恋心の飼い殺し
目の前に空のグラスが崩れ落ちんばかりの勢いで積み上げられている。日焼けして色褪せた畳を張った狭い座敷の、通路に一番近い席に座ってしまった以上仕方ないとは思うけれど。ハイボール、カルピスサワー、焼酎に日本酒など、皆が好き勝手に頼んだ多種多様な酒の匂いがする。その飲み残しの匂いだけで、私は、たいした量も飲んでいないのに酔っているような気分だった。加州くんの飲み物頼む人〜という間延びした呼びかけに、「烏龍茶」と手を挙げる。その手でぱたぱたと顔を扇いでいると、永遠にちまちまジントニックを舐めている隣の男の子との間に、どっかりと大きな人影が割り込んできた。無理に押し入ったその人物は、「聞き捨てならねェな」と言いながら手に持っていたジョッキをテーブルに置こうとしている。
「烏龍茶たァ随分となまっちょろい注文じゃあねぇか、なァ?」
酒の匂いがする息と調子を外した声だけで、顔を見ていなくても相当酒が回っているのを察した。長い綺麗な黒髪が視界の端に揺れる。仲間内では周知のことだが、和泉守といえば下戸である。最終的には寝入って静かになるタイプだが、今は酔いが回り始めて間もないのか底抜けにご機嫌な様子だ。こういうときの彼は距離感がおかしくなってガードも緩くなることを、私は経験則から知っている。肩に回された少し熱い腕が、ぐいと私を引き寄せた。酔っ払った和泉守がこうして私に絡んで来るのだって今に始まったことではない。私もいつものように、酒に酔った非力な女という体をとって彼の胸元に頭を預けた。
「和泉守みたいに馬鹿な飲み方してないだけだよ〜」
「アァ? てめぇいい度胸じゃねーか」
そんなことを口にしながら、和泉守はしなだれかかる私を事もなげに受け止めて頭を撫でまわした。髪を雑にかき混ぜられたかと思えば、整えるように手櫛を通した指がおくれ毛をすくって耳にかける。こめかみのあたりを擽っていった指先の感覚にそわりとした。
その、女慣れした遊び人のような絡み方にも逐一頬が熱くなってしまうのは、私が男に慣れていないということではなくて、相手が和泉守だからだ。ただのミーハー的な感情だと思っていたものが三年かけて少しずつ育ち、いつの間にか実をつけていた。伝えるには熟れすぎた恋心のせいで、私は彼の言動に絶えず振り回されている。
けれど、私はなんとしてもこの気持ちを和泉守から隠し通さなければならない。
和泉守が女慣れして見えるのは、単なる酔っぱらった弊害だ。と、思いたいところだが、そうではないという悲しい事実を私は知っていた。和泉守みたいに恵まれた容姿と明朗快活な性格を併せ持った男が、そもそもモテないわけがないのだけど、そういうことでもなくて。
それは、大抵の人にとっては多分どうってことない話だ。それでも、私含め少なからず存在するはずの、彼に懸想する女にとっては目の前が暗くなるような信じたくない事実だった。
和泉守には恋人がいる。疑う余地もない、ゆるぎない事実であった。
和泉守が大事にしている『彼女』については、和泉守から直々に報告と紹介を受けた。実際に一緒にいるところも何度も見かけたし、隠す気などなさそうなSNSの投稿も見たことがある。付き合い始めて一年くらいだけど、ずっと前から恋仲だったようにすら思えるほど、仲睦まじく隙のない、お似合いのカップル。
そんな彼らは、絶賛冷戦中であった。
喧嘩の原因は当事者以外の知るところではない。けれど、彼らがお互いを徹底的に無視しているのは明らかだった。
言葉を選ばずに言えば、和泉守は恋人と喧嘩している間に別の女といちゃついている、割と最悪の男だ。そして、それをわかっていながら和泉守を窘めるどころか知らないふりをして乗っかっている私も、負けず劣らず結構な悪女かもしれない。少なくとも、和泉守の彼女から見れば目障りな女であることは間違いないだろう。
だけど、好きな男に肩を抱かれて振り払える女がいるなら顔を見てみたいものだ。不貞の共犯になっているような罪悪感と、和泉守の恋人に対する優越感との板挟みで、心臓が押しつぶされそうに苦しい。叶わなかった恋など、さっさと整理をつけて洗い流すに越したことはないのに。和泉守への捨てきれない一方的な感情が、棘のように胸に埋まってちりちりと痛む。私は和泉守のジョッキを奪って、何とも知らないその酒を呷った。
「おっ、いい飲みっぷりじゃねーか」
嬉しそうに言って私の背中を軽く叩いた和泉守に、いろいろと言ってやりたいことはある。「思わせぶりな態度を取らないで」とか、「ちょっとはこっちの気持ちも考えて」とか。でもこんなことを言ったら最後、和泉守が私の肩を抱くことは二度とないだろうし、彼に言わせれば友達と呼べる関係性に罅が入ることは間違いない。まして「彼女さんはいいの?」なんて訊いてしまうのは、それこそ悪女でしかないし、あまりにも品のない行いであるように思えて気が引ける。女がいる男を未練がましく想い続けている時点で、品も何もないかもしれないけれど。
そんな葛藤を抱えた結果として言葉が出なくなった私は、うんともすんとも言わないまま持っていたジョッキを和泉守のほうに押しやった。楽しそうに酒を呷り続ける和泉守の白い喉をぼんやりと見つめる。酒を飲んだのに、意識はやけに冴えざえとしていた。──このまま飲ませて、酔い潰れたこの男を、こっそり家に連れ込めたら。私がそんな不道徳なことを考えているだなんて、きっと彼は気づかないだろう。
「和泉守の飲み方、好きだよ」
「お前、ンなこと言ったって手加減してやらねェぞ〜?」
「……えぇ〜、残念」
私の肩を小突いて悪戯っぽく笑う顔を見ていられなくて目を伏せる。逸らした先で、畳と同じく古くなって埃をかぶった灯籠が目に入った。ある意味想定通りに誤解した返答はそのままにしておいたほうがいいと私は知っていた。和泉守の動きが徐々にふらふらと覚束なくなってきているのを、肩と肩が触れ合う感覚で察する。
彼を潰してしまおうという私の計画の性質上、止まる気配のない酒の進みを敢えて止める必要はない。けれどどうしても卑怯になりきれない私の良心が、彼に水を勧めずにはいられなかった。
そうやって変にまともらしい振る舞いをした結果がこれだ。
深夜と呼ぶにはまだ少し早い夜空の下で、私は一人落胆の溜め息を吐く。さっきまで私が乗っていた、そして今は和泉守だけを乗せたタクシーが交差点で右折するのを茫然と眺めながら、別れ際の彼の言葉を反芻していた。
「オレはお前をしょうもない浮気相手になんざしたくねぇんだよ」
わかるだろ。そう突き放された。私が水を飲ませたばかりに程よく泥酔状態から理性を取り戻した和泉守は、私の誘いには乗ってこなかった。放心した頭では街灯の色もわからないし、タクシーのエンジンの音も耳に入らない。そのナンバープレートが見えなくなって、ようやく指先に神経が通った。完全にあしらわれたし、なんなら、隠しきるつもりだった不純な感情も暴かれてしまったかもしれない。
はは、と自嘲的な笑みが零れた。心底呆れてしまう。自分に、である。
好きな人の悪癖をいいように利用して使って自分勝手なやりきれなさを満たそうとする卑怯さにも、中途半端に善人ぶる性悪さにも。恋心に付随する自己嫌悪が私をぐるぐると縛り上げて、素直に気持ちを打ち明けることができないでいた。自分と同等に悪い男であると思っていた彼にきっぱり線を引かれたという事実も、心の罅に鉈を振り下ろされたような重みと衝撃を持っていた。
その夜の鬱々とした気分は涙でも酒でも晴れることはなく、私は一睡もできずに悲しみなのか怒りなのかよくわからない感情を持て余していた。どうせならお門違いでも彼を恨んで、嫌いになれたらよかったのに。突き放されても好きだなんて、忌まわしいこと極まりない。
最悪の気分で朝を迎えた今日、正直家から出ることも億劫だったのに私は大学で和泉守を探して歩いている。昨晩タクシー代を負担してもらったという別に気がつかなくてもいいことに気づいてしまったからだ。彼に会うために歩いているという今の状況も辛いし、さくっとお金を渡して家に篭りたい。会いたくないけどでもやっぱり会いたいと思ってしまうのは、私が恋を捨てきれていないという何よりの証明なのかもしれない。最悪だ。
和泉守の居場所について、加州くんなら知っているかもしれないと思い立ってスマートフォンを開く。試しにトークアプリで訊ねてみたら、画面を閉じるよりも先に既読がついて、驚いている間に電話がかかってきた。
「はい」
『おはよ、今どこにいんの』
「カフェのとこ。どこ行ったらいい?」
『展望台の柵のとこまで来なよ。面白いもの見れるからさ』
楽し気に言った加州くんに細かいことを尋ねる前に通話が切れた。え、と戸惑いつつも、他にあてもないのでとりあえず加州くんの言う場所に向かうことにする。
展望台は少し高いところにあって、二十段くらいの階段をのぼったところに柵に囲まれた公園みたいな場所がある。今日は天気も良く汗ばむ程度に暑いけれど、風がよく吹いているせいかこの近くは少し肌寒い。階段を登りきったところで風にあたっていると、視界の奥で加州くんが手を振っているのが目に入った。
「面白いものって?」
「あっち。見てみなよ」
てかタク代とか別に返さなくていいんじゃねって思うけど。ついでのようなそのつぶやきには耳を塞いだ。昨日のことがあったから、理由がなければ会いに行きづらいのだ。
加州くんが指で示した方向を見れば、まさに私が探していた和泉守のよく目立つ頭が見えた。一瞬心が躍ったのもつかの間、彼の視線の先にいた人物を認識してすっと冷めていく。まぎれもなく和泉守の恋人だった。私と加州くんに気づいていないらしい二人はしばらく睨み合っていたのち、しびれを切らした女のほうが和泉守の胸に飛び込んだ。反射的に目をそらしてしまう。見ていられないというより、何も見たくなかった。
「この、浮気者っ」
胸元のシャツを掴んで揺さぶるそのしぐさは、彼の瞳にはたいそういじらしく映っていることだろう。
「おいおい誰が浮気者だってェ? どの口が言ってんだよ」
言い返しているようでいて、その実うれしそうなのが声だけで透けている。自分の行動に嫉妬して音を上げた彼女が愛おしくて仕方ない、とでも言いたげな声。お互いに対する怒りも静まり、冷戦期間という名の意地の張り合いを続けるのも限界で、あとは仲直りをするだけだったのだろうと思う。
つまり結果論で言えば、私は痴話喧嘩の仲直りのダシに使われたということだ。
互いに憎まれ口をたたき合いながらも愛情にあふれていることがわかるような関係性に、初めからつけ入る隙などない。わかっていたはずだった。それを裏付けるように、視界の端をよぎった二人は腕を組んでいた。
こんなことなら、一度でも抱いてもらえばよかった。せめて一夜でも思い出があれば、少しは慰めになったかもしれないのに。それもできないから、捨てなければならない恋を捨てられずに、行き場をなくして立ち尽くしている。善人の皮なんてさっさと脱ぎ棄てて、もっと意地汚く、下品に、なりふり構わず彼に迫っていたとしたら。そうしたら、何か違っていたのだろうか。