煉獄さんの言いたいことは分かった。手を出さないと言いたかったのだろう。煉獄さんなら当然そう言うだろうしそんな事は期待していない。だけどこういう場所に来て、もし少しでも気があるなら…と思ってしまうのは間違っているだろうか。ハッキリと否定されてしまうのが怖くてわたしは彼の言葉を遮ったのだ。
「先にシャワーを浴びるといい。俺はあのソファに座って背を向けているから…気にせず入ってくれ」
ガラス張りになっている浴室は見ようと思えばそのシルエットが分かってしまう造りだった。チープなだけあって随所に厭らしいなと思う。煉獄さんはやっぱり律儀というか紳士的というか。そんな彼だからこそ惹かれたのだけど。
先にシャワーを浴びたわたしは備え付けのバスローブに身を包んだ。高級なホテルにあるようなものではなく、肌触りも良くない安物の羽織だ。
濡れた服をタオルに挟んで水気を取りながら脱衣場を出ると、煉獄さんはちゃんと背を向けてわたしを待っていた。濡れている髪は先にタオルで拭けばいいのにそのままだった。音のない笑いを含んだ吐息が零れた。
わたしは煉獄さん用のタオルも手に持ち、それを頭にふわりと掛ける。わたしの存在に気づいていなかったのかびくりと肩を震わせ、上擦った声で「上がったか」と小さく呟いた。
「お待たせしました。髪の毛、拭かないと…煉獄さんこそ風邪引きますよ」
「そうだな、忘れていた」
頭に掛かったままのタオル越しに煉獄さんの大きな瞳が見え、それがわたしを捉えていたことに心臓が大きく跳ねた。甘さを含んだその鼓動は全身へと広がり、わたしの自由を奪っていく。まるで囚われたみたいに動けずにいると、「では俺も入ってくる」と漸くその視線を解放した。
煉獄さんを待つ間、心臓が口から出てしまうのではないかと思う程に動悸がしてした。何かが起こる予感がするからじゃない。あれだけ痛く苦しいと悲鳴を上げていたわたしの心が、それを伴いながらも彼を好きだと知らせるようにわたしを叩き起してくるからだ。煉獄さんを好きで好きで仕方ないと叫んでいる。
「すまないな、そんな事までさせて」
「いいですよ。シワになると困りますし…わたしの服はもう終わったので」
「そういえば浴室にあったシャンプーが自社製品のものだったの、気づいたか?」
「え、そうなんですか?!緊張してて全然見てなかったですけど…こんな場所にも置いてるんですねぇ」
「俺も知らなかった」
「まだまだ勉強不足ですね、お互い」
口許を緩ませ合いながら弾む会話に安堵する。わたしが煉獄さんのスーツをハンガーに掛け終えると、どちらともなく唾を飲み込むような音が聞こえた。
「明日は始発で帰るから、今日はもう寝よう」
煉獄さんの言葉に頷いてわたし達は大きなベッドへと上がり一つの布団に包まった。自然と背中合わせになる。姿が見えなくても、静かになると分かる吐息や布擦れの音が正常な思考を邪魔してくるようだった。
「明日は一旦帰るんですか?わたしは七海部長から午後からでいいと言ってもらえたんですが」
「そうだな、時間次第だが俺はそのまま出社すると思う。同じスーツで困ることは無いし、明日は取引先に出向く予定もないからな」
煉獄さんの静かな声が心地よかった。日常会話でさえ胸が震え、そこに煉獄さんがいるって思うだけで背中が熱くなっていく。
今ならちゃんと話せるかもしれない。冷静とはかけ離れているかもしれないけど、取り乱してしまうことはない。顔が見えない分、自分の気持ちと向き合えそうだった。
「煉獄さん」
「なんだ?」
「そのまま聞いてください。……その…愛莉とは付き合っているんですよね。それなのにこの前はあんな事して、」
「ちょっと待ってくれ…川谷のことか?川谷と俺が付き合ってる?」
「違うんですか?だってこの前…エレベーター降りてから、キス…してましたよね?」
わたしの困惑した声に、布擦れの音が大きく動いたのが分かった。煉獄さんがこちらを向いたのかもしれない。だけどわたしは背中を向けたまま動かなかった。
「君がもし俺達とエレベーターで会ったあの日のことを言っているなら、それは君の見間違いだ。川谷とは何も無い…そういう関係ではない」
「そう、なんですね…」
思ってもみない返答に無意識に身体が動いた。少しだけ回転させてみれば、やっぱり煉獄さんはこっちを向いていて、当たり前に視線が絡み合う。早鐘を打ち始めるわたしの心音が、部屋中に木霊しているみたいだった。
薄暗い部屋で広いベッドで一緒に横なって向き合っている。この状況がわたしの思考を鈍らせていく。
「煉獄さんが好きです。……キス、してください」
緊張で唇が震えた。わたしを射抜いていた瞳が大きく見開き、少しだけ唇が動く。だけど言葉を発せられることはなく、微かに吐息だけが聞こえた。
煉獄さんの反応が怖くなって思わず目をぎゅっと閉じた。恥ずかしさで更に顔が熱くなる。
「藍沢さん…」
また布擦れの音が聞こえたと思った瞬間、わたしの名前を囁いた煉獄さんの声が近くに感じられた。
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