咄嗟に彼の話を聞く事もできずに逃げてしまったのは…
ーー鏡に映った自分の姿を見てうんざりした。
胸元のキスマークがこんなにもくっきり付いていたなんて。そしてこれを杏寿郎に見られてしまった時に、エルヴィンに抱かれた事を後悔している自分がいた。
それなのに口ではさらに追い討ちかけるように杏寿郎にあんな事を言って…
自分で望んだ事だったのに、一目杏寿郎に逢うと、その決意も何もかもが崩れてしまう。
今更取り返しのつかない事をしているのは自分なのに、
こんな無限ループいい加減終わりにしたいよ。
「ハル、大丈夫?」
リビングのソファーで蹲るわたしに、ゆき乃さんがそっと肩に触れた。朝帰りとキスマークを見て全てを理解したようなゆき乃さんに、また涙が溢れ出す。
「もうやだ、こんな自分。杏寿郎に見られちゃった、こんな最低なわたし…。ゆき乃さん、助けて…」
「ハルはさ、なにが一番辛いの?」
ギシッとソファーの隣、わたしの肩をギュッと抱いてそう聞かれた。脳内で考えているのはただ一つ。
「杏寿郎が…許嫁の事を呼び捨てにしてた。その声が頭から離れない…嫉妬で壊れそう…」
ずっとずっと耳に残っているその声。たった一言名前を呼んだ杏寿郎の声。それがすごく自然だったから。わたしを普段「ハル」って呼ぶように自然と許嫁の事も呼び捨てにしていたから、呼び慣れているんだって、そう思ったら嫉妬しかなくて。でもこんな小さな事で、こんなくだらない事で周りを巻き込んでいるわたしが一番嫌。その声をかき消す為に、結局は七海さんもエルヴィンも利用している。
頭の中には、こんなになってでも杏寿郎しかいないというのに。
「七海さんも、エルヴィンも、傷つけちゃう…」
誰も傷つかない恋があればそれに越したことはない。けれど、この恋の舞台に杏寿郎とわたしの他にも役者がいたのならば、誰かが傷つく事は
「杏寿郎の事が、諦められない…」
「たく、遅せェんだよ、てめぇは」
えっ!?
聞こえた声に顔をあげると、ソファーの目の前、不死川さんが面倒そうに座った。珈琲を淹れていたのか、3人分のコップをテーブルに置くと香ばしい香りが鼻をつく。
「不死川さん」
「そこまで分かってんなら覚悟決めろォ」
「え」
「週末BBQがある。煉獄も呼んだ。そこでちゃんと話せ。今度は逃げんなよ?」
ジロリと三白眼に睨まれて危うく怯みそうになるけど、ゆき乃さんがいるから殴られたりはしないだろうって。でもそれぐらい怖い顔でわたしを睨む不死川さんが淹れてくれた珈琲は、とんでもなく美味しかった。
「もう逃げないよ」