耳に届くシャワーの音をかき消そうとすればする程、鼓膜を支配していくかのようにその音が鮮明になっていく。それと同時に俺の心臓は激しく脈打ち始めた。別のことを考えようにも、背後でシャワーを浴びている藍沢さんのシルエットが、見ていないのに瞼の奥に浮かんでしまう。
山梨まで来て足止めを食らった。周りにビジネスホテルがなく致し方ないとはいえ、ラブホテルに男女で入るという事に戸惑いがあった。これがビジネスホテルで一室しかないという状況ならまだ良かったのかもしれない。安いラブホテルという、官能的な空間が俺の意思に反して彼女を意識させた。
どれくらいそうしていたのだろう。頭にタオルが乗せられ、彼女が戻ってきた事にそれまで気づかなかった自分に驚いた。見上げた先にいた彼女が俺を見て、「風邪引いちゃいますよ」とふわりと笑う。その笑顔に胸の奥が熱くなった。誤魔化しきれない動揺を抱えたまま、その熱を鎮めるために冷たいシャワーを頭上から浴びた。
冷えた身体で戻ると、彼女が俺のスーツを乾かしてくれていた。先程とは少し違う、ほわんとした温かな感情が湧き上がる。
気持ちが少し落ち着いたからだろうか。自社製品が浴室にあった事を思い出し伝えると、ぎこちなかった会話がいつものように戻った。
ただ、いざ同じベッドで眠るとなるとまた甘い緊張が走った。本来ならば、冷静になって彼女と話がしたかった。あの日、彼女からキスをされて言われた言葉がずっと脳裏から離れなかったからだ。至って普通にしてくれてはいるが、今回のトラブルがなければ恐らく視線さえ合わなかったかもしれない。
「煉獄さん」
背中越しの会話が一旦途切れたかと思うと、改めて彼女が俺を呼んだ。なんとなく空気が張り詰め、気づかれないように息を飲んだ。
「そのまま聞いてください。……その…愛莉とは付き合っているんですよね。それなのにこの前はあんな事して、」
「ちょっと待ってくれ…川谷のことか?川谷と俺が付き合ってる?」
「違うんですか?だってこの前…エレベーター降りてから、キス…してましたよね?」
考えていた事とは違う、予想外の言葉を述べられて困惑し、咄嗟に身体が動いた。彼女の言っている日の出来事を思い出すまでもなくそんな事実はないと言い切れる。一体どうしてそんな勘違いをしてしまったのか。理由は分からないにしても、彼女がどうしてあの日、涙を流して想いを伝えてきたのかが漸く分かったように思えた。
「君がもし俺達とエレベーターで会ったあの日のことを言っているなら、それは君の見間違いだ。川谷とは何も無い…そういう関係ではない」
実際、川谷との関係に特別なものなどなかった。同じ部署の後輩であり、ジムで会えば一緒に汗を流す。それだけだった。ただ、自分の感情が揺れ動いているのは自覚していた。関係はなくても、自分の気持ちを言い切れない自分が情けない。だけど、藍沢さんには勘違いをして欲しくなかった。
見つめていた彼女の背中が動き、視線が交わる。潤んだその瞳から目が離せなかった。微かに紅潮する彼女の顔に、鼓動が加速していく。
「煉獄さんが好きです。……キス、してください」
薄ピンクの唇から紡がれた想い。言わずとも伝わる彼女の緊張が俺に否応なしに伝染していく。
俺が何かを伝える前にぎゅっと強く閉じられた瞼。緊張しながらも勇気を出して伝えてくれたその想いが嬉しくて温かくて愛おしいと思った。
「藍沢さん…」
彼女の名前を呼んで空いていたその距離を詰める。眉根を寄せ強張る表情を和らげてほしくて、緊張が走っている頬に自分の手を添えた。
ゆっくりと開く瞼。眼鏡を外した素のままの表情で俺を見つめ上げる。
きっとこの空間と緊張が俺の思考を奪っていたのかもしれない。彼女に見つめられて心を掴まれたのかもしれない。脳裏に浮かんだ上司の言葉。試すようなことはダメだと分かりながらも近づく顔を止められなかった。
彼女の顎を持ち上げを顔を寄せる。お互いの吐息を感じる程の距離になり、あと少しでその唇に触れるという時――
「待って!待ってください……」
――彼女が下を向き、俺の身体を押し返した。