大正三年・過去

 時は大正三年。
 ここ、鬼の棲む街から人里離れた藤の花で囲まれたお屋敷に調剤した薬を持って行った帰り、柱合会議を前に庭にいるであろう姉の甘露寺蜜璃会いたさに数十段の階段を登りきった甘露寺結菜は、遠くに見えた知った顔に脚を弾ませた。知らない男性と楽しそうに笑顔を見せあっている蜜璃に両手を広げて「お姉ちゃんっ!」駆け寄って飛びついた。
 鬼殺隊という政府非公式の組織に身を置いている姉の蜜璃とこうして生きて会えるのは結菜にとって毎回奇跡のような出来事であった。
「はは、随分元気だな。噂の妹か?」
 ほんのり鼻にかかった透き通る声に視線を向けると、まるで炎を纏っているかのよう、黄金色の髪を靡かせて燃えるような紅い目をした隊服姿の男が結菜を見て優しく微笑んでいる。ここにいるということはこの男もそう、姉と同じ鬼殺隊の柱なのであろう。
「結菜!会えて嬉しいわ。ご挨拶して?」
 ポンと蜜璃に背中を叩かれ結菜はまじまじと彼を見上げた。
「初めまして甘露寺結菜です」
「俺は炎柱、煉獄杏寿郎だ。噂はお姉さんから聞いているよ。胡蝶の所で医学を手伝っているのだな」
 偉い、偉いとでも言いたげに胸の前で腕を組んでいる杏寿郎はうんうんと頷いている。杏寿郎の言う通り結菜は蟲柱、胡蝶しのぶの蝶屋敷で住み込みで働いている。本来なら姉の蜜璃と同じ鬼殺隊として鬼を狩ることを望んだものの、結菜の刀身の色が変わることはなかった。ならばときっぱり鬼殺の道を諦めたけれど、鬼を狩らなくとも人の役に立てる仕事は少なからず沢山ある。元々お転婆な蜜璃の傷の手当をする事が多かったせいか、しのぶに声をかけられた時、すんなりと医学の道へ進むことを受け入れた。鬼殺の戦いの現場において、無傷で戦いを終える事はなかなか難しい。それを分かっているからこそ、少しでも自分がそんな人達の傷も心も癒せればと思っている。
「はい。今日もお館様に薬を届けに参りました」
 しのぶから託されたお館様の薬。若さゆえにどんどん進んでしまう病の進行を止める事は今の技術では到底難しかった。
「そうかそれはご苦労であったな。それで、お館様の具合はどうなんだ?」
 杏寿郎の大きな瞳が結菜を見つめる。結菜は唇をぐっと噛み締めた後、杏寿郎を見つめ返す。
「あまり、よくはないです…。でも絶対に治すの。みんな頑張っています。きっとお館様を治せる薬を調合してみせます」
 太陽のように明るく凛としたその姿に、杏寿郎は一瞬目を奪われた。目の前の小柄な娘は自分より年下でまだ幼さを残したあどけない表情だ。けれどほんの一瞬とても大人びた表情をした。それはそう、一人の人間として目標を持ち美しい輝きを放っている姿そのもので。そんな結菜の心の強さは一瞬で杏寿郎の胸を強く打ち付けた。こんな気持ちは初めてだった。母のような強い女性を自分の目で見たのは。
「頼もしいな、期待しているぞ」
「はいっ!」
 微笑み合う杏寿郎と結菜を見て、蜜璃が少しばかし眉毛を下げて小さく聞いた。
「そういえば結菜、あのお見合いのお話はどうなったのかしら?」
 遠慮がちにでも、それが妹の幸せに繋がるのならば姉としては喜ばしいことなのだから。けれど現状医学に携わっている結菜は多忙で、それはないのかもしれない…と密かに蜜璃は思っていた。それでも両親を安心させる為にも結菜には家庭を持って幸せになってほしいと願っている。蜜璃の問いかけに頬をぷぅっと膨らませて顔を背ける結菜。
「結菜はまだ結婚なんてしませんよー」
 蜜璃から離れるようにくるりと背を向ける。
「結菜、お父さんとお母さんは貴女の幸せを願っているわ。もちろんわたしもよ。女の幸せってやっぱり愛する人に愛される事だと思うのよ。一度会ってみたらいいじゃない?素敵な殿方かもしれないわよ」
「いくら大好きなお姉ちゃんの頼みでもそれだけは嫌です。愛する人は結菜が自分で見つけるもん」
 年頃になればほとんど皆お見合いの話が持ち出される。結菜の周りにも実際殿方のところにお嫁にいき、子供を産んで母になっている子もいる。それでもやはり、愛する人は自分で見つけたいと思うのが人間の性なんじゃないだろうか。
「もう結菜ってば」
「お姉ちゃんこそ、伊黒さんとどうなの?」
 突然結菜にそう話をふられて、蜜璃は耳まで真っ赤になる。何度となくお見合いをしてきた蜜璃は自分を押し殺してまで幸せにはなれないと殻を破って素敵な殿方を探すべく鬼殺の道へと入った。そこで出逢った蛇柱である伊黒小芭内は、蜜璃にとってとても優しく一緒にご飯を食べると物凄く幸せな気持ちになれる存在の人だった。そんな事を文でも結菜に何度か伝えていた。それをまさか今問い詰められるなんて思ってもみなかったせいか、あきらかに動揺をみせる。自分の顔が熱くなっている蜜璃は真っ赤で、そんな姉の姿を見るだけで分かってしまう。姉は伊黒に好意があるのだと。結菜が実際伊黒と接する機会はとても少ない。けれど今日も結菜の姿を見つけた伊黒が、蜜璃は庭にいるから行ってみるといい…そう教えてくれた。ぶっきらぼうだがどこか優しさを含んだ伊黒を結菜も慕っている。
「伊黒さんと食べるご飯はとても美味しいわ…って結菜、わたしのことはいいのよ!話を逸したわね、もう」
 捕まえようとする蜜璃から離れて杏寿郎の後ろに隠れる結菜。ふわりとほんの一瞬触れた結菜の手に、杏寿郎は胸をトクンと高鳴らせてしまう。そして、結菜にお見合い相手がいる事を図らずも知ってしまい、それがどうにも杏寿郎の胸を針で突き刺すような痛みであった。自分はどうしてしまったのか?と心の中で問うも、答えは簡単には出てこない。それが杏寿郎にとって初恋と呼べるものだと気づくのはもう少しだけ先の事である。
「結菜さんこちらにいらしていたのですね。ちょうどよかったです。実は那田蜘蛛山での負傷者がうちに運ばれているので様子を診てやって下さいませんか?」
 結菜の働く蝶屋敷の主人である蟲柱の胡蝶しのぶが戦闘から帰ってきて柱合会議のためここ、鬼殺隊本部に移動していた。先の戦いで負傷した隊員達が次から次へと蝶屋敷に運ばれてくるのを想像して結菜は気合をいれる。
「うん分かった。それじゃあ結菜は戻るね。お姉ちゃん、絶対死なないでね…また生きて逢えるよね?」
「ええ。約束するわ!結菜も頑張ってちょうだい」
「うん。…杏寿郎さん」
 蜜璃と抱きしめあった後、結菜はくるりと身体事杏寿郎を振り返る。
「杏寿郎さんもどうかご無事で」
「あぁありがとう。君の世話にならんように毎日鍛えているから安心しろ。また生きて逢おう…元気でな、結菜」
 ポンポンと優しく結菜の頭を撫でる杏寿郎の大きな温かい手。結菜はその温もりをしっかりと心に刻み、二人に手を振って負傷者の待つ蝶屋敷へと帰って行った。
 嵐のように過ぎ去った結菜の残像を杏寿郎は彼女が見えなくなってもしばらくの間静かに見守っていた。また生きて逢えると願って。

 ◆

「ねぇ無理だよぉ〜これ、こんっな苦い薬俺もう飲めないよおおおお。お願い、薬変えて?ね?ね?」
 ベッドの上、小さくなった身体で暴れ回る鬼殺隊隊員、我妻善逸。那田蜘蛛山で鬼と戦った結果、鬼の血鬼術にかかり身体が蜘蛛になりかけていた所をしのぶに助けられこの屋敷に連れてこられた。それ故に手脚の先が蜘蛛のように硬く形も変わってしまっている善逸はそれを治す薬を飲まなくてはならないのに、その苦さ故にこうして毎日拒否している。最初は気の強いアオイが無理やり飲ませていたが、それも面倒になったのか、最近はこうして結菜のところにやってきては、飲みたくないと懇願している。
「あのね善逸くん、貴方は蜘蛛になりかけていたんだよ。しのぶちゃんしか調合できない薬なんだから、これを飲まなきゃ蜘蛛になるしかないよ」
「う、冷たい結菜さんっ!昨日はもうちょっと俺に優しかったよ、結菜さんっ!いや飲むよ、勿論飲むつもりだけどさぁ、こんっな苦い薬飲んだ後はご褒美がないとやってらんないじゃん、結菜さんっ」
 ご褒美と言いながら鼻の下を伸ばしている善逸は鬼殺隊の中でも有名な女好きだ。自分では無自覚らしいけれど、女を見ればほいほいと着いていくくらいである。それでも炭治郎の妹、禰豆子のことが大好きらしく、それもまた炭治郎には面倒がられているのがよく見える。今日はしのぶがいないから結菜が薬の調合をしていて朝からとても忙しかった。
「ご褒美って、善逸くん例えば?」
 試しに聞いてみれば、パアーっと顔を明るくさせてくねくねと身体を捩らせた。
「ええっとぉ、シロツメクサで花の冠作ってあげるから一緒に散歩とか、どう?」
「どうと言われても、結菜にそんな時間はないんだけどなぁ」
「そこをなんとか頼むよおおおお」
 泣いて結菜に縋る善逸を見兼ねた炭治郎が力づくで剥がすと、ゴツンと一発頭突きをお見舞。
「頭骨いったよ、これ」
 そんな叫びの後、気を失った善逸に結菜は仕方なく彼の頭を擡げて眠っている善逸に薬を飲ませてあげた。そんな様子を見た炭治郎が「ご迷惑おかけしてすみません」善逸の代わりに謝ってきた。結菜は首を横に振って微笑む。
「炭治郎くんが謝ることないのに。君はとっても優しいね。怪我の具合はどう?」
「順調です。結菜さんやここにいる皆さんのお陰です。本当にありがとうございます」
 カランと耳についた花札柄の耳飾りが揺れた。窓の外から入る風が柔らかく結菜と炭治郎の間を吹き抜けていく。窓枠の前で静かにこちらを見守っているサボテンを眺めながら結菜は小さく溜息をついた。たった一度の戦いでこんなにも負傷してしまう鬼殺隊の隊員達を間近に、やはり柱である姉の蜜璃が心配になった。
「あの炭治郎くん。十二鬼月は強かった?」
 結菜の言葉にふわりと微笑んでいた炭治郎の顔から笑顔がスッと消えた。それだけで炭治郎が何を口にするのか分かってしまう。
「今まで俺が戦ってきたどの鬼より強かったです。正直俺は冨岡さんが来てくれなかったら死んでいたと思うし…でも冨岡さんが水の呼吸の拾壱ノ型で十二鬼月を斬ってくれて…やっぱり柱の実力は凄かったです。俺ももっと頑張らなきゃって思いました。そういえば結菜さんは確か、恋柱の甘露寺さんの妹さんでしたよね?やっぱり心配ですか?」
 顔に出ていたのだろうか。結菜の心配顔を読み取った炭治郎は少し和らいだ表情で続けた。
「結菜さんからは不安気な匂いがします…」
「え?匂い?」
「はい。俺は昔から人より鼻が利くんです。だから結菜さんがどんな感情なのか、匂いで分かるんです。貴女は今の質問でとても不安そうな匂いを発していたので」
「そう、なんだ。結菜も鬼殺隊で一緒に戦えればよかったのかもしれないけど、無理だったから。お姉ちゃんは柱だけどやっぱり鬼は強いし、十二鬼月と戦う確率が高いのは柱だろうから…。もし上弦の鬼と対峙したらって思うと…」
 柱がいくら強いとはいえ、こちらは皆生身の人間だから怪我もするし命すら落とす事も多い。いつだって明るく優しい蜜璃にはやっぱり生きた世界で幸せになってほしいと願うばかりだ。
「俺達がもっともっと鍛錬して強くなります!柱に戦わせないぐらい強くなります!だから結菜さんは笑っていてください」
 初めて会った時から炭治郎は少し人と違うような気がしていたけれど、本当に心が優しいんだろうと、結菜はほんのり口端を緩めた。コクリと頷けば炭治郎もまたふわりと笑った。カランと耳飾りが音を立てて揺れる。結菜は炭治郎の言葉を信じようと思えた。

 ◆

 ある日の事だった。任務帰り蝶屋敷の近くを通った杏寿郎は、結菜の事が忘れられずその脚で蝶屋敷へと向かっていた。どうしてももう一度あの笑顔に逢いたいと。柱ともあれば確かに他の隊員より遥かに強い。それ故に、任務の時は強い鬼のところへ向かうことが多い為、自分もいつ命を落とすかもしれないなんて気持ちがないわけではなかった。勿論簡単に死ぬつもりなどないし、弟の千寿郎を煉獄家に残していくのは以ての外、酒に溺れている父も心配だし責任感の強い杏寿郎は色んな事を背負ってそれでも鬼殺隊柱として様々な場所へ任務に行っている。
 間もなく蝶屋敷に着く頃だった。玄関の前で思いがけず結菜の姿を見つけた。それだけで喜ばしい気持ちになり、速脚でそちらに行こうとすると、「お願いですっ、帰ってください」聞こえた結菜の声にピタッと脚を止めた。
「結菜は貴方と結婚するつもりはありません。お話することはありません。もうお帰り下さい!」
 相手の胸を押して自分と距離を取ろうとする結菜の腕を掴んだ男は、次の瞬間結菜の手首をギリリと痛いほど握り、無理やりその場で結菜を力づくで押さえながら口づけた。一瞬のことだったけれど、確かに結菜の唇に相手の唇が触れていた。途端に腸が煮えくり返る程の怒りなのか嫉妬なのかが杏寿郎の心に生まれる。けれど結菜は相手を突き飛ばして顔を伏せたまま蝶屋敷の中へと駆けていく。長い結菜の髪がふわりと揺れた残像もなくなり、見合い相手は悔しそうな顔をしたまま、蝶屋敷を後にした。
 残された杏寿郎はどうしようか迷ったものの、それでもやはり結菜が心配で蝶屋敷の中へと入り込んだ。
「やぁ胡蝶、元気か?」
 しのぶの元へやってきた杏寿郎に、目を大きく見開いて驚くしのぶ。
「煉獄さん、珍しいですね。うちになにかご用ですか?」
「父の酒を止める薬がないかと思ってな」
 思いついた言い訳がそんな事だったせいで、しのぶは杏寿郎をジッと見て苦笑いを零す。
「残念ながらそのような薬はありませんよ。もしかして結菜さんのことですか?」
 少し困ったように杏寿郎は手で頬をポリっと掻く。
「あぁ。偶然外で見かけてな…。少し気になったもんだから様子を見に来た」
 そう素直に言葉にすればしのぶは安心したように微笑んだ。けれど次の瞬間真剣な顔に戻り、ふぅっと息を吐き出す。
「先程戻ってこられてから部屋に籠もって出てきません。…お見合い相手の方と何かあったのでしょうかね…。泣いている結菜さんはわたしも初めてでどう声をかけていいのか分からないのです…」
 しのぶの言葉に杏寿郎の胸もズキンと痛くなった。それは結菜の気持ちに寄り添えば添うほど、杏寿郎の心も痛んでいくかのようで。大きく深呼吸をした杏寿郎はしのぶの肩にポンと手を置く。
「俺が話を聞いてくるよ。胡蝶は引き続き薬の調剤をしててくれ」
「ええ分かりました。では今回は煉獄さんに結菜さんをお任せしますね」
「あぁ」
 しのぶに結菜の部屋の場所を聞き、杏寿郎は速る気持ちを抑えて結菜の部屋の前で声をかけた。
「結菜、開けるぞ」
 返事を聞く前に障子を開けると、部屋の隅っこで膝を抱えて蹲っている結菜の姿が目に入った。直様そちらに駆け寄った杏寿郎は膝をついて結菜の前に座る。
「杏寿郎さん?ど…してここへ?」
「結菜、何故泣いているのだ?」
 細い肩に手を置くとビクリと肩を竦める結菜。それでも触れた手に力を込めると小さな声が杏寿郎に届く。
「もう結菜はあの人のところにお嫁にいくしかないです…」
 涙がポロポロと結菜の頬を流れ落ちる。涙で真っ赤になった瞳が杏寿郎を見つめる。
「そんなこと、させない」
 ふわりと結菜の腕を引いて自分の胸に抱き寄せた。細い身体を確かめるように背中を撫でると結菜から堪えきれず嗚咽が漏れた。
「結菜、俺ではだめか?」
 そんな言葉と共に、杏寿郎は俯く結菜の顎に手を添えて上を向かせるとそのまま結菜に被さるように唇を重ねた――。
 突然杏寿郎に口づけされて吃驚したものの、初めて逢ったあの日からずっと杏寿郎は結菜の心に住み着いていて、先程の嫌な口づけを上書きするように優しく触れる唇にまた違う種類の涙が結菜の瞳から零れ落ちた。
「杏寿郎さんっ、だめじゃないです。結菜は杏寿郎さんが好きっ。杏寿郎さんのお嫁さんになりたいっ」
 そう言って今度は結菜の方から杏寿郎に口づける。二人共、初めて出逢った日からお互いの心に住み着いていて、それが今真実となって二人の心を温める。好きな人は自分で見つける!と誓った結菜の相手は、その時そこにいた杏寿郎以外の誰でもないのだと、この口づけが証明するかのようだった。
「結菜っ、俺も結菜が好きだ。俺だけを好きでいてくれ」
 強く抱きしめられて何度も何度も繰り返される杏寿郎との口づけに、結菜の心の傷も癒やされていくのであった。

 翌日。
 早速杏寿郎とのことを伝えるべく蜜璃の屋敷を訪ねた結菜。
「えっ!?煉獄さんとっ!?本当に!?」
「うんっ!結菜をお嫁さんにしてくれるって杏寿郎さんっ!だからお姉ちゃん、安心して!結菜、杏寿郎さんと幸せになるからっ!」
 手土産に買った桜餅を5個ほどぺろりと食した後、蜜璃は結菜の手を握り泣いて喜んでくれた。聞けば、蜜璃は杏寿郎の継ぐ子だった時があるようで、早々に鬼殺の道から外れた結菜はそんなことも知らなかったのだ。
「きっとどんな出逢い方をしても結菜は杏寿郎さんと恋に落ちるって思うの。お姉ちゃん、結菜今凄く幸せだよ」
 涙ながらに共に喜んでくれた蜜璃と別れた後、結菜は杏寿郎との待ち合わせ場所へと急いだ。
 昼過ぎから時間が取れると言った杏寿郎と初めての逢引だった。嬉しくて弾むように歩いてくる結菜に気づいた杏寿郎はくすりと口端を緩めた。昨日ぶりだというのに、もう何日も待ったような気分であった。
「杏寿郎さーん!」
 元気よく手を振って駆け寄ってくる結菜の小さな手を取るとそのまま二人は歩き始めた。近くの縁日に顔を出そうと穏やかな時間を二人で過ごしていた。
「お姉ちゃんに報告してきました」
 嬉しそうに笑う結菜を今すぐ抱きしめたくなるものの、杏寿郎はそれを我慢しふわりと微笑んだ。
「そうか。甘露寺はなんて?」
「泣いて喜んでくれた。よかったねって」
「そうか。祝福してくれるなら何よりだ。それにしても、甘露寺が俺のお姉さんになるとは…」
「気まずいですか?」
「いやそんなことないよ。結菜を愛してると胸を張って言えるぞ俺は」
 杏寿郎の腕が結菜の肩に回されて耳元で愛してる…そう囁く。途端に機関車のように結菜の顔から湯気でも出そうなくらいに真っ赤になって杏寿郎を見上げる。
「もう、狡いです杏寿郎さん。そんなこと言われて結菜が喜ばないわけないのに…。結菜だってその、杏寿郎さんのこと、…愛してる」
 語尾はほとんど聞こえないぐらい小さな声だったけれど、耳のいい杏寿郎にはしっかりと聞こえていて、満足気に微笑んだ。そんな些細なことで笑い合える関係が堪らなく嬉しく、ずっと今日が続いて欲しいと願わずにはいられない。
 手を繋いで街中を見て回る結菜と杏寿郎。ふと結菜の視線が一点に集中した。勿論それを見逃すことなく杏寿郎もその視線を追う。そこには色とりどりの簪が並んであった。結婚の約束をした二人は自然とそのかんざし屋に脚を運ぶ。
「好きなものを買ってあげるよ。選ぶといい」
 杏寿郎にそう言われたけれど、簪ともなればそこそこ値段も張る。
「遠慮することない、これなんかどうだ?」
 スッと結菜の髪に差し込まれた真っ赤な椿柄の簪。鏡に映ったそれを見れば強く気高い杏寿郎ようなイメージで、一瞬で気に入ってしまう。
「本当にいいの?」
「あぁ。俺が結菜に買ってあげたいんだよ」
「ありがとう。大切にするね」
 杏寿郎の優しさに甘えて結菜はその簪を買ってもらい、髪につけたまま杏寿郎との時間を楽しんだんだ。
 夕方になり杏寿郎の鬼殺隊任務の時間が迫ってくる。楽しい時間が過ぎるのはとても早く、別れの時間に寂しさが一気にこみ上げる。蝶屋敷の前まで送ってくれた杏寿郎は俯く結菜の頭にポンと手を乗せた。ぎゅっと風に揺れて靡く杏寿郎の羽織の裾を掴んで離すことのできない結菜を、杏寿郎はその場で強く抱きしめた。
「必ず戻るよ結菜、君の元へ」
「うん。信じて待ってる」
 そう頻繁に逢える訳ではなかった。今回の任務が少し難しいような話を何処からともなく噂で聞いた。無限列車で莫大な被害が出ており、事前に送り込んだ隊員が誰も戻って来ず、等々柱である杏寿郎が呼ばれたのである。間違いなく十二鬼月だろうと。下弦なのか上弦なのかは分からない。けれど柱が行かなければ被害がおさまらないとお館様が判断した。もしかしたらこれが最後になるかもしれないなんて思いたくなく、結菜は杏寿郎の温もりを身体に脳に植え付ける。
「結菜…」
 熱を帯びた杏寿郎の声にそっと目を閉じると、結菜の唇が甘く濡れた。
 大丈夫、きっとまた逢える…そう信じて結菜は杏寿郎の大きな背中を見送った。

 ◆

「結菜っ、今夜は天ぷらにしろよ!」
 買い出しに行っているアオイの代わりに晩ご飯の準備をしていると元気になった伊之助が台所に現れてそんな言葉を投げかけた。振り返ると握り飯を両手に持ち、既に頬張っている。
「こらっ伊之助っ!また勝手に摘み食いして!できる前に食べちゃだめって何回言ったらわかるの?」
「何回言われても分かんねぇーな!俺様は食いたい時に食いたい飯を食ってるだけだ!文句あんのか?」
 えっへんと偉そうに胸を張って腕を組む伊之助に結菜は呆れたように笑った。
「天ぷらにする意味はあるの?」
「あるね!今夜俺達は任務につく。だからその前祝いだ」
 そういえば杏寿郎が任務に経ってから数日が過ぎていた。那田蜘蛛山での怪我も無事に回復し、ここにいる伊之助、炭治郎、そして善逸の三人はしのぶの指導の元、機能回復訓練をし、全集中の呼吸常中という呼吸法も獲得し、カナヲ相手にも戦える程強くなっていた。そろそろ次の任務が入る頃だと思ってはいたけれど、今夜経つと思うとほんの少し寂しい気持ちになるなんて。三人共なんやかんや言いながらも杏寿郎に逢えない結菜の寂しさを埋めてくれていたであろう。
「分かったよ。今夜は天ぷらで早めに準備するね」
「おぅ頼んだぜ」
 機嫌よく鍛錬しに行く伊之助の後ろ姿を結菜は一人くすりと笑って見送る。
 その後、炭治郎から無限列車にいる杏寿郎と合流する任務だと聞き、結菜は自室に籠ると杏寿郎宛に文を書いた。そしてそれを「杏寿郎さんに渡してほしい」と、炭治郎に預けた。そんな結菜に炭治郎は優しく微笑むと「必ず渡します」と、笑顔で言ってくれた。
「炭治郎くんも、善逸くんも、伊之助も、どうか無事で帰ってきてね」
 別れを惜しむ善逸を引っ張るように伊之助が首根っこを掴んで、半ば引きずる様に連れて行く。炭治郎は後ろ背に鬼になった妹禰豆子を背負って元気よく手を振って結菜達の前からその夜、杏寿郎と共の任務へといざなった。
 その日の夜は、まるで先日の逢引の続きのよう、結菜は杏寿郎と街中を散策する夢を見た。繋いだ手の温もりが、ほんのりとまだ結菜に残っているみたいで、心の奥がぽかぽかと温かくなるようだった。
 幸せな気分で眠っていた明け方、パチンという音が聞こえた気がして結菜は目が覚めた。ふと部屋の中を見回すと、杏寿郎に貰った簪がテーブルの上から落ちていて、急な胸騒ぎに襲われた。部屋の障子を開けると夜明けの陽光が射し込んでくる。眩しさに目を眩ませた瞬間、バサバサと一匹の鴉が結菜の前に降り立った。見るからに急いで飛んできたような鴉は羽をバタつかせながら結菜を見て叫んだんだ。
【下弦ノ壱、杏寿郎、炭治郎、伊之助、善逸、禰豆子ニヨリ撃破!続ク上弦ノ参トノ格闘ノ末、煉獄杏寿郎死亡!!】
 バタンと全身の力が抜けてその場に膝をつく。目の前にいるのは間違いなく杏寿郎の鎹鴉だった。先日蝶屋敷まで送ってくれた時に結菜に紹介してくれから間違えるはずがない。その鴉が目から涙を溢しながら必死で飛んできて結菜に訃報を伝えてくれた。目の前が真っ暗になり涙が込み上げる。必ず戻ると言った杏寿郎の顔が浮かび、結菜の目からは止めどなく涙が溢れる。拭っても拭っても止まらない涙。鎹鴉の訃報に、蝶屋敷に住むアオイや、なほ、すみ、きよが心配して結菜に駆け寄った。
「結菜さんっ結菜さんっ」
「うう、杏寿郎さんが、杏寿郎さんがっ、結菜の愛する人が、死んでしまったっ…嘘だと言って、お願いっ、結菜を残して逝かないでっ、お願いっ…」
 誰も何も言えなかった。しのぶとカナヲが不在の今、この蝶屋敷は結菜が一番年上で、そんな結菜になんて声をかけたらいいのかなんて分かるわけもなく、ただ5人で抱き合って泣くことしかできなかった。
 その日のお昼前、蝶屋敷に重傷を負った炭治郎達が戻ってきた。アイスピックでお腹を刺された炭治郎は酷く脱水症状で、それでも結菜を見つけるなり駆け寄ってきて膝をつくなり床に額をつけて土下座をした。
「煉獄さんを守ることができなくて、すみませんでしたっ。俺が弱いせいで力及ばず…本当にすみませんっ」
 言いながら大きな瞳からぽろぽろと涙を零す炭治郎を前に、結菜はどこか現実味を佩びていなかった杏寿郎の死がやはり現実なのだと認めざるを得なく、蹲って泣いてる炭治郎の背中に触れると顔をくしゃくしゃにしている炭治郎が結菜を見つめ返す。
「炭治郎くん。あなた達のせいじゃない。あの人は…杏寿郎さんは守ってくれたんでしょ?炭治郎くん達を…」
「はい。煉獄さんがいなかったら俺達全員死んでました。煉獄さんが俺達の盾になって、無限列車乗客全員の命を守ってくれたんです。それなのに急にアイツが、猗窩座が現れて…上弦ノ参とあんなに対等に戦える人、煉獄さんしかいないですっ。俺が弱いせいで本当にすみませ――
 もういいから!…震える炭治郎の背中に腕を回して結菜はまた泣いた。どれだけ泣いても涙が止まることはなく、この日一日結菜の涙が止まることはなかった。
 しのぶはそんな結菜を見兼ねて、無理をすることはないと優しく言ってくれた。無限列車での怪我人は炭治郎、善逸、伊之助だけで、伊之助と善逸に関しては那田蜘蛛山程の怪我ではなかった為、直ぐに復帰し別の任務へと出掛けるようにすらなっていた。
 そんな中、炭治郎はまだ怪我が治っておらず高熱が出る中、出掛けて来ると言って出ていった。結菜はしのぶの言葉に甘えたい訳ではないというのに、うまく動くことができずにいた。
 夕方、外出先から戻った炭治郎は結菜にスッと文を差し出した。
「実は煉獄さんの家に行ってきたんです、煉獄家に。ご家族の方に煉獄さんの最期の言葉を伝えに」
 瞬きをして炭治郎を見つめる結菜は、微かに香る杏寿郎の香りに文を胸に抱いてぎゅっと抱きしめた。震える手で結菜はそれを開いていく。

 結菜へ
 この文を読んでいるという事は俺はもうこの世にいないのだろう。
 あの日、初めて結菜に出逢った日、俺は大人気なく結菜の強くて優しい瞳に心惹かれた。向日葵のように笑う結菜の笑顔に胸が締め付けられるくらいに熱くなったのを昨日のことのように覚えている。
 結菜と出逢って、これから先の未来をどれだけ夢見ただろうか。鬼のいなくなった世界で結菜と、俺達の子供と楽しく過ごせたらどれだけいいだろうと、夢見たよ。
 だがそんな些細な願いも叶えられなくなってしまい本当に申し訳なく思う。けれど忘れないで欲しい。短い間だったけれど、結菜のことを心から愛している。この先も俺の気持ちは永遠に変わらないよ。それでもただ一つ結菜に頼みがある。
 どうか自分の幸せを一番に考えてほしい。俺が一目で好意を持ったということは、結菜はとても魅力的な女性だということ。結菜が本当の幸せを見つけた時は、俺に遠慮することなくそっちにいっていいんだよ。結菜が幸せであることが、俺の何よりの願いだということを、どうか忘れないで欲しい。
 俺はずっと結菜の心の中で生き続けるだろう。
 結菜の幸せを心から願っているよ。
       ――煉獄杏寿郎

「杏寿郎さん以外との幸せなんてっ結菜にはないのにっ。どうして杏寿郎さんが傍にいてくれないのっ、どうして杏寿郎さんがっ…」
 ボタボタと廊下に涙の染みを作る。初めて見る杏寿郎の字は、杏寿郎そのもののように、大きく太く自信に満ちた力強い文字だった。
 もっと沢山知りたかった、杏寿郎のことを。
 もっと沢山知ってほしかった、結菜のことを。
 もっと沢山の話を語らいたかった。
 もっと沢山の景色を見たかった。
 もっと沢山の美味しいものを一緒に食べたかった。
 もっと沢山…数えたらきりがない。
 この世界に杏寿郎がいないというだけで、こんなにも胸が苦しくて毎日が辛い。結菜の死んだような心に杏寿郎の優しさが痛い程突き刺さるんだ。
「結菜さん、これは煉獄さんの弟の千寿郎くんからです」
 泣いてる結菜にもう一枚短い文を手渡す炭治郎。涙ながらにそれを受け取った結菜は文を開ける。そこにはたった一言、今度煉獄家に来てほしいと書かれてあった。
「結菜さんさえよければ、俺が道案内します。きっといいお話が聞けるんじゃないでしょうか?」
 炭治郎の言葉に嘘がないのは分かっている。冗談で人をからかったりするような子ではないと。だから結菜は一つ返事で炭治郎の言葉に頷いた。
 翌日早速炭治郎に連れられて結菜は煉獄家の敷居を跨いだ。大きな広い庭のある煉獄家。この場所で杏寿郎が生きてきたのかと思うとそれだけで涙が溢れた。
「炭治郎さん」
 声のする方を振り向くと杏寿郎にそっくりな、でも杏寿郎よりずっと小柄な少年が結菜と炭治郎のところへ駆けてきた。
「結菜さんですね、初めまして、煉獄千寿郎です。兄がお世話になったようで…」
 大きな声でハキハキと喋るのかと思ったけれど、目の前の千寿郎はどちらかというと優しげな自信無さげな喋り方だった。けれどその格好はまるで杏寿郎を見ているようで、結菜は口元を手で覆って涙を零す。
「甘露寺結菜です…」
 名乗るだけで精一杯だった。ぺこりと頭を下げる結菜を、千寿郎は家の中へあげてくれた。
「元柱の父から結菜さんに話があるそうで、そちらに案内致しますね」
 突然父から話…と言われ、ドクンと結菜の心臓が脈打った。一体自分にどんな話があるのか?全く想像もつかなかった。
「父上、よろしいでしょうか?甘露寺結菜さんがお見えです」
「入れ」
 寡黙そうな低い声に千寿郎は結菜に微笑むと部屋の障子を開けた。一瞬目が眩みそうになる煉獄父の髪色もまた、ここにいる千寿郎であり杏寿郎と同じ炎のような色合いだった。
「甘露寺結菜です…」
「杏寿郎と夫婦の契を交わしたそうだな」
 口約束ではあったが、確かにそんな幸せな日はあった。結菜は素直に「はい」そう頷くと、煉獄父は杏寿郎と同じように目尻を下げて優しく微笑んだんだ。
「そうか。アイツにもそう想える人が現れたんだな。生前私は鬼殺隊に対しての気持ちを無くしてしまい、杏寿郎にも辛く当たってしまった。それを昨日、この竈門に諭され、漸く目を覚ましたんだよ。結菜さん。杏寿郎を愛してくれてありがとう。心から礼を言う。息子を愛してくれて、本当にありがとう」
「そんな。お父様どうか頭をあげてください。結菜は、杏寿郎さんと一緒にいれて心底幸せでした。本当はもっと一緒にいたかったです…。お父様や千寿郎くんと、色んな事を一緒にしたかったです…」
 膝の上に置いた手にぎゅっと力を込める。とても素敵な家族に、杏寿郎がここに居てくれたらと思わずにはいられない。そんな結菜に対して煉獄父はこう続けた。
「結菜さんさえ良ければ、煉獄の家に入ってはくれないだろうか?君は私の息子の杏寿郎が心から愛した方だ。ならば私にとっては娘といってもおかしくない。杏寿郎が戻ることはもうないが、それでも煉獄家は結菜さんを杏寿郎の嫁として迎え入れたいと思っている。勿論こんな男二人しかいない家に棲めとは言わん。時々杏寿郎の嫁としてここに顔を出してはくれないだろうか?君に知って欲しい杏寿郎のことを話させてはくれないだろうか?」
 思ってもみない申し出だった。杏寿郎のように心を奪われる相手にはもうきっと一生出逢えないと思う。あんな風に杏寿郎は言ってくれたが、逆にそんな杏寿郎だからこそ結菜は心から惹かれたのである。
「煉獄を名乗ってもいい…ということでしょうか?」
 結菜の問いかけに優しく微笑む煉獄父と千寿郎。それを見守る炭治郎もいつもながらに優しい表情だ。
 夢でも見ているのだろうか?そっと結菜は自分の頬を指で抓ってみてもこの構図は何も変わらない。
「夢じゃないですよ結菜さん」
 炭治郎の言葉に結菜の瞳からまた涙が溢れる。
 こんなにも嬉しいことはないと思えた。杏寿郎のいない世界でも、生きていけるかもしれないと、結菜のグレーがかった視界に色とりどりの色が入ったようだった。
 大きく生きを吸って吐いて…。自分が生きていることを強く感じる。
 杏寿郎の事を想い続けながら、結菜はこの世界で幸せに生きてみせると胸に誓い、甘露寺結菜はこの日、煉獄結菜へと姓を変えた。

 その後、結菜は週末には煉獄家へ顔を出し、朝まで杏寿郎の話を聞き、楽しい時を過ごした。その傍ら、しのぶや鬼の珠世と一緒に鬼舞辻無惨を倒すべく様々な新薬を生み出し、鬼殺隊の誇りと命をかけて挑んだ無惨との戦いでは、無限城の現場に行き、何百人もの負傷者たちの手当を施した。
 ――けれど。
「お姉ちゃんっ、伊黒さんっ…」
 まるで最初から一つだったかのよう、離れまいとお互いの手をしっかりと握り、抱き合う形で最期を迎えた唯一無二の姉蜜璃と伊黒を前に、張っていた緊張の糸が切れてしまい堰を切ったように涙を流した。
 きっと天国で伊黒と幸せに暮らしていると信じて、結菜は蜜璃の死を静かに受け入れた。
 どんなに辛くとも前を向いて進むしかないと、杏寿郎が最後に残した言葉を炭治郎から聞いた結菜は、悲しんでいても時間は止まってくれないと何度も自分に言い聞かせ、誰よりも強く強く前だけを見て生き続けるのであった。
 そうして結菜は、主人を失った蝶屋敷を医院に変え、病で苦しむ人々を救い続けた。
 無惨亡き鬼のいない世界を、できることなら杏寿郎と生きたかった…その願いは叶うことはなかったけれど、結菜がその役割を全うするその時、ベッドの横に現れた杏寿郎の姿。出逢った頃と何一つ変わらない強く優しい眼差しで結菜に手を伸ばしている杏寿郎に、結菜はそっと微笑んだ。
「やっと逢えたね、杏寿郎さん」

 ――それが、煉獄結菜の最期の言葉であった。
 なほ、すみ、きよに看取られて、杏寿郎に貰った椿柄の簪を胸に眠るようにこの世を去った。

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