時刻はAM8:00、ヤワは柄にもなく急ぎ足でアパートメントの階段を下る。手摺に掌を滑らせ、パンプスはコンクリートの階段を軽快に鳴らしていた。首元を隠すようなタートルネックにノーカラージャケット、ジャケットとセットになったカジュアルなストレートパンツは彼女のグラマーな体型を活かして際立たせている。ヤワはヨークシンのとある広告代理店の事務員として"真っ当に"金を稼ぎ、生活していた。流星街出身というのも、戸籍が無い人間だというのも、恋人が盗賊団の頭であることも全て包み隠して"普通の"女として生活しているのである。偽装されたパスポートや戸籍謄本は勿論、オフィスでの名前も経歴も全て虚像に過ぎないのだ。
レイラ=ハーバー、ヨークシン出身の29歳。大学を卒業した後、食品関係の営業職に就いた後に退職。中途で現在の広告代理店へ入社…というごくごく普通の経歴を持つ女を演じては溶け込んでいる。業務態度は良く、旅団の仕事がある際には親の介護と偽って2ヶ月ほど休暇を申請したりはするものの「親御さん思いなんだなあ」と上司や同僚からも気に入られていた。それもこの会社が余り忙しいオフィスではないのが幸いとなっている。
「なんで、なんでなんで目覚まし時計が鳴らなかったの!」
スヌーズにすらなっていなかったデジタルの目覚まし時計と知らぬ顔して隣で寝息を立てていた恋人を恨みながらタクシーを拾おうと大通りへ駆け抜ける。恋人が何時ぞや贈ってくれた腕時計は盗品なのか購入品なのか分からないが、高級ブランドなのは一目瞭然であった。しかし、ヤワは急いでいる時に時針と分針がパッと見でよく分からないこの時計が余り好きではなく、好きな人から貰ったからという理由だけで着用していたので何とも贅沢な女である。

〜♩

軽快な着信音がラッシュタイムの群衆の中、埋もれるように流れた。携帯電話をチェックすれば案の定会社からで、ヤワは肩を落とす。「なーんだ、団長からだと思ったのに。今向かってますよーだ。」と悪態をつき応答ボタンを押せば、上司のねちっこい声が電話越しに聞こえてくる。
「ハーバー君!とっくに朝礼が始まっているんだが、何処にいるんだ?…君という真面目な人間が連絡も無しに遅れるなんてさぞかし大事な事情があるんだろう。ああそうだ。君のデスク上の書類、ククルーマウンテン並になっているよ。」
ヤワが平謝りする前にプッと切られた黒い画面を見ると途端に反省が怒りに変わる。大通り、タクシーも捕まらず排気音とクラクション、そして忙しない人々の群れ。ヨークシンという街の喧騒にその怒りが飲まれていく。埃っぽい空気も、今にも雨が降りそうな曇り空も、慌てて持ってきたカバンに財布が無いことも、折りたたみ傘を忘れたことも全てがどうでも良くなってきた。
「今日、休んじゃおうかな」
デスクの山はきっと今頃土砂崩れを起こしていることだろう。明日の自分が全てどうにかしてくれるはず、と心に言い聞かせながら踵を返す。
「もしもし、ハーバーです。はい、はい…すみません、道中体調が悪くなってしまって。ええ、ええ…すみません。お休み頂きますね。…はい、ありがとうございました。」
3トーン以上も声色を下げ、さぞかし気分が悪く今にも吐きそうな病人を演じる彼女は女優さながらだった。主演女優賞も夢では無いのかもしれない、と自画自賛しつつ30分前とは打って変わってゆっくりとした足取りでアパートメントへと帰宅する。
「ズル休みか?」
部屋のドアに手を掛ける前にゆっくりとドアが開く。ニヤリと笑うクロロが部屋着姿のまま立っていて、ヤワは思わず「うわっ」と声を上げた。ややボサついた髪の毛は彼が寝起きであって、残虐で冷酷と謳われる彼が自分を信頼し、生活の一部にしているという事実を証拠付けた。それが妙に嬉しくて、擽ったいような暖かいような気がしてヤワは思わず目をそらす。
「たまには良いでしょ。体調が悪いのも嘘じゃないんだし。」
昨晩の情事を思い出すとズキンと腰と足の付け根が傷んだような気がして、少なくとも10時間前までこの人と身体も心も繋がっていたんだなぁという叙情的な気持ちが湧いてくる。0.02mmの壁越しに自分との間に子孫を残したいという動物的本能をぶつけた本人は生欠伸をしながら玄関の鏡を見て「すげー寝癖。」とボソりと漏らしていた。
分厚い壁はきっと一生破られないんだろうな、と思うと普通の幸せの定義が分からなくなる。クロロとの子供が欲しくない訳がない。けれども、我々の本業柄それは足枷になるのだ。こうして恋人という立場にいるだけでヤワは幸せだと思っていたが、想い合った年月が1年、2年、5年、8年…と重なるに連れて欲が出てくる。彼女は"一般人"の振りを続けていたつもりが、誰にも気付かれないほどゆっくりと年月を掛けて盗賊としての自我が芽生えてきたのだろう。
「ねえクロロ、どうしよう。私、思ったより盗賊向きなのかもしれない…!」
草臥れた合皮のパンプスを脱ぎ、ルームシューズに履き替えながら深刻そうな顔を浮かべる彼女にクロロは豆鉄砲を食らったかのような顔を一瞬だけ浮かべる。そうして直ぐにハッハッハと普段の彼とは打って変わってオーバーリアクションな笑いがヤワに降り注ぐのだ。
「ヤワは昔からそうだ、蜘蛛の心臓になる前からお前はこっちの世界が良く似合う。蜘蛛はオレが頭で、お前が心臓。そう決めたのは決して情や贔屓なんかじゃない。」
ヤワは目を見開き、そして長くカールさせられた睫毛を見せ付けるように瞼を閉じる。そして漏れ出た溜息は、落胆のものでもなければ安堵のものでも無かった。ただただ、お見通しなんだなぁという諦めにも近い慈しみだけがその場に残る。
「やっぱ、クーちゃんには敵いませんなぁ。」
態と幼い頃の呼び名で呼んでみても、クロロは真剣な眼差しでヤワの双眼を捉えては話さない。これでは蜘蛛ではなく蛇、ヤワはそれに睨まれた蛙である。
「目的の為なら手段は選ばない。ヤワ、お前もそういう人間だ。オレが1番側で見てきたんだから間違いはない。2年、オレから離れて仕事をしていた最中で何人殺した?」
ヤワがヨークシンへ戻って来たのはつい1年半程前であり、その前は2年ほど別の仕事でパドキア共和国の西の端にある小さな港町に滞在していた。仕事内容は、とある画家の絵画を芸術の国とも謳われるクカンユ王国へと輸送する輸送船の監視と頃合いを見て強奪する事であった。クカンユ王国の美術館ごと皆で襲撃してしまえばいいのに、と思ったがリスクを考えれば決まった航路を決まった時間に通る輸送船を虱潰しにした方が圧倒的に楽なのである。
「34人だったかなぁ…いや、でも勝手に死んで行った人もいるし。何度でも言うけれど、私の能力は美術品の強奪に全然向いてないの分かってるでしょ?だからすっごく時間がかかったの、きっとマチやシズクならもっと早かったし人もこんなに死ななかったはず。」
ヤワの能力は至って単純で、水分を凝固させて雪を振らせたり、水分を含む物質を凍らせるといった変化形の能力である。それ以上もそれ以下もない。強いて言えば、変化させる面積が一定以上大きくなれば制約と誓約で自分の体温が4度ずつ下がる事になる。本人もその限界値はよく分かっていないが、半径300mの円の中では制約と誓約は発揮されない。しかし、半径1kmになれば平熱37度の彼女が震えだし、体温が33度まで一気に下がっていた。
「ヤワの能力は旅団にとってもオレにとっても貴重な戦力でもあり、頼れる力だ。団長としてオレが保証するよ。…今回の仕事も時間は掛かったが中々上出来だった。港の連中はすっかりお前を信じきっていて、誰もお前がやったって事に気付いていないんだからな。2年で人を信じ込ませるその愛嬌もここまでくれば大したもんだ。」
「私が騙してたみたいじゃん…。純粋な気持ちだったの、本当に。皆と仲良くなって、それで…」
ムッとしながらもヤワは言葉に詰まる。皆と仲良くなって、錆びたシャッターが立ち並んでいて誕生日にクロカンブッシュも出てこないような草臥れたあの磯臭い街で何をどうしようと思ったんだっけ。と頭の中でグルグルと遊園地の遊具のように思考が廻る。
「そう!仲良くなって、私の事を皆好きになってくれたところで氷像にしようと思ったの!私が死ぬまで溶けないように一生綺麗でいられる魔法を掛けてあげて、拠点に飾るの。それで私が死んだら醜く腐って朽ちていく…とっても素敵な計画じゃない?でも、残念…その前にタイムオーバーだった。」
ヤワは先程のクロロに負けないくらいのオーバーリアクションで肩を竦める。クロロはニヤリと笑ってヤワの手を引き、玄関からリビングへと向かった。ソファに彼女を座らせて、柔らかい頬を撫でる。
「オレはこんなにもヤワの事が好きなんだが、オレも氷像にされてしまうのかな?」
吸い込まれてしまそうな黒い瞳にヤワの間抜けな顔が映る。その瞳の中のヤワの眼の中にはクロロがいて、それが永遠に続いていた。ああ、自分達の未来もこうして永遠に続いていけばいいのに、とぼんやりと考えてしまうくらいには黒色に呑まれてしまっていて、自力で出るのは困難であった。
「ううん、クロロは特別。私が死ぬまで生きていて欲しい。」
少し早い春風のような麗らかな声色は嘘ひとつ無い真っ直ぐなもので、頬に添えられたままの骨張った男らしい右手を取り口付けた。悪戯っぽく「本当だよ」と笑う彼女を見て、クロロの鼻の奥がツンとした。
「なあ、ヤワ。その、お前が普段している仕事なんだが。」
晴れ掛けた曇り空から差し込む陽がリビングへと差し、まるで舞台照明のようである。思わずヤワはクロロの額の十字に目をそらした。なんだか、本能が目を合わせてはいけないと訴えたような気がした。
「これを機に辞めないか。ヤワには不自由させないし、今よりも生活水準を上げてもらっても構わない。それに、旅団の仕事で一々休みを取る必要もなくなる。オレにとっても、ヤワにとってもメリットがある話だと思うが。」
初めて人を殺した時、初めて旅団の仕事をした時、初めて男に抱かれた時、それら全てを統計しても今のこの緊張感には勝てないのだろう。ヤワは自然と流れる涙を隠すように、彼の額へと唇を押し当てる。今朝、塗りたてのリップグロスの油分が十字の真ん中に張り付く。
「凄く嬉しい。それにしたってプロポーズみたいでなんだか、なんだか…とっても幸せ!」
そのつもりで言ったんだけどなあ。というクロロの気持ちとは裏腹に、鼠色の空はすっかり晴れてスカイブルーが窓に映る。雲の流れは遅く、穏やかな空気の中で壁に掛けた時計がカチッと小さく音を立ててAM10:00になった。秒針が幾つ進んだのかは分からないが、やけに時計の音がうるさく感じる。
「でも、仕事はまだもう少しやっていたいな。これってワガママ?」
「区切りのいいところで辞めたらいい。サマーバケーションと一緒に有給も使って辞めるのがベストかもな。」
真剣な顔付きで今後について話すクロロの額が先程付けたリップグロスで艶々としているのを見て、ヤワは思わず笑う。
「しょーがないな、クーちゃんは!」
クレンジングシートを取り出してケラケラと笑う彼女は誰がどこからどう見ようと、普通の"一般人"である。
「はあ、その名前で呼ぶなってあれほど…」
溜息を付き、「皺になるぞ」と彼女のジャケットを脱がしてハンガーに掛けてやる。彼女の毛先の金髪がきらりと揺らめく。
「あ、ちょっと待って。確かポケットに…」
ヤワはゴソゴソとジャケットのポケットを弄(まさぐ)り、グチャグチャになったレシートや小銭をテーブルの上に置いていく。そうして「ごめーん」と手を前に合わせて「お恥ずかしい限りですわ」とレシートをゴミ箱へと捨てる。
お目当ての物はジッポと紙タバコで、シュボッと音を立てて彼女が咥えたフィルターの先へ火が灯った。
「ヤワ、退室する時のクロスの張替えは自己責任だからな。新居ではベランダか外で吸って貰う。」
はあいと間延びした声も、煙たい空気も、彼女が愛用する甘ったるいメンズ用の香水も、それに混じるタバコの臭いも全部彼女を形成する材料だと思えば愛おしさが込み上げる。
「ところで、クロロ。私、今日体調不良で休んでるんだけれど、どうする?」
両手を広げて、まるで抱きかかえろと言わんばかりのその仕草は期待しろとクロロの男の部分を促しているようだった。
「明日も体調不良で休ませてやろうか」
そうして、含んだ笑みを浮かべてベッドルームへと移動する。この後、宅配便の配達員がヤワの部屋のインターホンを鳴らそうと試みたものの、扉から微かに漏れる女の高い声に再配達の用紙を郵便受けに挟んでそそくさと踵を返したのだった。
 

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