夏油傑と麻婆豆腐


9月とはいえ残暑がまだきつい日だった。天気予報で今日は肌寒くなるでしょう、なんてお天気お姉さんが言うのを信じた私が馬鹿だった。高専の冬服は黒いし厚いしで心なしか体も重い。ただ、今日の私は麻婆豆腐の気分だったのだ。しかも、胃が荒れるくらい激辛なやつ。
先程まで一緒に買い物をしていた硝子にはすげなく断られてしまい、私は一人でとある中華料理屋の前に立っていた。目の前には「激辛マーボーチャレンジ実施中!」とポップな字体で書かれたポスターが貼られている。

「う〜ん…………」

ポスターによると、どうやら完食したらタダらしい。しばらく宣材写真とにらめっこしながらうんうん唸っていると、いつの間にか隣に誰かが立っていた。

「……あれ」
「やぁ」

そこにいたのは、同期の、いや、元同期の、夏油傑だった。つい最近とある村落の住民を皆殺しにして、あまつさえは両親にも手をかけた、呪詛師。あまりにも今までと変わらない様子で傍に立っていて、少し驚いた。

「どしたの」
「んー、運試し?」
「へぇ」

夏油は次に私がどう動くのかつぶさに確認している。心配しなくても、殺しやしないのに。

「あ、ねぇ」
「なんだい」
「これ一緒に食べてよ」
「……いいよ」

私が指差しした先を見つめて、目をぱちくりとさせてから夏油はゆっくりと頷いた。夏油が一緒に食べてくれるのなら恐らくクリアできるだろう。赤い暖簾をくぐり座席に案内されたと同時に、激辛麻婆でと店員に告げた。待っている間携帯を確認すると、硝子からメールが一件来ているのに気付く。

「硝子に会ったの?五条は?」
「まだ」
「会わないつもり?」
「どうだろうね」

イマイチはっきりしない返答に首をかしげながらお冷を飲んでいると、ものの数分で麻婆豆腐がやってきた。さすが激辛、地獄の底みたいに赤い。取り皿に料理を取り分け夏油に渡して、自分の分も取り分ける。いただきます、と呟き麻婆豆腐を口に運び始めた私を見て、ようやく夏油も口をつけはじめた。

「……何も聞かないのかい」
「あ、聞いてほしかった?」

すごく辛い。喉が焼けそう。少し咽ながら水をあおり、聞きたいことを必死にひねり出す。

「じゃあ……なんで?」
「術師だけの世界を作るんだ」
「へぇ」

夏油はこれぐらいの辛さは平気なのか、うっすら汗を滲ませながらも次から次に麻婆を口に運んでいる。

「それは……術師のままじゃ駄目だったの?」
「……そうだね。駄目だった」
「そっか」

そこで沈黙が訪れた。かちゃかちゃとレンゲと食器とが触れ合う音と、周りの客の談笑、厨房の賑やかな音が私たちの間に響く。流石に限界が来たのか、夏油は水を一気に半分飲んでいた。

「……終わりかい?」
「夏油って意外と喋りたがりだよね。うーん、まぁ最後だろうし……あっ、借りてたDVD貰っていい?」
「いいけど。……調子狂うなぁ」

そう言って微笑む姿は、私の知っている夏油傑そのものだった。とても百人を超える人々を手にかけたなんて思えない。
約三年間青春を共にした同期。この4人で卒業して、呪術界に残り続けるものだと漠然と思っていた。星漿体の一件以降、男子二人組、特に夏油の様子がおかしいのはなんとなく気付いていた。でも、それは私たちみたいな若者故の葛藤で、過渡期に必要なものとばかり思っていた。どうやら、それは呪術界にとっては悪いほうに働いてしまったようだ。

「……何だい?」

夏油は吹き出る汗を拭いながら、まじまじと自分のことを見る私に怪訝な顔を向ける。

「……これからの夏油の"幸せ"はさ、たくさんの屍の上にあるんだなぁ、って」
「呪いみたいなことを言うね」
「わざとだよ」

嫌味のようににっこりと笑って言えば、返事として乾いた笑いが返ってくる。そうしてあと少しで完食、というところで夏油は残りの水を全て飲み干し、その場に立ち上がった。

「ご馳走様、後は頑張って。ちなみに」
「?」

夏油は店内に貼ってあるポスターを指さし、愉快そうに笑う。

「激辛チャレンジはおひとり様限定だよ」
「あっ」

夏油は私がポスターに一瞬目を向けた隙にいなくなっており、そこでようやくご馳走様、の意味を理解した。夏油にご馳走したのは、これが最初で最後だ。
麻婆豆腐の最後の一口を流し込む。辛さでひりひりと舌が悲鳴を上げ、視界が滲んだ。