星に願いを

季節が春から夏に変わる少し前、世間一般では梅雨という時期に入った。ジメジメした空気とむさ苦しい暑さと、地面を濡らす大粒の雨。髪の毛はうねるし、洗濯物は外に出せないやらで、あまりこの梅雨が得意ではなかった。
朝から出勤するだけでどっと疲れてしまいそうになる。まだ始業開始のチャイムも鳴っていないというのに憂鬱な気分だった。

「おはようございます」

元気よく営業企画部へ向けた挨拶が飛び交う。視線の先には梅雨でも変わらずかっこいい煉獄先輩。雨に濡れたのか、スーツに水滴が着いていた。

「おはようございます煉獄先輩」
「川谷おはよう。随分早いな今日は」
「暑くて目が覚めちゃったんです。後ろちょっとだけ失礼しますね」

手にしていたハンカチタオルで煉獄先輩のスーツに着いた水滴を拭き取る。背伸びをしても身長差のある煉獄先輩からふわりといつものシャンプーの香りがした。

「すまない川谷、君のタオルが汚れてしまうからもう大丈夫だ」

申し訳なさそうに眉毛を下げる煉獄先輩は、正面に回った私の前髪にやんわりと触れた。でもそれは無意識だったのか、目が合ってニコリと微笑むと「ありがとうな」そう続けて次席へと歩いて行った。
私はといえば…超絶心臓が爆音を鳴らしている。なんなら身体中の全血液が頬に集まっているじゃないかってくらいに熱く火照っていて、今にも顔から火が吹き出そうなくらいドキドキしていた。手にしていたタオルすら燃えだすんじゃないかって…。でも実際はそんな事がなく煉獄先輩を拭いたタオルが私の手の中でジンジンと熱くなっている気がするだけだ。
自席でパソコンを立ち上げて資料を引き出しから出す、なんてことのない仕草なのにどうにも心臓の爆音が鳴り止まない。胸に手を当てて大きく息を吸い込んで深呼吸を繰り返すと、ほんの少し気持ちが追いついた。

「あの、煉獄先輩…」
「川谷?なんだ?」
「お願いがあるんですが、」

私を見下ろす大きな瞳がふわりと優しく細まった。





「あ、あった!これうちのですよね?」

片手にボトルを持ったまま振り返った私をクスリと笑う煉獄先輩。仕事終わりに連れて来て貰った。ここはうちで受注している商品が置いてある老舗の旅館だった。
今朝、煉獄先輩に商品が見てみたいと言ったらこうして仕事終わりに連れて来てくれたのだった。

「あぁ俺が企画したボトルだな」
「分かります。煉獄先輩っぽい明るい色」
「ははそうか!この老舗に置いてもらうのに何度か通った。時には泊まった事もあった。ここの露天風呂は気持ちがいいぞ、入っていくか?せっかくだから夕飯もいただこうじゃないか」
「私なんかが相手でご迷惑じゃないですか?」
「何を言ってるんだ。川谷みたいな女性と仕事とはいえこうして穏やかな時を過ごせるのは男として有難い」

屈託なく笑う煉獄先輩に、内心狡いなぁと思いながらも私の首は心のままに縦に頷いていた。

日々の疲れも吹き飛ぶだろう久しぶりの温泉に私はつい頬が緩む。少し温めな掛け流しの温泉に浸かって空を見上げる。子供の頃育った田舎の空とはだいぶ違うけれど、東京の端の方にあるここでも今夜は星が瞬いている。朝から降っていた大雨が嘘のように雲が切れて星が顔を出していた。夜風がサラサラと木々を揺らすとひんやりと肩が冷える。それでも足元からポカポカと身体が温かくなってくるのが分かった。
あーこのまま泊まって行きたい!なーんて。ポチャンと湯に触れて、柔らかなそれを肩に何度も掛け流したんだった。


「とてもいい湯でした!」
「ああ俺も日頃の疲れがとれたようだ」

ほんのり濡れ顔で頬の紅い煉獄先輩の姿が貴重すぎてスマホに収めたい気持ちを抑えて正面の座敷に座った。

「素敵な所ですね。ほんとに」
「そうだな。殺伐とした雑音もなく、心が穏やかになる。川谷も今度は殿方と泊まりでくればいい」

…またそんな事。悪気なく私を傷つける煉獄先輩をつい睨みつけた。だからか、えっ?と目を見開いて泳がせるも、私の不機嫌の訳には気づけずにいる。だから悔しくて…テーブルの上に置かれている煉獄先輩の腕にそっと触れた。

「川谷…」
「私、心に決めた人がいるんです。その人は仕事も一生懸命で常に前を向いていて自分の言葉に自信を持っている素敵な人ですが、恋愛に関しては物凄く疎くて極めつけは、鈍感。でもいんです今はそれで。私がいつかその人の隣に並んで釣り合えるように今は諸々努力の日々なんです。だからもう言わないでください…ね?」

キョトンとした顔だった煉獄先輩は、ほんのり眉毛を下げて「すまない、お節介を焼いて…ダメだな俺は、全く君の相手と同じく疎い…あ、いや、今のは無しだ。すまない…」ちょっとだけたじたじな煉獄先輩。いつもみたいな大声じゃないのが可愛くて私は首を横に振った。
勿論今ので彼に私の気持ちが伝わった訳では無い。けれど、好きな人がいるということを、知って欲しかった。
そしていつか、それは貴方だよと、伝えられる日がくるといい…そう思って私はニッコリと微笑んだ。