。
要は、そのとき私の背後でつきっぱなしになっていたテレビでどのチャンネルを見ても特集されていた、禍威獣ネロンガを粉砕してみせた銀色の巨人……粉塵の中から突如姿を見せた謎の人型生物こそが、神永の姿をして喋っている目の前の何かなのだという。
この数日、私は愚行ながら同棲初日に振舞った料理を再現したり、付き合ってすぐに見た恋愛映画をサブスクで見せたりして、彼の反応を観察した。思ったよりも冷静に彼を受け入れて、私と神永の家に住まわせてやったのだ。理解できたのは、この男には神永の記憶や知識が引き継がれているということ。寝顔は神永新二そのままであること。そして、神永の記憶を保持していようと、その行いや思考は悲しいほどに別人である、ということだ。
「君は、神永新二の婚約者、だったか」
「やめてよ。婚約してないから」
「だが、神永新二は」
君に求婚するつもりだった。
画面の中では映画の主人公が恋人からプロポーズをされている。馬鹿らしくて映画を見るのをやめたところでやはり近頃現れ続ける禍威獣の特集しかしていなくて、そこに映る神秘的な巨人が、どうしても目の前のこいつだとは思えない。
外星人、なのだ。得体も知れぬ謎の生物。どういう原理で神永の見てくれをしているのかわからない。
「名前、なんて言うの」
「リピアー。そう呼ばれている」
やけに可愛らしい名前だ。神永の顔には、正直、似合わない。
リピアーは表情も変えないで、覚えたての手つきでリモコンを取ってテレビの電源を落とした。途端に部屋が静まる。こういう沈黙で、神永なら……そこまで考えて、続きが浮かばない。神永ならどうするか。神永なら何を言うか。――神永が、私に求婚しようとしていたという事実。彼の記憶を引き継ぐリピアーの発言は、神永を理解していなかった私に空振りした。
「神永は、君を愛していたよ」
「……そう」
「その感情も、私の中にある」
辿々しい喋りが、次第に憤りを呼び起こした。肌触りのよくないものが忽然と心の一角に芽生える。
「罪の意識があったんだ。君が愛していた神永を、殺してしまったことに」
「地球上陸の衝撃で死んじゃったってやつ?別にあんたが悪く思う必要ないんじゃないの。人間だって、歩いてるだけで蟻とか花とか踏んでるんだから」
「そうかもしれないが」
やめてくれないかな。だらだらと、どうにもならないことを述べるのは。
「教えて欲しい。君が神永新二を求めているなら、私はどうすればいい?どうすれば神永新二になれる?どうすれば君は」
乾いた音がして、手のひらがじんじんと熱くなった。頬の痛みは初めての感覚だろう。神永にもしたことがないのだから、リピアーが記憶を引き出そうとそこにはこの痛みの答えはない。
見た目は神永そのものなのが、なんとも腹が立つ。奇怪な出来事に私も混乱しているのだ。他人が、外星人が、私の恋人意図せず殺してしまい、調子よく成り代わろうとしている。ゆっくりと私を見る目が前髪に隠れているのが神永に似ていて、余計に激憤を募らせた。錯覚にも幻覚にも思えたが、紛れもなく神永の見た目をしている。
「……わからないんだ。君への思いが神永新二のものなのか、自分のものなのか。君を愛しいと思ったから、君が愛している神永新二になりたいと思ってしまった」
「私が愛しいんじゃないでしょ、それ。うっかり殺しちゃった人間にすら悲しんでくれる神様みたいな存在なんだよ。わけわかんないけど、人間が好きなんだよ、たぶん」
「神ではない。ひとつの生命体だ」
「神様だよ。突然現れて人間のために戦ってくれるの、神様じゃん。私は神様は愛せない」
受け入れようとした私が馬鹿だった。禍威獣と戦う謎の巨人が、ただの女と相容れるわけがないのに。
神永新二に成る方法なんて、私が知りたい。
しばらく石のような沈黙が続いて、リピアーは何も言わぬまま部屋を出ていった。職場にも寝床はあるだろうから心配はしていないが、もう少し言うべきことはあったのかもしれない。
*
それからしばらく、銀色の巨人ウルトラマンがどうとか外星人の侵略がどうとか、色んな報道や噂があったが、激動の時代は終わったように思えた。政治的にも大きな動きがありすぎて疲れてしまった。
ウルトラマンは最後に一度だけ地球に降り立ち、ゼットンと名付けられた禍威獣を撃破してみせ、それ以来禍威獣が出現することはなくなった。
結局あれは神永ではなく、理解し得ない巨大な何かに過ぎない。世界の誰も経験したことのない珍奇な出来事だ。世の中は平和な日本に戻ったようだが、もうリピアーは私の前には現れない、そんな気がする。