「お待たせ、矢口くん」

音楽学部と芸術学部は道路を挟んで向かい側にある。音楽学部の方の校門に携帯をいじりながら寄りかかっているとそう声を掛けられ、ポケットに携帯をしまって顔を上げた。

「いや、大丈夫」
「行こうか」

こっち、と俺を導く背中を見つめながら、俺は再びあの日のことを思い出していた。




「……モデル?」
「あっいやあの、その」

何を言っているんだ、と口に出した瞬間後悔していた。こんな初対面でよく知らない相手にこんなことを言われて、絶対怪しんでいるに違いない。顔を背け片手で顔を覆うと、手のひらで触れた自分の顔は想像以上熱を帯びていた。沈黙が重い。ここは何でもないと言って立ち去ろうと彼女の方に向き直った瞬間、ばちりと目が合った。

「……美術学部の人?」
「ソ、ソウデス」
「ふぅん」

じろじろと俺の体をいろんな角度から見回しながら、件の女性はなるほどね、とつぶやく。どうせ断るだろう。いや、むしろ断ってくれ……!

「や、やっぱ」
「いいよ」
「えっ」

まさかのOKに、余所行きの笑顔を取り繕う間もなく仰天する。ま、まじか。
ぽかんとする俺に彼女は、「それ拾ってもらっちゃったし……」と俺が依然として握る紙を指さして続けた。……あ、もしかして返してもらえないとか思ったのかな。もちろん返すし、なんとか無かったことにならないかなと俺は自分で言ったくせに失礼ながらもそう考える。いや違う、嫌なわけじゃない。この人は普通に可愛い部類だし、仲良くなりたいからなりたくないかと言われれば正直なりたい。でもいくらなんでも俺ただの変なやつじゃん……とかなんとか頭の中でぐるぐると言い訳を浮かべていると、彼女はいいことを思い付いたと言わんばかりに人差し指を突き出した。

「1つ条件いい?」





「ほんとにいいの、お礼が俺の絵なんかで」
「せっかく美術学部が一緒の音大に入ったから、そういう美術系にも触れとこっかなっていう魂胆」
「な、なるほど」

あまり表情が豊かな方では無いのか見下ろすと見える横顔はつんと澄ました感じ。それでも、声色は柔らかくて怖い印象は無い。

「ていうか練習室って俺みたいな違う学部でも入っていいの?」
「借りてる人が一緒ならね」

お目当てらしい校舎に入り、俺は階段を上りながらきょろきょろと校舎の中を見回す。音楽学部の校舎に入ることなんてまぁないので新鮮だ。そのままみょうじさんの後をついていくと、個室がずらりとあるエリアに到着する。中の様子をうかがうと、どの部屋にもでんと大きなピアノが備え付けられていた。迷わず足を進めていたみょうじさんがある部屋の前でぴたりと止まり、ポケットから鍵を出して扉を開ける。どうぞと先に入るように促され足を踏み入れると、独特のにおいが鼻をついた。

「矢口くんは……油絵?だっけ?」
「うん」
「さすがにそういう油の画材?は使っちゃダメだけど……えんぴつくらいだったら、全然大丈夫だと思うよ」

部屋に入って早々ピアノの蓋?を開け、椅子の高さを調節してる彼女を横目に、ひとまずきょろきょろと部屋の中を見回す。部屋の中心にあるピアノが存在感をひと際放っている一方で、窓から差し込む陽の光がみょうじさんに柔らかく降り注いでいて、眩しくて思わず目を細める。

「立てかけるやつみたいなのなくて大丈夫?」
「あ、うん。多分」
「でも……あ、譜面台使いなよ」

それと椅子も、と部屋の中をぱたぱたと動き回りあっという間に環境が整えられる。譜面台はイーゼルよりはもちろん書きづらいだろうけど、無いよりはましだ。

「えっと…………とりあえず、普通にしてればいい?」
「えーっと、まぁ、好きにしてて」

俺のその言葉でみょうじさんはカバンから何やら紙を取り出し、ピアノの譜面台に立てかけてピアノに指を滑らせ始める。その姿をぼんやりと見つめながら、いったい何を描こうか逡巡しはじめた。

「(……勢いで言っちゃったからな〜)」

正直、今でも自分がなんであんなことを言ったのか分かっていない。ただ、モデルになってくれと頼んで承諾されてしまった以上、それに絵をあげると言ってしまった以上、今更断るのはなんだか悪い気がした。
とりあえずデッサンでもするか、と持ってきたスケッチブックを譜面台に立てかけて鉛筆を握る。みょうじさんはペンを紙に滑らせて、ピアノを弾いて、またペンを握ってをずっと繰り返している。じっと楽譜を見つめる目が陽光できらきらと輝いていて、つい目を奪われる。あの時、空に舞った楽譜を見上げる瞳と全く同じだ。
そういえば、初めて会ったあの時も一心不乱にペンを走らせていた。しかもベンチを机にして。話してるとそんな変な人じゃないと思うんだけど、あの奇行を思い出すにそれは違うかもしれない、なんてことを失礼ながらも思った。
そうして一言も会話が交わされず、ピアノの音と鉛筆が紙にこすれる音だけが部屋に響いて一時間ほど経った頃。突然俺も知っているようなJポップのメロディーが流れ始めた。

「あ、それ知ってる」
「息抜き息抜き」

曲を口ずさみながら何フレーズか弾いてと思えば別の曲を弾き始めていて、メドレー形式で最近流行りの曲が流れていく。ぱっと弾けんのすげーな。

「そういやみょうじさん何科?」
「作曲科。そういえば言ってなかったね」

なるほど、だからあの時も今も楽譜に自分で音符を書いたりしていたのか。俺はそう腑に落ちて、手を動かしながらそのまま質問を続ける。こちらも息抜きだ。

「今やってんの、課題?」
「ううん。友人に頼まれて書いてるバンドの曲」
「バンド!?」
「課題でやらないような曲も作っておきたいからね」
「へぇ〜……」

考えてみれば、絵に油画や日本画やらなんやら種類があるのと同じように、音楽にだってジャンルはいろいろある。てっきり音大にいる人はクラシックしかやらない、なんて考えていたけども、見当違いだったようだ。

「……みょうじさんはさ、なんかこう……なんで曲を作るのか、とか、考えたことある?」

その瞬間、俺の頭にはあの槻木教授の言葉が頭を過っていた。絵と音楽なんて全然同じじゃないだろうけど、どういう考えをするのか少し知りたくなった。

「なんで……なんで?」

うーん、と演奏をやめ腕を組んで考え込むみょうじさんをじっと見つめて答えを待っていると、ぱっと勢いよく顔を上げたみょうじさんに少しだけ驚く。

「…………作りたかったから、じゃダメ?」
「なんていうか……なんで音楽を選んだの?創作活動なんてたくさんあるじゃん。それこそ、絵とか」
「私、絵下手だからな」

まぁそういう話じゃないんだろうけど、と呟いてみょうじさんは再び考え込み始めた。

「……うーん。ごめん、分かんないや。私は幼稚園の頃にピアノに手を伸ばしたから音楽をしているけど、それがクレヨンだったら絵だったかもね」
「……そんなもん?」
「そんなもんじゃない?」

……そんなもん、なのか?

腑に落ちないと首を捻ると、みょうじさんはそんなもんだってと笑ってまた鍵盤に指を滑らせる。

「君が何に迷ってるのか私は知らないけど。もう少し、色々自由に考えていいと思うよ」
「……それってどういう」

ぴたりとみょうじさんの手が止まり、部屋には嘘のような静寂が訪れた。えーっと、と言葉を慎重に選んでいる彼女の一挙一動を逃さないように見つめて、何を言おうか言わまいか悩んでいるのか言い淀んでいるみょうじさんに無言で続きを促す。
みょうじさんについて俺が知っていることなんて、同じ学年で、藝大の作曲科、ピアノが上手い、道端で作曲を始めることがある、くらいだけど。一生懸命言葉を選んで自分の考えを伝えようとしている彼女の言葉は、出会って間もないけど信じられるような気がした。が、

「う〜〜ん……分かんないけど」
「分かんないのかい!」

散々身構えて待っていた言葉は拍子抜けで。盛大にずっこけるふりをすると、みょうじさんはふふ、と肩を揺らして笑った。みょうじさんは笑うといたずらが成功した時の子供みたいで、あどけない。みょうじさんについて知っていることが一つ増えた。

「考えを言語化するのって難しいよね」
「……まぁ、それはそうだけど」
「しっくりくる表現があったら、その時言うよ」

気長に待ってて、と呟くとみょうじさんはまた楽譜と向き合う。
結局、その日はピアノとにらめっこする彼女の横顔をデッサンするだけで終わった。