恋の始まり



編集部がざわついているのはいつもの事だけれど、今日はそれがいっそう大きく耳に入る。
定時を超えても尚そのざわつきがおさまる気配はなかった。

「誰か、残れる奴いるかァ?」

声の方を見ると、編集部でも最も怖いと恐れられている不死川さんが書類を手にフロアを見回している。
ペーペーの私でも分かる、何かミスが発覚したのだと。
女子社員のほとんどが不死川さんには近づかない方がいいって言っているのをふと思い出す。目を付けられたら終わりだという噂すら流れていて。
普段特に仕事で絡むこともなかったから今まで直視もしてこなかったけれど、切れ長な瞳の中にある小さな黒目がギロリとこちらを捕えた。

「お前、居残りできるか?」

帰り支度をしていた私を目ざとく見つけたんであろう不死川さんの言葉に内心ビビりまくりながらも「でき、ます。」…そう答える他なかった。
ここで断ったら不死川さんの機嫌を損ねるだろうと。
その場で手をあげる私に不死川さんは「悪りィな。飯ぐらい奢るよ。」…あ、あれ?想像と違うぞ。
強引に連れて行かれるものかと思っていた私に、優しくそう言ったんだ。





「単純作業だけど、数があるから助かる。つーか全く最近の若けぇのは字もまともに書けねぇのかよ。」

咥え煙草で軽快にシールを剥がしてはミスった文字の上に貼り付ける不死川さんは、腕まくりしているワイシャツの下、腕の血管が浮き出ていて。
腕フェチな私からすると、完璧な腕まくり具合だった。
スーツのネクタイもかなり緩めてつけているからちょっとだらしなく見えるけれど、それが不死川スタイルであって、特段違和感はなかった。
逆に、キチッと着こなしている隣の冨岡さんは影が薄く思えてしまうほどに。

「編集さんは忙しいですからね。ミスも出ちゃいますよね。」
「ミスが出ていい仕事じゃねェんだここは。まぁお前に言っても仕方ねぇか。悪いな、気にすんな。」

相当苛ついているのかもしれないけれど、さほど関わることのない隣の部署の私にそれを出さないようにしているのだろうか。
噂で聞く不死川さんとは別人のように思える。

「そういやお前、玄弥と同期だったよな?」

手を止める事なく不死川さんの声だけがこちらに届く。
その視線すらこちらを見ていない。
けれど私は思わず手を止めて顔を上げた。
だって私の事、覚えてたの?てゆうか、私の事、認識あったんだ?

「なんだァ、手動かせよ。」
「あ、すいません。覚えてくれているなんて思ってなくて。」
「…ちゃんと知ってる。お前がいつも真面目に仕事してる事は。」

トクンと胸の奥が脈打った気がした。
確かに玄弥くんとは同期で話す事も多い。だけれど、玄弥くんが不死川さんの話を口にした事もなく、一緒に住んでいないからさほど仲良くないのかなぁ?なんて勝手に思っていた。

「あ?なんだ?なんか言いてェことあんのかァ?」

言葉の止まっている私に視線を向けた不死川さんに、何故かトクンと胸がまた小さく音を立てる。

「玄弥くんとやっぱり兄弟なんですね。」
「は?当たり前だろ。自慢の弟だ。俺に似て口下手だから損してねェか、アイツ。」

目の前の不死川さんは見たこともないお兄さんの顔で。

「大丈夫です。不死川さんに似て玄弥くんも優しいので。」

全く検討違いの答えを飛ばす私に、それでも不死川さんは嬉しかったのか、「馬鹿か、てめぇ、」顔ごと逸らしたんだ。
よく見ると、ほんのり耳が赤くなっている。

――――この人、可愛い!

心の中がトクンと熱くなるのを感じた。

「不死川さんが噂通りじゃない人だとよく分かりました。」
「どーせくだらねェことだろ。」
「はい。めちゃくちゃくだらないことです。」
「…馬鹿がァ。」

きっと知っているんだろうって。自分が周りにどう言われているのか。そしてそれをどーでもいいと思っているんだろうと。
みんなが恐れるような怖い人じゃないと分かっただけで不死川さんの事を知りたくなった。
仕事が終わったら色々聞いてみようと気合いを入れて私はシールに手を伸ばす。
二本目の煙草を咥えた不死川さんはそれから黙々とシールを貼り続けた。
同じように私も、冨岡さんも。





「終わったァ!お疲れさん。冨岡も助かったぜ、ありがとうな。」

時計の針はPM21時を過ぎた頃。
ほとんど喋ることのなかった冨岡さんは、ニコリともせず「あぁ。」そう呟くと何処へともなく帰って行ってしまった。
残された私と不死川さん。
作業室内に設置された自販機の前、煙草を潰した不死川さんがミルクティーを買って私に差し出した。

「あ、すいません。いただきます。」
「飯、行くかァ?」
「はい!」

迷うことなく返事をすると不死川さんはその手を伸ばして私の髪をクシャリと撫でた。

「ありがとうなァ。」

笑った顔なんてただの一度も見たことのなかった不死川さんが、ほんのり口端を緩めて私の髪を撫でている。それにまた、トクンと胸が高鳴った。
これは、恋なのだろうか?
――恋の始まりがあるとしたら、こんな瞬間なのかもしれない。

「あのっ!」
「あ?」
「彼女、いますかっ?」

咄嗟に出たその言葉に私は勿論、言われた不死川さんもキョトンとした顔で私を見下ろす。
今の所聞いたことなんてない、不死川さんの色恋事情。でもこんな人だと分かっているなら、恋に落ちない女も少なくはなさそう。

「馬鹿かてめェ!意味のねぇ質問には答えねぇぞ。」
「無意識ですか?頭ポンポン!」
「は?」
「ズルいです不死川さん!そんな風に柔らかく笑うのも、頭撫でるのも…反則です。」

慌てて手を引っこめる不死川さんは真っ赤で。本当に無意識でやってたんだって思う。

「妹らと変わんねェお前なんか。」
「え?不死川さん、妹さんもいるんですか?今度お家に遊びに行ってもいいですか?」

次から次へと言葉が出てきてしまうのは、この人の事を本当に知りたいから。
この興味がきっと、恋の始まり…

「知らねェよ。玄弥に頼めよ!」
「嫌です。不死川さんがいいんです!」

そして、目の前で面倒くさそうな顔をしている強面のこの人は、なんとなくだけれど押しに弱そう。
女の扱いなんて慣れていなくて、でもどこか優しいのは弟も妹もいるからだって。

誰かに気づかれる前に、私だけのものにしたいなんて独占欲が生まれたのは初めてかもしれない…。

たった数時間でこんなにも世界が色づくのは、不死川さんのせいに違いない…。



-fin-



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