世界を色付けて

 ドアの開いた音でこちらを振り返ったのは紛れもなく片岡だった。他の先生はもう誰もいない。この職員室には私と片岡の二人きりだ。妙に気持ちがハイになる。
「一ノ瀬?どうしたの?こんな時間に」
 手にしていた書類をデスクに置くと片岡は身体ごとこちらに向いた。そーゆーの、ちゃんと向き合ってくれるみたいで嬉しいって、女子の誰かが言っていたのを思い出した。片岡は生徒一人一人に寄り添ってくれるって。軽くスキップしながら坂本先輩に奢らせたタピを片岡の前に押し出した。トンとほんのり胸に触れた私の手。
「え?なになに?」
「あげる。一緒に飲もう!駅まで送ってよ車でしょ片岡」
 いやいや…って眉毛を下げる片岡に更に気分があがる。私のせいで困っている片岡はなんだかちょっと可愛い。受け取らない片岡の胸にもう一度タピを押し付けた。ぐっと押すと片岡の手がそれを受け取る。ほんの少し手が触れ合うも、なんら気にしていない片岡にムッとして腕を伸ばす。
「ちょ、一ノ瀬っ」
 一歩後ろに下がる片岡の腕に自分の腕を絡めてわざとらしく胸に押し当てる。ちょっとは意識しろ。
「ばかよせ、一ノ瀬」
「なによぉ。これぐらいなんでもないでしょー」
「や、胸当たってるからね。そゆことしないでよ、頼むから」
 無理くり離れようとする片岡にそれでも食い下がる。自分が手にしていたタピを片岡の口元に出してなんなら唇に太めのストローを押し当てる。間接キスに苦笑いしながらも片岡は諦めたようにストローを咥えた。逆に胸に押し付けられたタピを私の口元に差し出してきたからそれをちゅーっと吸う。ごくりと飲み込むとポンと片岡は私の髪をやんわりと撫でた。
「たく、なんなんだよお前は。ほら帰んぞ、早くしねーと先行くぞ」
 デスクの上は資料が散乱したままだったけど片岡は背もたれにかけていたジャケットを肩にかけるとそのまま振り向く事なく歩き出す。慌てて私も片岡についていくように隣に並んで、ポケットに手を突っ込んでいる片岡の腕に捕まった。
「彼女か!たく」
 そう笑う片岡の横顔。鼻が思ったより高くて骨格も男らしい。笑うとどら焼きみたいな口が平べったくなって可愛いのに、今雪乃の隣で前を向いて歩いている片岡に、少なからず男らしさを覚えた。トクンと高鳴る胸の鼓動が心地よくて、ぎゅうーっと片岡の腕に抱きつく。
「胸当てんな、ばーか」
 そう言うけど無理やり剥がそうとしない片岡に、私はもっと強く絡みつく。それからほんのり踵を上げて耳に唇を寄せる。片岡の髪がさらりと揺れる。
「雪乃何カップだと思う?」
 そう問いかければ、ブッと飲んでいた黒糖ミルクティーを吹いた。タオルで濡れた片岡の口元を拭いてあげるとやっと照れたように目を逸らしたんだ。
「んーCかD?って、言わせんな!!」 
 一人ボケツッコミする片岡が可笑しくて笑うと横目が私を捉える。
「成長途中だけどだいたいそんなもん。ねぇ胸って揉まれるとやっぱり大きくなるの?」
「いやそれ俺知らないし」
「試す?」
「………」
 急にシーンとなるから、私と片岡の脚音がカラカラと廊下に響く。日が延びたとはいえ星の瞬く時間ならばもう空は闇に包まれている。一番星ならぬ夏の星座が空高くにちらほらと光を浴びせていた。急に振り返ったもんだからドキッとして歩を止めた。見つめる片岡からはさっきまでのおちゃらけた笑顔が消えている。同じ様に止まった片岡は、つぶらな瞳を真っ直ぐに私に向けていて…
「いいよ雪乃」
「言ったろ、安売りすんなって。あのさぁ、俺が一ノ瀬にマジになっちゃったらどーすんのよ?」
 タピをポケットから出した手に持ち替えると片岡のデコピンが勢いよく私の額にヒットした。鈍い音に目を閉じて顔を歪めた。
「だからいいって、」
「いいわけねぇだろ。俺は教師で一ノ瀬は生徒。それ以上でもそれ以下でもないから」
 ぴしゃりと言われて何だか気分が落ちた。そんなに全力で否定する事ないじゃん。片岡の言ってる事なんて最初から分かってるよ。思いっきり不満顔で片岡を睨みつけると「睨むなよ」って苦笑い。
「誰にも何んも言わなきゃ分かんない。雪乃は朝海みたいに全部顔に出るタイプじゃないから片岡が黙ってれば分からないよぉ」
「や、俺が無理だからそれ。言ったろ、もっと自分を大事にしろって。本気で好きな人ができた時に後悔するって」
「片岡は後悔するの?雪乃以外の女好きになったらさ…後悔、しちゃうの?」
 自分でも何でこんなに片岡に拘っているのか分からなかった。というよりこんな馬鹿らしい提案すら私の意思とは正反対のはず。わざわざ自分からいばらの道に飛び込む馬鹿がいるのか?って。ただなんとなく、神谷くんだけに真っ直ぐ恋している朝海が羨ましいと思っているのかもしれない。あんな風に真っ直ぐに誰かを好きになったらもっとこの日常が色付くのだろうか?と、そう思っているのかもしれない。
「一ノ瀬…そんな悲しそうな顔すんなって、」
 そう言う片岡だって、いつにもまして真面目な顔じゃん。ゆっくりと伸びてきた手が私の頭に乗ってポンポンと優しくあやすように触れた。その手をぎゅっと上から握りしめると片岡が目を逸らす。
「…直人先生」
 悔しいからそう呼べばほんのり頬を紅く染めた片岡の視線が戻ってくる。
「本気で雪乃のこと好きになってよ、直人先生が…それで雪乃の世界に色を付けて」
 一歩踏み出した脚で、片岡のスーツのYシャツに薄ピンク色のリップを押し当てた。

あとがき