ゆき乃さんが若めの格好をして出て行った。こんな夜はたいてい帰ってこない。
17歳童貞とゆき乃さんがヤッちゃうのかは分からないけど…
「杏寿郎、泊まってく?」
「なぜだ?」
「たぶんゆき乃さん帰ってこない。久々に会ったんだし、話そうよ」
「だがしかし、俺たちはもう、子供ではないから、泊まるというのは遠慮するよ。ここから俺の家まではさほど遠くはないし、男だから遅くなっても大丈夫だ」
普通なら意識してるなんて思うのかもしれないけど、杏寿郎に限ってはそんな事ではない。そんなにわたしとひとつ屋根の下で過ごすのが嫌なの?
「…好きな人でもいるの?別にわたし達に間違いなんて起こらないでしょ、」
「そうだな。好きな人…と言って思い浮かべるのはただ一人…。まぁそれも俺にはかなわぬ恋だ。ハルは、いるのか?」
待って待って、好きな人いるんじゃん、杏寿郎!
いないと思って当たり前に聞いたけど、なんだ、いるんじゃん。な、なんだぁ…
「ハル?どうかしたか?」
「え?うううん。なんでもないよ。わたしは…いないよ。ほら今モテ期だし、2人ともわたしには勿体ないくらい素敵な人だから、どっちにしても、幸せになれるかなぁ〜って!ゆき乃さんも言ってたしね!」
わたしの言葉にニッコリと微笑んだ杏寿郎はスッと腕を伸ばすとわたしの短い髪を優しく撫でた。
「そうか、ハルには幸せでいて貰わなきゃ困るからな。何かあればいつでも助けになるぞ」
戻っていく手をどれ程掴んでしまいたいか、杏寿郎には分からないでしょうね。
その大きな手は、昔からわたしには向いてくれない。
大人になった今でも、その手に掴まって生きていきたいなんてわたしの願いは、きっと一生杏寿郎には届かないんだろうって。
そして、大人になると…この程度の失恋じゃ涙は出ないんだと。
◆
「遅くなってしまったな。すまないこんな時間まで」
玄関で革靴を履く杏寿郎の背中を見て小さく溜息を着く。結局あれから当たり障りのない話をして飲んだわたし達。それでも昔話に花が咲いて気づけば時計の針はてっぺんを超えていた。だから杏寿郎が慌てて立ち上がるなり、玄関へと急いだ。
キメツ学園の教師をしている杏寿郎は、シャツの上にベストを着ているのだけれど、珍しく気崩れていてシャツがペロンと出てしまっていた。だからそこに触れて「シャツ出てるよ〜もう、」白シャツをベストの中にしまおうと手をかけたら、物凄い勢いで振り返ったんだ。
吃驚してその場にペシャンって尻餅をつくわたしを、杏寿郎が倒れ込みながらも支える。
狭い玄関前で廊下側にわたしを押し倒してる状態の杏寿郎に、心拍数が上昇するのが分かった。
頬を掠める吐息はアルコール臭がして、見つめる先の杏寿郎がゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえる。
「杏寿郎…やっぱり帰らないで、」
「…ハル、」
「一人じゃ寂しいよ」
ギュッと首の後ろに腕を伸ばして抱きつく。冗談で腕に触れたりした事はあったけれど、こんな風に身体を密着させた事は生まれてこの方初めてで。杏寿郎の身体が想像よりずっと分厚くてオトコなのを感じた。ギュッと強く抱きつくと、「ハル…」杏寿郎の切なめな声が届いた。
ゆっくりと距離を作る杏寿郎。わたしの乱れた髪を手で直してくれる。そのまま顔を寄せる杏寿郎に目を閉じるとほんの一瞬唇に杏寿郎の温もりが重なった。
だけど次の瞬間、杏寿郎の顔は逸らされていてーー
「すまない、俺とした事が。…なかった事にしてくれ、」
なん、で?
口元を拭うように手で隠した杏寿郎は、そのままわたしに背を向けてドアの外に出て行った。
熱かった身体が一瞬で冷めていくようだった。