「やっ、た〜〜〜〜〜……」

ホッチキスでひとまとめにした楽譜を教授に提出した私は、廊下で人目もはばからず両手を突き上げ伸びをした。
7月のはじめ、期末期間のためか学内はいつもより騒がしい。練習室はいっぱいだし、みんなどこか切羽詰まった表情を浮かべている。
そんな中、学内演奏会の出品作品という前期最後の課題を資料室に提出した私は足取り軽くキャンパスを歩いていた。今日はもう何も授業が無いので学内に残る必要もなくて、迷いなく正門から出て上野駅の方へと足を進めていく。あの課題を出した以上、あとは座学の授業でテストがちらほらあるくらいだ。制作課題じゃないっていうだけでものすごく気持ちは軽い。

「何しようかな」

つまりのところ、時間があるのだ。聞いたことのないアーティストの曲を聴こうか、作りかけの曲の続きに手を出そうか、暑いのでなるべく木の陰を通りながらぼんやりと考えていたところで、ぴんと頭の中でメロディが降りてきた。
そう、制作課題をやりながらも頭の片隅で考え続けていた曲があったのだ。授業で仲良くなった打楽器専攻の子が組んでいるバンドの曲で、出来れば8月までと言われていた曲。歌詞にメロディやリズムやベースラインを付けるんだけれど、いまいちピンとくるものがなくてとりあえず課題が終わるまで放っていた。その曲のメロディが、ふと降りてきた。
慌ててカバンから何も書いていない五線譜を取り出して、きょろきょろと周りで物が書けそうなところを探す。周りには石でできたベンチと、オープンテラスがあるカフェ。カフェに入って注文する時間も惜しくて、私はベンチの上に紙を広げた。一心不乱に溢れるメロディを書き殴る。
大学生活は楽しい。色んな人に出会えて、色んな先生と出会えて、世界が一気に広がったような感じがする。刺激が沢山の毎日で、溢れる制作欲は留まることを知らない。
一節書けばまたすぐ次の一節が思いついて、ペンは羽が生えているかのように勝手に動き出す。アドレナリンがどばどば出ているようで、心臓が段々と高鳴っていた。まだだ、まだいける。まだまだ書ける。ゾーンの状態に入ったのか次から次へと五線譜をめくっていると、ごうっと強い風が吹いた。

「わわっ」

咄嗟に両手で紙を抑えて、何とか飛んでいくのを防ぐ。そんなことに書くのを遮られるのも嫌で思わず舌打ちをして続きを書き進めていると、またひと際強い風が吹いた。

「わ〜〜!!」

今度は抑えるのが間に合わず、とうとう五線譜が空を舞った。あ〜あ、と心の隅で思う一方で、見上げた景色が綺麗で思わずぼうっと見つめる。晴れた空の水色と、舞う紙の白と、傍の木の緑が完全な調和を生み出していた。きれいだなぁ、これでもう一曲書ける人もいるんじゃないか、とぼんやりと思っているうちに、顔面に一枚舞っていた紙がぺしりと当たり正気に戻る。そうだ、楽譜、拾わなきゃ。
きょろきょろと周りを見渡すと、何枚かは地面にとっくに落ちていた。それを慌てて拾って枚数を数てみると、一枚足りないことに気づく。誰かが近づいてくる気配がして、拾ってくれたのかなとぱっと顔を上げると、予想通り楽譜らしき紙を握る男性が立っていた。第一印象は、金髪ピアス。それと、チャラそう。ありがとうと礼を言う前に、あの、と声を掛けられ首をかしげる。はて、知り合いだったかな。何かを言い淀む彼を覗き込んで次に発せられる言葉を待っていると、少し上ずった声であの!と詰め寄られた。

「お、俺のモデルになってくれませんか」

その予想の斜め上の申し出に、私はぽかんと口を開けることしかできなかった。












紙が風にさらわれて、空に舞い上がっていく。それに手を伸ばした横顔を見て、俺は映画のワンシーンみたいだな、なんて陳腐な感想を抱きながらもその光景に目が釘付けになった。そうしてこちらに飛んできた紙を思わず手に取った瞬間彼女と目が合って、頭で考えるよりも先に声が出ていた。






「それでは今日の講義はこれで終わり」

教員のその言葉で少し張り詰めていた教室の空気がふっと緩む。ちょうど次は昼休みだからか、周りからはどこで食べる?やら、何食べる?といった会話がちらほら聞こえた。一緒の授業を受けている知り合いがいない俺は、どこか近場で適当に済ませようかと立ち上がる。
一学期の作品の講評もすべて終わって、あとは座学の講義が終わればもう夏休みだ。一学期最後の講評の後から、俺はこれといった絵を描いていなかった。

『絵でやる意味ある?』
「…………はぁ」

ふとした時に槻木教授の言葉が過る度、ずしんと心が鉛になったみたいに重くなる。とぼとぼと歩きながらひとまず校舎の外に出ると、陽の光がまぶしくて目を細めた。

「切り替え切り替え」

次の課題が出るのなんてせいぜい夏休み明けで3カ月ほど先の話だ。藝祭の準備もあるし、純田たちと旅行にも行くし、夏休みは好きなことをして過ごすつもりだ。
それより今は昼飯だ。昼休みの後は一時間空いてまた授業だからそれなりに時間がある。いっそのこと駅の近くまで足を伸ばそうとそのままの足で校門をくぐった。
上野駅周辺にはそりゃあもうたくさんの観光スポットがある。上野動物園にアメ横、東京国立博物館、上野恩賜公園エトセトラエトセトラ。平日だろうとそれなりの人が行きかっている。
その中の一つ、東京都美術館の横を通ってまっすぐ駅の方へ向かっていく途中。突然ごうっと風が吹き、あたりの木が一斉にざわめいた。

「わわっ」

そのざわめきの中で小さく声が聞こえて、なんとなくそちらの方に目を向けると、予想外の光景が目に入る。
そこでは石のベンチの上で大量の紙に囲まれながら女性が必死にペンを滑らせていた。しかも普通に座っているんじゃなくて、ベンチを机みたいにして一心不乱に何かを書いている。大学では外で何か作っている人を見ないわけじゃないので慣れているつもりだったけど、いざ大学の外でその光景を目の当たりにすると若干面食らった。
その様子から不思議と目が離せなくてじっと見つめていると、再び風が強く吹く。

「わ〜!!!!」

今度は風に乗って辺りの紙が舞って、ようやく女性が顔を上げる。下世話な好奇心で顔をよく見ると、空に舞う紙を見上げる目がキラキラと輝いていて思わず息を呑む。
それを見た瞬間、そこだけスポットライトで照らされてるみたいに見えた。
空に舞った紙が一枚だけ近くに落ちてきて、さっと手を伸ばして掴む。紙には五線譜と手書きの音符が書いてある。もしかして藝大生?と思うと少しだけ嬉しくなる。
紙が俺のほうまで飛んでいることに気づかず紙が全部足りているか数えている彼女の方に足を進めたら、こちらに気づいたのか顔をぱっと上げたところで目が合った。

「あの」

するりと勝手に声が出る。

「お、俺のモデルになってくれませんか」

首を傾げた彼女に楽譜を手渡して、つっかえながらも気づいたらそう声に出していた。