伏黒恵と肉じゃが



たまたま任務が予想されてた等級よりもずいぶん弱くて、まさに秒で夕方の仕事が終わった日。私は補助監督にお願いして自宅でも高専でもはたまたおいしい料理屋でもなく、ある住宅街付近で下ろしてもらった。目的地に向かいながら時間を確認すると、今は6時過ぎ。帰ってきていてもおかしくない時間だ。目的の家の二階の窓を見上げると電気はまだついていなくて、家主は不在のようだった。
しょうがないから傍の階段に座って携帯をいじっていると、20分程経った頃にがさがさとビニール袋の音が聞こえてくる。顔を上げると、もうすっかり見慣れたブレザーを着た少年がこちらを見つめていた。

「……なまえさん」
「やっほ、恵」

ゆるく片手をあげて名前を呼ぶと、恵は軽く頭を下げて挨拶してくれた。来る時はいつも連絡を入れていたからか私の突然の訪問に少し驚いているみたいで、いつもよりも少し目が大きく開かれていてちょっと面白い。

「どうしたんすか」
「いや、一人暮らし大丈夫かな〜って、偵察に」

私がそう聞くと恵は、今までも子供二人だったんだから別に、と言って階段に座る私の横を通った。その背中を追って私も階段を登る。部屋の扉の前に着き、鍵を探している恵に私はいつもの質問を投げかけた。

「ごはんちゃんと食べてる?お腹空いてない?なんか食べる?」
「いや、今から作るんでいいです」
「何作るの?」
「肉じゃが」
「肉じゃがか〜、いいよね。家庭の個性が出て」

私がそう言うと、恵は見つけた鍵を鍵穴に差し込んだ状態でぴたりと止まった。どうしたのかと顔を覗き込むと、何か言いたいような、でも言いたくないような、そんな微妙な表情を浮かべている。なになに?とさらに距離を詰めると観念したのか、恵は歯切れ悪く小さな声で話し始めた。

「……何回も作ってるんすけど」
「?うん」
「前みたいな味に、ならなくて」

その言葉で全ての察しが付いた。ほんの数か月前まで彼は一人の義理の姉、伏黒津美紀と二人でこの部屋で暮らしていた。随分と前五条にこの姉弟の元に引きずられてやってきて以来、私も不定期に彼らを訪ねて交流を続けていたんだけれど。
優しくて、笑顔が可愛くて、恵のことを大切に思っていた津美紀。そんな彼女は今、呪われて病院で寝たきり状態になっている。何もわからない、と恵に伝えた時の彼の表情を、私は今もはっきりと鮮明に覚えていた。

前みたいな味、ということは、恐らく肉じゃがは津美紀が作るものだったんだろう。彼女のレシピを知る術がない恵は、何度も試行錯誤して肉じゃがを作っていたようだった。

「そっか。手伝おっか?私、前津美紀と作ったことあるよ」
「……お願いします」

鍵を回して扉を開けた恵がこちらを真っすぐと見据えて頷く。そうして部屋に入っていく恵の背中を、バンと元気づけるために軽く叩いた。






「まず恵はどうやって作ってんの?」

恵が買ってきた食材を前にして、二人でキッチンに並ぶ。お肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。揃っている材料は津美紀の肉じゃがと同じだ。

「どうって……普通に」
「その普通が知りたいんだって」
「……野菜切って肉切って」
「うん」
「炒めて」
「はい」
「煮る」
「いや……まぁそうなんだけども」

分量とか細かい順番とか色々あるじゃんと聞けば、目を逸らされた。それじゃ再現できたとしてもまた作れないのでは?

「しょうがないな〜、まぁ見てなよ」

腕まくりをしてからじゃがいもを手に取り、表面を水で洗っていく。そのついでに人参も洗ってしまって、その場にあったボウルを引き寄せて野菜たちを放り込んだ。恵に皮むきを頼んで、私は玉ねぎに手を伸ばした。手で皮をむいてから、まな板と包丁を出してくし切りにしていく。

「なまえさん、料理するんすね」
「一人暮らし長いしね〜、ある程度は」

恵は話しながらじゃがいもの皮を手際よくピーラーで剥いている。ちなみに私は玉ねぎに目をやられ天井を仰いでいた。

「意外だった?」
「いつもなんか買ってくることが多いから、下手なのかと」
「失礼だな」

玉ねぎをさっさと切ってしまって、恵が皮をむいた野菜を次から次へと乱切りにしていく。せいぜい二人分の量だからか、案外早く切り終わった。
鍋に油を熱して玉ねぎを放り込むと、じゅうじゅうと早速いい音がキッチンに鳴り始める。しばらくしてから細切れのお肉を入れたら、香ばしい匂いも立ち込めてきた。

「まぁでもこの辺りは一緒じゃないの?味付けだよね、多分。何入れてるの?」
「水、砂糖、しょうゆ、みりん」
「あ〜、津美紀はお酒も入れてたよ確か」

人参、じゃがいもの順番に材料を鍋に投入していく。全体に油が回った頃、水と砂糖を入れて、他の調味料も鍋に流し込んだ。

「でもまぁ、お酒無いからってそんなに味変わる……のかな?」
「さぁ……」

何か忘れているような気がしつつも、落し蓋をして中火で煮込んでいく。ぐつぐつと音を立てる鍋からは既に肉じゃがのそれらしい匂いが漂っていた。

『これを入れるとコクが出るの』

「……あ、味噌かも」

15分ほど煮込んで鍋の様子を伺ったその瞬間、津美紀の言葉を思い出した。確か1年ほど前の話だ。まだ恵が帰っていなくて、津美紀が夕食の肉じゃがを作っている時にちょうどお邪魔して手伝っていた時のこと。我ながら思い出したことに感心しながら、冷蔵庫から味噌を取り出す。彼女は確か、煮込んだ後にそれを入れていた、はず。記憶を頼りに少しだけ味噌を投入して、鍋の中をゆっくり掻き回す。なんとなく味噌が全体に馴染んだ頃に菜箸でじゃがいもとにんじんに箸を刺すと、するりと沈んでいった。

「口開けて」

菜箸でじゃがいもを一口大にしたのを恵の口元に持っていく。意外にも素直にぱかりと口を開けた恵の口の中に芋を放り込むと、まだ熱いのかはふはふと冷ましていた。なんだかひな鳥に餌をあげている気分だ。

「どうよ」
「……」

恵が咀嚼しながら小さく頷く。当たりみたいだ。

「これで作れるね」
「……ありがとうございます」
「なんのなんの」

器に肉じゃがを盛りながら、私も一つだけよく煮えたじゃがいもをつまみ食いした。1年前ご相伴に預かった時と同じ味だ。いつかこれを彼女に食べてもらったらどんな顔をするんだろうか。驚くかな。

「私もこれ食べてっていい?」
「むしろ帰るつもりだったんですか」
「いや、嫌だったら申し訳ないから」
「ここまできて帰られたら逆に嫌いになります」
「それは大変」

最初に出会った頃からは考えられない軽口を叩いてくる恵はゆるく笑みを浮かべている。ちょうど炊飯器が炊飯完了の音を立てて、どちらのものともつかない腹の虫がぐうと鳴いた。