とれない着信

杏寿郎…と、喉から出かかった言葉を飲み込む。会ってどうするつもり?もう杏寿郎の中では決まったこと。今まで杏寿郎がお父様に逆らった事なんて一度もない。尊敬するお父様を裏切るなんて事、杏寿郎ができる訳ないし、そんな事をさせたくない。

後少しだけ。後ほんの少しだけ見たらわたしも帰ろうって思っていたら、杏寿郎はジャケットから取り出したスマホを眺めて誰かに電話をかけた。
すぐに自分の手中のスマホが振動していて…

「なんでよ、」

杏寿郎からの着信だ。切なそうな顔してわたしに電話をかける杏寿郎に出てもどうしようもないって分かっているのに、手が出たがっていて…
震える手で通話ボタンを押したと同時、杏寿郎が耳からスマホを離した。冷たい機械音が鳴る耳元のスマホに、涙が溢れた。
人の行き交う駅前、杏寿郎の明るい髪がゆっくりと遠ざかって行く。今追えば話せるというのに、脚がまるで地面にくっついてしまったかのように離れなくて動けない。

やだ、行かないで杏寿郎…。
お願い、独りにしないでッ、

心の中では大声で叫んでいるのに、わたしの声は何一つ杏寿郎には届かない。
立ち止まっているわたしを、不思議そうに通り過ぎる人達。それでもわたしはしばらくの間、ここから動けずにいたんだ。






「ハル?…何してんの?」

5、6回電車を見送った頃、ゆき乃さんの声と顔にわたしの脚がパッと動いた。

「ゆき乃、さん…」

「まーた泣きそうな顔してる。最近泣き虫だねぇハルは。ね、大人の恋って辛いね…」

スッと腕を伸ばしたゆき乃さんは、俯いて涙を堪えるわたしの手を引いてシェアハウスまで連れて帰ってくれた。

残業をしていたのか、エルヴィンとのディナー帰りのわたしより遅いなんて珍しい。先にシャワーを浴びたわたしはゆき乃さんが冷蔵庫から出したクラッカーとチーズ、それからワインと共に今日の出来事を聞いてもらったんだ。

「電話…とれなくて。きっと杏寿郎の事だからちゃんとわたしに説明するとかなのかなぁって思うけど」

ソファーの上で正座してクラッカーを頬張る。ゆき乃さんは裂けるチーズを裂かずにかぶりつきながらゴロンとソファーに転がった。

「とりあえずエルヴィン部長にも抱かれなさい。んで七海課長とどっちがよかったか教えて!」

「…教えてどーすんの?」

「ゆき乃も抱かれる」

ブッ!!相変わらずのゆき乃節に思わず吹き出した。わたしが暗い空気を作ってしまっているのは分かるけれど、どうも性格上明るく振る舞えなくて。こーゆう時、ゆき乃さんの明るい性格はすごく羨ましいと思える。

「電話してみる?杏寿郎くんに」

「しない。…できない」

声なんて聞いたら一瞬で逢いたくなるし、逢わずにいられない。そんな自分が嫌。エルヴィンと七海さんを宙ぶらりんにしているのに、杏寿郎に逢いたいなんて、言えない。

言えないけど、逢いたい気持ちは消えてはくれない。

「ハルあのさ、こんな時に申し訳ないんだけどね。…あたし、プロポーズされたんだ」

なんとなくゆき乃さんが何かを抱えているんじゃないかと思っていた。というよりかは何か違和感があって。

「え、誰に!?」

「うん。実弥に」

不死川さん!!!!
ソファーの上、困惑した顔で微笑むゆき乃さんは、わたしなんかよりずっと泣きそうに見えた。