令和三年・現在

 白衣を着た半袖肩パフのミニワンピース姿の女性と、派手な黄金色の髪に炎の模様の羽織を着た逞しい男性が仲睦まじく微笑み合っている…時には手を繋いだり頬に触れられたり…

 甘露寺結菜がそんな夢を見始めるようになったのはここ最近の事であった。ワンピース姿の女性はまるで自分と瓜二つ。というか結菜そのもので、どうやら炎の羽織の男性とは恋人同士のようだった。
 夢の中だとぼやっとしていて全てを覚えている訳ではない。けれど自信に満ちた表情と優しい目元が何故か結菜の胸を締め付けるような想いにかられる。どこか儚く美しいその夢を見た朝は幸せな気持ちとは裏腹に結菜の頬には涙の跡が残っているのがほとんどであった。
 時同じくして、キメツ学園の歴史教師である煉獄杏寿郎もまた、背中に滅の文字を背負った自分と瓜二つの青年が、白衣を着た半袖肩パフのミニワンピース姿の女性と愛を語らう夢を見ていた。
 頬を掠める手と重なる唇…心底幸せな気持ちになれるそんな朧気な夢物語。まるで過去にそのような時を過ごしていたかのようだった。
 何度となく見る同じ夢。
 それは――時を越えて再び巡り会う道標だとは、この時の二人はまだ何も知らない。

 ◆

「お姉ちゃん、伊黒さん、おはよう」
 結菜は今日から高校三年生になる。夏休みまでに進学やら就職やらでバタバタと忙しい時期を過ごすのかと思うと少々憂鬱な気分になりがちだけれど、それでも学生生活最後の一年間を有意義に過ごせたらと思っていた。
 夫と飲食店を経営している結菜の姉、伊黒蜜璃は、制服姿で食堂に顔を出した妹に笑顔で「結菜おはよう」と答えた。桜餅カラーのロングヘアーがとても似合っている自慢の姉である。夫の小芭内は結菜を見るなり「なんだその着崩した胸元は。しっかり閉めろ、男なんてみんなケダモノなんだぞ」優しい蜜璃に変わってとても過保護であった。物心つく前に両親が他界していた為、結菜にとっての親代わりといっても過言ではない。
「今リボンつけよーと思ってたのー。もう伊黒さん朝から煩い」
「こら結菜、小芭内さんは貴女のことを思って言ってくれたのよ。ね?小芭内さん」
 ふわりと蜜璃が微笑めば小芭内はコクリと頷く。政権を握っているのは一見小芭内に見えがちだが、この二人確実に蜜璃の方が上手であろう。それでも幸せそうな二人を見るたびに結菜も思う――
「結菜も彼氏欲しいなぁ」
「まぁ!」
「却下だ。蜜璃、今日から俺が送り迎えをしてもいいか?」
「ふふ小芭内さんたら相変わらず心配性なんだから。でも結菜、素敵な人が現れたらお姉ちゃんにちゃんと相談するのよ?」
「はーい」
 そんなやり取りから始まるいつも通りの朝だった。いつも通りの通学路を通って、いつも通りの時間に学校に着く。高校最後の一年間に胸を躍らせてクラス替えの張り紙を見上げる。3年C組に自分の名前を見つけ二階にある教室へ行くと、2年の時に同じクラスであった梅がいて、結菜は嬉しくて梅に駆け寄った。
「梅!また同じクラスだね、宜しく!」
「結菜一緒でよかったよー。てか担任誰だろ?美術の宇髄だけは絶対お断りなんだけど〜」
「あは、梅、宇髄先生と仲悪いもんね」
「だってあいつ不細工じゃん」
 ルックスのいい梅からしたら不細工だと言われてしまう美術の宇髄は、梅以外の女生徒からは莫大な人気を誇っている。結菜だって宇髄に褒められた日にはご機嫌にすらなる程に。
「そんな事言うのは梅だけだよ!でも今年は進路のこともあるし、担任は重要だよね」
 正面玄関の張り紙にはクラスの名簿しか出ておらず担任の名は明かされていなかった。高校三年の担任を受け持つのは教師の中でも最も大変だと言える。ザワつく教室内。開けっ放しの窓の外から入る春風がカーテンを揺らし、後ろのロッカーに置かれたサボテンを見え隠れさせた。
 ぞくぞくと生徒が教室内に集まってくる。予鈴が鳴り響く中、教室の前方ドアが元気よく開くと、今時珍しい黄金色の髪を纏ったスーツの男性が大きな声を張り上げて教卓の前で自身の名を名乗ったんだ。
「3年C組の諸君、おはよう!今日からこのクラスの担任を受け持つ煉獄杏寿郎だ。担当は歴史だ。宜しく!」
 ギョロリとした大きな瞳をキラキラと輝かせ、まるで生徒以上に期待に胸を躍らせているようなハキハキとした口調にクラスメイトがあっけらかんとする中、結菜だけはその姿から目が離せなかった。
「嘘でしょ…」
 口元を手で押さえてそう小さく呟く結菜の胸はぎゅっと何かに鷲掴みにされたかのようで、教卓の上にいる杏寿郎と視線が絡むと、ほんの一瞬彼も大きな目をより一層大きく見開いたんだ。
 ――ものの数秒だったと思う。それでも結菜と杏寿郎の胸は自分達でも驚くぐらいに激しく脈打っていて、それでもどこか懐かしさすら感じる、不思議な感覚だった。
 夢でずっと見ていたその人が、まさか自分のクラスの担任だったなんて…。結菜は始業式が始まっても、HR が始まっても、その動揺を隠しきれず、ただ黙って杏寿郎を見つめていた。
 そして杏寿郎も結菜同様、毎夜夢で見ていた相手がまさか自分の担任するクラスの生徒だなんて思いもせず、それでも動揺を隠して話を進めていたが、どこか心ここにあらずな様子であったに違いない。
 夢のことを誰かに話したことは一度もなかった。大好きな蜜璃にも話していなかった結菜。始業式を終え姉の食堂に顔を出すなり「結菜、申し訳ないのだけど買い物お願いできるかしら?」蜜璃からなぞり書きで描かれたメモを早々に手渡され、大量の買い物を頼まれた。相談しようにも上手く説明できる自信もなかった為、結菜は笑顔で頷くとエコバッグと財布を鞄に入れ、スマホを手に近くの商店街へと歩き出した。
 心の中ではずっと杏寿郎の顔が浮かんでは消え…を繰り返している。
「どうしてあの人が夢に出てきたんだろう」
 考えても分からない事はこの世の中に溢れている。解決しないことがあってもそれを受け入れて前に進まなければならない世の中。生きやすいのかは分からないけれどそうやって皆、何かを抱えながら必死で今を生きているのであろうと。
 商店街の中にある安くて品のいいスーパーで大量の買い物を終え、両手にエコバッグを抱えた結菜は不意に脚を止めた。目の前からこちらに歩いてくる杏寿郎と目が合うと、「杏寿郎さん」…自分でもどうしてなのかは分からない。それでも杏寿郎を見た瞬間、そんな風に彼の名を口にしていたんだ。
 驚いた表情の杏寿郎は、目元を細めてにっこりと微笑むと「…君が結菜という名だったら驚くが、」そう答えたんだ。結菜はどくどくと爆音を立てている心音を感じながらも杏寿郎を見上げて小さくでもハッキリと自分の名を伝えた。
「結菜です、甘露寺結菜です」
「まさか!」
 ――運命とはこうして出逢うべくして出逢うものなのであろう。

「えっ!?先生もっ!?嘘…」
「あぁ俺もだ。君と同じ様にずっと君との夢を見ていた。ほとんど毎夜、君は俺の夢に姿を見せていたよ」
 大量の荷物を抱えていた結菜の荷物をひょいっと片手で奪うと、「家まで送ろう」と言った杏寿郎。その道すがら結菜は黙っている事ができずに夢のことを彼に話した。するとどうだろうか…まさかの彼の答えが今程の言葉であった。
 毎夜姿を見せていた…そう言われて結菜は自分の心臓がまたトクンと大きく跳ね上がった事に気づいた。杏寿郎に気づかれないようにちらりと横目で盗み見する結菜。好きなタイプの男性像とは違う気もする。テニス部に気になる先輩がいたがそれはいうなれば憧れ的なもので、恋に発展する事はなかった。爽やかなスポーツマンが好きだと思っていたけれど、今隣で結菜の歩く歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれている杏寿郎が胸の中に生きづき始めている。どうしようもなく気になってしまう、彼の行動言葉一つ一つ全部が。時折見せる目尻を下げた優しい笑顔。少し伏し目がちな真面目な表情…どれもこれもが結菜の胸を突いている。
「前世のことは分からないが、それでも俺と君が同じ夢を見ていたのなら、もしかしたら俺達はその昔本当に恋仲であったのかもしれないな」
 ポスっと大きな手が結菜の長い髪を優しく撫でた。夕陽を浴びて歩く土手の桜は満開で、風に揺れて花吹雪の様に花弁が二人の間をひらひらと舞い落ちる。幻想的な世界の一角で、このまま時が止まればいいのに…そう思わずにはいられない。不意に結菜の髪に落ちたその花弁を杏寿郎が指で掬う仕草に思わず結菜の脚が止まる。
「甘露寺?どうした?」
 振り向いた杏寿郎はとても優しい瞳で結菜を見つめている。どうしようもなく胸がときめく。この人が欲しい…そんな感情が結菜に生まれるまで、時間なんて少しもかからなかった。
「杏…煉獄先生、恋人はいますか?」
 辛うじて出た言葉に目をかっぴろげた杏寿郎は、それでもふわりと微笑んで首を横に振った。
「残念ながら独り身だ。こんな俺を好いてくれる物好きはそういないだろう」
「じゃあ結菜がその相手になる!結菜が…貴方を幸せにする」
 気づけばそんな言葉を口走っていて、それでもその心に嘘など一つもなく、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で自分を見つめる結菜を、この時杏寿郎は心底可愛らしいと思ったなんて。教師と生徒という立場を忘れて、危うく伸ばしかけた手をぐっと止めて堪える。熱く燃える胸の中の炎。その熱は決して冷めることはないであろう。
「大人をからかうんじゃないぞ甘露寺。君には誰よりも幸せになってもらわないと困る。そう簡単に自分を差し出そうとするんじゃない」
 はぐらかして気持ちを封印したのは杏寿郎の方だった。そんな言葉を結菜に伝えたい訳ではないけれど、杏寿郎の中にある強い理性がそう放つしかなかった。

「まぁ結菜の担任の先生でしたか!結菜の姉の伊黒蜜璃と申します。妹がお世話になっております」
 家まで送ってもらったお礼に食堂で夕飯を食べていって欲しいと結菜に言われ、杏寿郎は快く受け入れた。正直腹も減っていたし、心の奥底にあるまだもう少し結菜と一緒にいたいという気持ちを抑える事ができずにいた。そうして白飯を五杯もおかわりした杏寿郎は、食べきれない程に並んだ食卓の食材を「美味い、美味い」と何度も言いながら大口あけて胃袋に落とした。そんな杏寿郎を熱く見つめる結菜の胸の中にはもう、杏寿郎という存在が強く生きづいている。
「先生そこまで送ります」
 帰り際、挨拶を終えた杏寿郎の腕を掴んでぎゅっと抱きつく結菜。ふわりと長い髪を靡かせて腕まくりされて血管の浮き出ている逞しい腕に絡まるように食堂のドアを開けて外に出る。春風がふわりと舞って、夜だとまだひんやりと肌寒い。
「甘露寺、もうここでいいよ。今日はありがとうな。飯、美味かったとお姉さんにも伝えてくれ」
「はい。先生の家はここから近いですか?」
「あぁ。実は歩いて5分程度だ」
「なら毎日うちに夜ご飯食べに来てください!ね?いいでしょ?結菜と一緒に食べてください。二人で食べた方がご飯は美味しいと思うんです!」
 元気な結菜の言葉につい押されて「じゃあお言葉に甘えてそうさせて貰うよ」そう返しながら結菜が絡みついている腕とは反対側の手で彼女の柔らかい髪を撫でた。その瞬間、二人の後ろを車が通り過ぎて瞬時に杏寿郎が結菜を守るように抱きしめる。トクンと胸を打つ心音。遥か昔、同じ様に結菜を抱きしめた事があるような気がして、杏寿郎の結菜を抱く手に力が入る。胸が熱くなって杏寿郎の手が結菜の頬に触れると自然と上を向く結菜の瞳。指で頬をなぞると薄っすらと目を閉じて頬に触れた杏寿郎の手に自分の手を重ねる結菜。動脈から感じる二人の心音が混ざり合うかのよう、近づく距離に自然と目を閉じた結菜の唇にゆっくりと杏寿郎の影が重なる―――寸前、後ろから来たバイク音にハッと身体を離した。自分は一体何をしていたんだと頭を振る杏寿郎。
「す、すまない甘露寺。また明日学校で」
 ポンと肩に触れた杏寿郎の手は熱く火照っていて、ほんのり見えた耳は紅く色付いていたなんて。

 その日から杏寿郎の中の結菜の存在が日に日に大きくなっていくのを感じていた。毎夜見る夢もどんどん濃厚になっていた。どうしたものか…と。自分は1教師であって結菜はただの生徒。それ以外でもなんでもないというのに、それはまるで初恋のように、毎日学校内でクラスメイトとはしゃぐ結菜を杏寿郎の目は自然と追ってしまう。このままだと駄目だとどんなに自分に歯止めをかけても視線は常に熱く結菜ばかりを見つめてしまうのであった。
 今も歴史の授業を繰り広げながらも杏寿郎の神経は結菜に集中していて。ただ結菜もまた同じ様に杏寿郎のことを見つめてくる為、視線を絡ませる事が特段増えてしまう。制服姿の結菜の向こうで、白衣を着た半袖肩パフのミニワンピース姿の結菜の姿が重なって胸が苦しくなる。結菜が隣の席の男子と話そうものなら、杏寿郎の心は嫉妬のドス黒い感情で埋め尽くされる様なそんな感覚だった。
「では本日の授業はここまでだ」
 そう言って教卓の上で教科書を揃えた杏寿郎は敢えて結菜を見ないようにと意識して教室から出ていく。廊下にある大きな窓の外は、朝からどんよりとしていた雲がもくもくと蠢いて等々雨を降らせ始めた。
「甘露寺、これ食う?昨日発売した新作のガムだってー」
 後ろからそんな声が聞こえて振り返りたくなる衝動を抑えた。結菜の隣の席の山田だっただろうか、結菜を見ている杏寿郎には容易に分かる、彼の結菜への恋心。自分と同じ目で結菜を見ている彼の行動は今の杏寿郎からしたらさも羨ましいものだろう。なんの障害もなく結菜を好きだと胸を張って言えるであろう山田にすら生まれてしまう嫉妬心。
「山田!甘露寺も。校内は昼休み以外飲食禁止だ。そーゆーのは外でやれ」
 結局結菜がどんな反応をしているのかが気になってしまい、振り返る事を抑えられなかった。じろりと山田を睨む杏寿郎に、結菜はじっと見つめてきて…「先生怒ってる?」小さな声でそう聞いた。
「注意しただけだよ」…ポンと結菜の頭を撫でる杏寿郎に、結菜はホッとしたように微笑み返す。
「雨が降ってきたから、帰りは気をつけろよ」
「はい」
 無言で見つめ合って夜ご飯の時にまた逢えると嬉しさを噛み殺す。
「なんか煉獄って、甘露寺に特別って感じしねぇ?なんかあんの?お前等…」
 意味深に山田がそんな言葉を発しているのを聞いて本来ならノーと言ってあげるべきなんだろうが、正直なところそんな風に思われた事が杏寿郎には少しばかし喜ばしかった。生徒に対して特別感なんて出してはいけないというのに。
 ただ、この煉獄杏寿郎も教師である前に一人の男だ。甘露寺結菜を気にするただの男であれたらどれ程自分の気持ちを噛み殺さなくていいのかと、窓の外の雨を眺めながらぼんやりと願う他なかった。

 ◆

 放課後。
 日直だった結菜は、学級日誌を書くことをすっかり忘れており、教室に残って書いていた。生徒達は皆、部活動へ移動したり帰宅したりとそれぞれの中、結菜の前の席の椅子に反対向きに座り、結菜の机に肘をついて居残りしている山田を拒否できずにいた。
「山田くん帰らないの?」
 頬杖をついて自分を見つめる山田にそう聞くも窓の外を指差して「傘持ってねぇもん。甘露寺送ってよ、俺のこと」なんてふざけた言葉。結菜にその気はさらさらない。なんとなく山田が結菜を好いているのかもしれないと思う節は多々ある。けれど直接何かを言われたわけでもされたわけでもなく、だから結菜的にもあからさまな否定はできずにいる。
 困ったなぁ…心の中で溜息をつく結菜がふと顔をあげた瞬間、窓の外がピカッと光った。振り返った瞬間空がゴロゴロと爆音をたてる。
「わ、雷…」
「なぁ甘露寺…お前好きな奴いるの?」
「へ?なに急に」
「急にじゃねぇよ。俺ずっと甘露寺のこと見てた。好きなんだ――付き合ってくれねぇ?」
「好きな人…いるから、だからごめんね」
 トクンと胸が大きく脈打ったのは、雷が鳴ったからでも、山田に告白されたからでもない。結菜の返事などお構いなしというのか、ぱちくりと瞬きをする結菜の目の前で目を閉じている山田。
「嫌っ、」
 山田を突き飛ばすように胸を押し、結菜が立ち上がった瞬間、バタンと椅子が後ろに倒れた。その音がする前からなんだろうか、ちょうど教室の後ろ側、開いたドアの向こうであろうことか、杏寿郎が結菜達を凝視している。途端に結菜の心臓がドクンと鷲掴みにされたように痛く、生徒二人のキスシーンを見てしまった杏寿郎は太腿にある自分の手にこれでもか!というくらい力を込めて握る。
「すまなかった」
 早口でそう言うなり中に入ろうとした教室を背に速足で職員室へと戻る。結菜は杏寿郎に見られてしまってショックで固まってしまう。
「見られちまったな」
 ヘラヘラと悪びれもせずにそう笑う山田をキッと睨むと「最低!」そう言い捨てると結菜は日誌を職員室へと届けることもせず教室を飛び出した。一歩、一歩、歩くたびに喉の奥が痛くなって視界がぼやける。悔しいのか悲しいのか、よくわからない感情の涙が溢れて止まらない。ポロポロと頬を伝う涙が、大雨と混ざって結菜の頬を、全身をびしょびしょに濡らしていくんだ。

 一方、最愛の結菜を生徒に取られた様な気持ちになっている杏寿郎は珍しく苛ついていた。こんな日は居残りして仕事をしてもはかどるはずがないと切り上げて車で自宅に帰る。夜ご飯、蜜璃と伊黒の食堂に顔を出してもいいものかと悩む。できるのなら結菜に会って確かめたい。けれどあんな場面を見られた結菜側からしたら、会ってくれないかもしれない。それならば自分があの食堂に行く意味もないと思えた。
 マンションに隣接された駐車場に車を停め、土砂降りの中小走りでマンションのエントランスに入った。肩で大きく呼吸をする杏寿郎の大きな目に、玄関の前で体育座りをしずぶ濡れの結菜の姿が見えて慌てて駆け寄った。
「甘露寺、どうしたんだ!?ずぶ濡れじゃないか、風邪を引いたら困る。早く中に、」
「結菜が好きなのは先生だよ!あんな奴と、キスなんてしたくなかった。結菜がキスしたいのは他の誰でもない、先生だけなのっ!」
 大粒の涙をポロポロと零す結菜の真っ赤な瞳。寒さで色の飛んでいる頬も身体も冷たく、肩に触れた杏寿郎の温もり程度じゃ温められやしない。けれど愛する人にそんな事を言われて、何も応えられないような男にはなりたくないと思えた。
 玄関の前、ずぶ濡れの結菜をぎゅっと強く抱きしめるとすっぽりと杏寿郎の胸に収まる。小さくて細くて強く抱きしめると壊れてしまいそうな結菜を、それでも愛おしく想い更に強く抱きしめる。ドアにトンと結菜を押し付けると、手首を掴んで見上げる結菜の唇に迷いも躊躇いもなく触れた。 

 ――その刹那、二人を包み込む強風。竜巻の中、暖かなその場所で百年前もこうして杏寿郎は結菜を抱きしめて口づけたであろう。
 決して枯れぬ愛を胸に、燃える心で君を一生愛し続けると――。

 ◆◇◆