5月10日。
その日は杏寿郎の27歳の誕生日で、杏寿郎とサチの結納の日だった。
平日だった為、わたしは建人さんと会う約束をしていて。定時であがってそのまま建人さんとの待ち合わせ場所へと移動した。
「ハルさんお待たせしました。今夜はちょっと特別な日なので、お店を予約してあります」
優しくわたしを誘導する建人さん。特別な日ってなんだろうか…。
なんとなく頭に浮かんでしまうのは、プロポーズ。まさかね…
「七海様、お待ちしておりました」
ドラマ撮影でよく使われているお洒落なレストランだった。周りはみんな恋人達ばかりで、夜景の見える窓際の席に通された。
「なんだか、場違いじゃないですか?わたしの服装ドレスアップでもないのに」
至って普通なニットワンピだったからちょっと腰が引けてしまう。目の前の建人さんはそんなの気にしていないって顔で「お似合いですよその服。私にはとても素敵に見えてしまいますので」…トクンと胸が脈打った。
「ありがとうございます」
優しく微笑む建人さんに、胸が痛んだ。
その日運ばれてきた料理はフレンチのフルコースで、最初から最後まで美味しかった。だけど、いつまで経っても建人さんの口から何かを切り出される訳でもなく、このままプロポーズはないものかと思ったんだ。
でも…お店をでて駅に向かおうとしたわたしは、建人さんが着いてこない事に気づいて慌てて戻る。
建人さんは、スーツのジャケットの中から小さな黒い箱を取り出して、駆け寄ったわたしに向けてその箱をスッと差し出した。
「建人…さん…」
「藍沢ハルさん。私と結婚してください」
突然だった。お店の中で言われるもんだと思っていたのでまさかお店を出た所で言われるとは思ってもみなくて。動揺するわたしを見つめる建人さんの顔は不安色に染まっているのが分かる。
「…ごめんなさい建人さん。わたしの心にはやっぱり杏寿郎が居て、杏寿郎以外の人と結婚はできません」
「ですが杏寿郎さんは本日確か、結納ですよね?」
「…そうです」
「手に入らない男をずっと待ち続けるのですか?」
「はい。それでもわたしは、杏寿郎を好きでいたいんです。本当にごめんなさい…」
深く頭を下げるわたしに、建人さんは何故かフッと笑った。そして手中にあった黒い箱をパカッと開けたんだ。
「え、これ」
「中身は買えませんでした。きっと貴女は断るんだろうと思ったので。安心してください、先日のベッドもキャンセル済みですので」
「どう、して」
目の前の建人さんはそれでも穏やかで。わたしから一度目を逸らすと再びこちらに視線を向けた。
「貴女がBBQの後私と真剣に向き合ってくれていたのは分かりました。本当に嬉しかったです。だから貴女と一緒に居る時間が増えた事で、貴女の気持ちがとてもよく分かってしまったのです。先日カーラジオから流れていた曲…よく歌っていたのはハルさんではなく、杏寿郎さんですよね。そこで完全に分かってしまいました。貴女はその歌を聴く事が好きだったんだと。もう私の前で無理に笑顔を作らなくていいですよ。今までとても楽しく…何より幸せでした。もう十分です。…ハルさん、私と別れてください。私はハルさんが幸せである事が一番嬉しいので。…貴女を奪うなんて大口叩いたことはお許しくださいね」
よく分からなかった。ただ一つ分かるのは、わたしの諦めきれない女々しい杏寿郎への想いが、こんなにも優しい人を傷つけてしまったということ。
ポロリと零れ落ちる涙。建人さんは、伸ばした手を途中で止めて元の場所に戻した。
「もう貴女の涙を拭ってはあげられません。その涙は、杏寿郎さんの為に流してください」
トンと、背中を押される。
「どうか振り返らずに行ってください」
建人さんの声は震えている訳でも泣いていた訳でもなかった。でもその声はとても寂しげで、泣きそうになる心をぐっと堪えてわたしは一歩前に踏み出した。
杏寿郎の元へと続く一本道をゆっくりと歩き始めたんだ。