堕ちた瞬間

週の明けた月曜日。始業時間よりも早めに出社したわたしは、デザイン制作部がある3階の会議室のブラインドを降ろしていた。
少しだけ窓を開けると心地よい風が入ってきて頬を撫でる。また朝の冷たい空気に、気持ちが落ち着く感じがした。

「藍沢さん、始業前にわざわざ時間を作ってもらってすまないな」

突然背後に聞こえた声に心臓が大きく跳ねる。それが単に驚きからだけではないという事を、わたしは薄々感じていた。

「おはようございます、煉獄さん」
「うむ、おはよう。今日はいい天気だな!」
「コーヒー飲みますか?入れてきますね」

ブラインドの隙間から入った日差しに照らさてた煉獄さんを直視できず、わたしは少し逃げるように給湯室へと向かった。

彼は、営業企画部の煉獄杏寿郎。ゆき乃の恋人でもあるリヴァイ部長の補佐をしていて、営業企画部のかなめであると、彼の下で働く愛莉から聞いていた。
デザイン制作部に入って5年目。漸くいちから仕事を任せて貰えるようになり、不安のある中で最初に入ってきた仕事が、煉獄さんが持ち込んだ期間限定の新商品フレーバーのシャンプーボトルのデザインだった。
商品ができるまでの全体の流れを勉強させてもらいながらと言うこともあり、会議も通常よりも多く行っている。今日は定例の木曜日の会議ではなく、クライアントからの要望を伝えるために急遽朝からミーティングをすることになったのだった。

「はい、コーヒーです」
「俺の都合でこんな時間になって申し訳ない」
「いいですよ、全然!むしろこの時間は人が少ないし電車も空いてて良かったです」
「そう言って貰えて良かった」

胸を撫で下ろしたように微笑む煉獄さんに、わたしの心が甘く震える。それに気づいたのがいつ頃だったかは定かではないけど、気づいたら彼との会議を待ちわびていたし、会話をする度に自分では驚く程に顔が緩んでいた。

「先方が香りの色をもう少し吟味したいと…」

広い会議室ではあるものの、二人しかいないため自然と距離が近くなる。煉獄さんが提示した資料をよく見ようと顔を近づけた。ふわりと香った彼の香りに、心臓がきゅっと縮まる。不意に視線を上げれば、雄々しい眉をもつ大きな瞳と至近距離で目が合った。かぁっと顔に熱が集中していく。

「す、すみません!近かったですよね…そうだ、眼鏡掛けるの忘れてた。あれ、眼鏡…」
「君の胸元に掛かっているぞ」
「あ…」
「そそっかしいな、藍沢さんは」

すみません、と平謝りしながらシャツに引っ掛けていた眼鏡を掛ける。視力は少し悪いだけなので無くても見えるが、パソコンをしたり資料を見る時は眼鏡を使っているのだ。
恥ずかしさで顔が熱くなり手で扇いで誤魔化しながら話題を変えようと考え無しに口から言葉が零れる。

「煉獄さんは自社のシャンプー使ってるのですか?」
「うむ、分かるか。この前社内配布していた試作品だが、少し男には匂いが強いようにも思うがどうだろうか」
「やっぱり!匂いの強さですか…うーん、確かにちょっと強いのかな、」

完全に無意識だった。製品の意見を伝えるためだったが意見を求められて調子に乗ったのかもしれない。気づいたらその柔らかな金糸に顔を寄せていた。鼻を啜った瞬間に我に返り、勢いよく彼から離れた。その拍子にキャスター付きの椅子から転げ落ちたのは言うまでもない。

「ごめんなさい、わたしってば……気持ち悪いことを、」
「いや、ちょっと驚きはしたが…大丈夫だ。君こそ大丈夫か?」

嫌な顔をせずにわたしに手を差し伸べてくれる煉獄さんの顔は少しだけ赤かった。今すぐ逃げ出したい気持ちと彼に触れてみたい気持ちがぶつかり合って…

「…ありがとうございます」

わたしはその大きな手を掴んだ。煉獄さんの温もりを今日知ってしまった。