罪な人

「ごめんね、体調が悪くて…うん、わたしの事は気にせず楽しんでね」

受話器を置いた瞬間、安堵と疲れから重たい溜め息が漏れた。ゆき乃がいるであろう時間に総務受付の事務室へと内線をして今日の定例会には行けないと伝えたところだった。
いつものグループLINEにそれを入れればいいこと。だけどそれが出来なかった。弱い自分が嫌になる。それでもじわじわと小さな穴から滲み出てくる黒いものを抑えるにはこれしか無かった。

きっと無心になって仕事をしていたのだろう。気づけばオフィスに人は居らず定時を回っていた。そういえば今日は出張組が多かったんだ。わたしも切り上げて帰ろう。
パソコンの電源を切って立ち上がる。その瞬間、フロアの入口に人影を見た気がするけれど、わたしの視界はまるで左右から幕が降りたかのように、暗い闇に包まれた。





瞼が自然と上がり、まず最初に目に入ったのはわたしを見下ろす赤い双眼だった。それが煉獄さんのもので、わたしが彼に膝枕をされているというのを理解するのにかなりの時間がかかったと思う。
一度に溢れ押し寄せる様々な感情。それを処理しきれずに唇を金魚のようにぱくぱくと動かすだけのわたしに、煉獄さんは柔らかな笑顔を向けた。

「そのままでいい。気分はどうだ?床に倒れる前に支えたから頭は打っていないと思うが…」

煉獄さんの話によるとわたしは立ち上がった拍子に崩れるように意識を失ったらしい。原因は明白だった。極度の寝不足な上に、食事もろくに摂っていなかったからだ。
迷惑を掛けてしまった申し訳なさと不甲斐なさに今すぐ身を隠したい思いなのに、煉獄さんがわたしを介抱してくれて膝枕までしてわたしの目が覚めるのを待っていてくれたのかと思うと、奥へ奥へと押しやった感情が溢れてくる。
どうしてここまでしてくれるのだろう。この優しさが下心のない純粋なものだとしたら、この人は本当に罪な人だと思う。愛莉がいながらわたしにその温もりを与えるなんて狡い人だと思う。

「…っ、ふ……」
「どうしたんだ、苦しいのか?!」

わたしがどうして泣いているのかなんて、煉獄さんは気づかないだろう。上体を起こし涙を流すわたしの背中を摩っている。まるでわたしの冷えきった心を溶かすかのように動く、温かく優しいその手。わたしの大好きな手。

「煉獄さん…っ」
「なんだ?」
「助けて、ください…」
「もちろんだ。どこが痛む、」

煉獄さんの言葉はそれ以上聞けなかった。わたしがそれを奪ったからだ。向きを変え煉獄さんの両肩に手を添えて、その唇を塞いだ。
触れ合ってすぐ、煉獄さんがわたしの両腕を掴み身体を離す。当たり前だろう。意中でない相手から突然キスをされて驚かない人間なんていない。

「藍沢さん、何故…」
「何故って…煉獄さんの事が好きだからに決まってるじゃないですか!」

こんな事するつもりはなかった。想いも伝えるつもりもなかった。それなのに気づいたら身体が勝手に動いていた。溢れる想いを抑えられなかった。
荷物を手に持ち、走って逃げるようにフロアを出る。呆気に取られていた煉獄さんはわたしを追ってくることはなかった。

「ごめ……っ、ごめんね愛莉…」

脳裏に浮かんだ愛莉の顔に後悔が押し寄せる。
好きな人とのキスがこんなにも嬉しくないなんて。誰かを好きになる事がこんなにも苦しいものだなんて、知りたくなかった。