可愛いナイト



トクントクンと脈打つ心音。
サラりと落ちてくる長めの髪の下、瞳の奥が微かに揺れているのが分かる彼は、私の顔の横に手を着いて天井との間に身を置く。
手を頬に添えて愛おしむように撫でると一つポツリと呟いた。

「可愛い。」

でもその次の瞬間、噛み付くようなキスに頭の中が真っ白になる。

ねぇこのまま時を止めて―――





遡ること一週間前。
新入社員歓迎会の席でたまたま隣に座った時透無一郎くんは、うちの不動産業界の逸材なんて言われるぐらいのやり手だった。
新入社員にしてもう既に何件もの売上をあげている。
見た感じ学生らしさがまだ抜けきれていない幼さを残した童顔と小柄な身なり。
それでも隣に立つと身長も私より高いし、腕回りも私よりもずっと太かった。
キッチリとネクタイをしめているスーツの下の胸板も、心無しか他のもやしっ子よりかはしっかりとしていそうに見えた。
まぁ私には関係ないけど。
宴の席でみんなの輪の中心にいるにも関わらず顔色ひとつ変えずに淡々と話している。

「よぉ、時透!お前ハタチ超えてんだろ?酒もっと飲めよ!」

咥え煙草で時透くんの空いたグラスに自分のビールを派手に注ぎ込む宇随さん。
あー可哀想に、今年のターゲットは時透くんだと脳内で哀れんだ。
毎年宇随さんに目をつけられた新人はぶっ倒れるまで飲まされる。こちとら後処理が諸々面倒くさいっていうのに派手好きな宇随さんと飲みに行くと必ず誰かしら潰される。
そしてそれが今、目の前で実行されつつあった。

「いただきます。」

それでも涼しい顔して注がれたグラスのビールを胃の中に流し込む時透くん。
幼く見えても列記とした大人なんだと思えた。

「お前さ、酒と煙草と女、さっさと済ませとけよ?」

酔いが回ってきた宇随さんが小柄な時透くんの肩に腕を回して絡んでいる。
キョトンとした顔で宇随さんを見返す彼は「なぜです?」なんて問いかけ。

「そりゃ取引さんと飲む時になんでも対応できるようにだ!これも仕事の一貫だと思え!」
「ふぅん。なら僕この人がいいです!」

スッと腕を宇随さんとは反対側にいる方に折り曲げた彼は、あろう事か隣の私に手を差し出したんだ。

「ぶっ!」

思わず飲み損ねた巨峰サワーが口から盛れる。
思いっきり目ん玉ひん剥いた私と、時透くん越しに目が合った宇随さんはちょっとだけ焦った顔。

「固まってんぞォ、相手してやれよ、」

向かい側に座って日本酒をお猪口で飲み干した不死川さんが面白ろ可笑しいって顔でそんな野次を飛ばす。
ありえない、冗談じゃない、不死川のバカヤロ!
脳内で超悪態をつきながらジロっと睨むとクスって笑われた。

「おうおうおう、いい目の付け所だ。だかこいつは時透の手に負える奴じゃねぇぞ!もっと簡単な女を選べ、な?」
「いや。この人以外とはまぐわいません。」

キッパリと言い張る時透くんは、お酒のせいでほんのり顔が赤い。
どーでもいいけど私の意思は?無視?
てか、まぐわうってなに!?いつの言葉?
そう思うものの、私自身も結構酔っていて。彼がこんなにも言ってくれることに対して何も言い返してこない宇随さんに若干腹を立てている。
少しぐらいヤキモチ妬いてくれればいいのに、そんな出来心だったんだ。

「別にいいけど私は。」
「はっ!?」

私の返答に声を上げた宇随さんに内心ニヤリとしつつテーブルの上、肘を着いて時透くんを見つめると何を思ったのかその場で私の肩に触れて一瞬ののち、唇が重なった―――――

瞬きを一つすると離れる唇。
ペロリと舌で自分の唇を舐める時透くんがボソリと呟いた。

「次は僕も巨峰サワーにします。」

真っ直ぐと私を見つめてそう言う彼になんとも言えぬ衝撃を受けた。





「どうしてついてくるの?」

残念な事に、あれ程浴びるように酒を飲んでいたはずの時透くんは、足がおぼつくこともなく、吐き潰れる事もなく、むしろ足元がおぼつかず立っていられないのは私の方で。
そんな私の腕を掴んで隣にいる彼をジロっと睨む。

「どうしてって、そんなフラフラで帰れないですよね?」
「帰れるわよ。離してよぉ。」

無意識で時透くんから離れようとして簡単にバランスを崩す。

「四人目の女に成り下がるんですか?」

トクンと心臓が大きくうごめく。
なんか私、見透かされている?
掴んだ腕に力を込める彼は「宇随さんと、付き合ってますよね?」耳元で小さくでもハッキリとそう言った。

「な、んで…」

ただの一度も誰にもバレたことなんてないのに、なんでよ!!
もしかして一緒にいるとこ見られた!?
俯く私をふわりと抱き寄せる時透くんは、どこにそんなに力があるの?と疑いたくなるくらいに、私をホールドしていて全く動くことができない。

「見てれば分かります。あなたが誰の言葉に一喜一憂しているのかなんて。」

そう言葉に出した時透くんの声は少し寂しげで、どうしてか胸の奥がチクリと痛むようだった。

公認の恋人が三人いる宇随天元の、非公開な四人目の女は間違いなくこの私だ。
他の三人はみんな分かりあっているようだけれど、私はそんなのは御免で。
だからといって、宇随さんから離れる事もできずにいた。
逢えば好きだと思ってしまうし、触れてしまいたくなるし。できる事なら彼を私だけのものにしたいと思わずにはいられない。
四人目なんかじゃなく、私一人だけを愛して欲しいと願わずにはいられなかった。

「俺なら、そんな顔させない。」

トクンとその言葉に心音が鳴る。

「いらないわよ、そんな言葉。」

言って欲しいのは、時透くんじゃなくて宇随さんにだ。
待てど待てどそんな甘い言葉はくれない。
いつだって三人の次が私の順番。
一番になんてなれやしない。

「そんなに好きなら公開すれば?」

そんな事、馬鹿だなって言われるだけ。
幸せになんてなれないって言われるだけ。
でも、幸せかどうかは私が決めることで、他人にとやかく言われる筋合いはない。

そう、ない。
無性に腹が立った私は時透くんの腕に体重をかけると、さすがにヨロっと一歩後ろに下がった。

「構わないでよもう。どんな言葉を言われても宇随さん以上に好きになれないから。」
「ムカつく。馬鹿な女。―――でも初めてはあなたがいい。もう何も言わないから俺をオトコにしてよ、」

〜さんと、名前で呼ばれて思わず顔を上げると、泣きそうな顔で私を見下ろす時透くんがそっとコメカミにキスを落とした。

さっきもそうだったけど、強気なわりに触れる唇はなんだかとても優しくて鼻の奥がツンと痛くなる。
どうせ、宇随さんと付き合っている時点で馬鹿な女は確定だ。
ならば、これ以上馬鹿になっても変わらない…
キュっと手を握ると初めて時透くんが息を飲んだように見えた。

「俺があなたを守る。」

そんな白馬の王子様みたいな台詞を人生で与えてくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。







「丘の山の一軒家なかなか売れないな。宇随、どうだ?」

悲鳴嶼さんが書類を見て小さく溜息を着く。
今月の売上達成まであと少しだった。
悲鳴嶼さんが気にかけている一軒家を売れば目標達成だけれど、あと3日とない。
誰もがもう無理だと思う他なかった。

「僕行きます!直販してきます。諦めたくありません!」

手を挙げたのは時透くんだった。
さすがの時透くんでも無理じゃない?なんて思うわけで。

「じゃあ頼むわ時透!これ書類!」

宇随さんが投げやりに書類を時透くんに渡す。だけどそれを寸前で受け取らずに視線をこちらに向けた時透くん。
え?なに?

「なんだぁ時透?」
「…これ売れたら僕と付き合ってください!」

公衆の面前で、宇随さんの目の前でそんな言葉を私に飛ばす時透くん。
冗談にできないのは、あの日の温もりを身体が覚えているから…なのだろうか。

「時透、ふざけた事行ってんな。公私混同は一番良くねぇぞ。」
「そうですか?プライベートが楽しけりゃ仕事も上手くいくと思いますけど。」

宇随さん相手に堂々と言い返せる新入社員なんて、この世に時透くんしかいない、絶対に。

「お前も言い返せや阿呆ぅ。」

ポカッと宇随さんに頭を軽く殴られる。
だけど、言葉が見つからない。

だって――――「売れたらでいいの?」自分でも分からない。こんな言葉。
そんなゼロに近い約束で、もし売れなかったら私の事も諦めるの?

「絶対に売りきります!行ってきます!!」

ほとんど笑った顔なんて見たことがなかったけど、時透くんは笑顔で社を出て行ったんだ。

胸の奥がトクンと高鳴る。
おかしい私。

―――あの日から時透くんの表情も声も何もかもが頭から離れてくれない。


「ちょっと来い、」

そんな彼の後ろ姿を見送っていた私は宇随さんに手首を掴まれる。
そのまま別室に連れ込まれて…

「お前、時透とマジでヤッてねぇよな?」
「宇随さん?どうしたんですか?」
「天元。二人の時はそう呼べって言ったろ。」

大きな身体が私を隠すように壁に追い込まれて。
なんだろうか、この空虚感。

「ヤりましたよ、僕達。ね?」

部屋の外から私の姿が見えるわけないと思ったけど聞こえた声に二人してそちらに目を向ける。
ほんの数分前に出て行ったはずの時透くんがそこにいて、ズカズカとこちらに歩いてくる。
宇随さんは、不死川さん並の舌打ちをすると、くるりと体ごとそちらに向き直る。

「時透なんなんだ、お前。こいつは俺の、」
「触るなよ!」

伸びてきた時透くんの腕に掴まれて宇随さんの後ろから這い出た。私の事を自分の後ろに隠して小さいながらも長身の宇随さんを睨み上げる時透くん。

「宇随さんの四人目にはさせない。この人は僕の唯一無二の人だから。宇随さんは知らないでしょうけど、ずっと寂しそうな顔してたんです。そんな顔させる為に四人目にしようとしてたわけじゃないでしょ?なら僕の一番に譲って。幸せにするから。」

時透くんの言葉は妙に説得力があって、こんな話術で家をプレゼンされたら買ってしまいたくもなるかもしれない、なんて思ったんだ。

宇随さんは黙ったまま私に視線を向ける。それから小さく名前を呼ぶ。

「時透の事、どうなんだ?」

何でか、その言葉がすごく悲しかった。
私を本気で好きならどんな手を使ってでも渡さない!とでも言って欲しかった。
だけど、最終的には優しい宇随さんは私の気持ちを優先させる人だとも思えた。
大人の優しさはそのぐらいのデカさがないとダメな気もする。

「…一番になりたい。」

初めて出した自分の本音に時透くんはふわりと笑った。
宇随さんの一番になれたら…ずっとそう思ってきたけれど、私を一番にしてくれるという時透くんが、一秒先の未来も今よりずっと好きになる…なんて思えたんだ。

「じゃあ俺、あなたの為に必ずあの物件売ってくるから!色々覚悟して待っててくださいね。」

ニッコリ微笑んだ時透くんは私を一度ぎゅっと抱きしめて耳元で囁いた。

「何があっても俺があなたを守るから。」

ずっと一番になりたかった。
女たるもの男に守られる女になりたいと思ってきたけれど現実なんてそう甘くはない。
所詮は一人で生きて行かなきゃならないこの現実で、たった一人私だけを守ってくれる人が現れた。

「私も守るよ。」

声には出さずに心の中で呟く。
誰かを好きになると、守りたい…そんな感情が生まれるんだと、時透くんが教えてくれた。

翌々日、月の最終日、私だけのナイトは、見事に丘の上の物件を売って笑顔で帰社したなんて。



-fin-

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