下を向いた彼女から、俺と同じシャンプーの香りがした。ドクドクと心臓が早鐘を打ち、いま自分がしようとしていた行為を認識し顔に熱が宿る。
俺の胸板を押し返す彼女の力は弱々しい。微かに素肌に触れた指先が蕩けそうな程に熱かった。
「やっぱりできない……気持ちのないキスなんて虚しいだけだって、もう知ってるから!わたしは煉獄さんの愛が欲しいです」
「藍沢さん…」
「分かってます。煉獄さんは愛莉のこと気にしてるでしょう?見てたから分かります…だから、少しでもわたし以外の人が心にいるなら、キスなんて…しないで」
自分の不甲斐なさに嫌気が刺す。涙を浮かべるも一粒も流さずに想いを伝える彼女を強いと思った。女性からそのように言われてしまうなんて。いや、言わせてしまったのはこの俺だ。
「すまない…君の言う通り、今ここでハッキリと気持ちを伝えることができない。嘘はつきたくない。それなのに、君に不誠実な態度を取ってしまう所だった」
「いえ、わたしから言い出したことですから。それに、わたしもちゃんと愛莉と話をしたい。逃げてたんですわたし…でも、愛莉ともずっと友達でいたいから」
「不甲斐ない俺を、見損なっただろうか?」
無意識に襲われた不安が口を割って出た。そんな事言うつもりなんてなかった。虫のいい話をしているのは分かっている。それでももう少し彼女の想いに触れていたかった。
「…そんな顔、狡いです」
「どんな顔をしているのか、自分では分からん」
「ねぇ煉獄さん。煉獄さんがどんな答えを出してもわたしはそれを受け入れます。だから…わたしから言った我儘だと思って、一度だけ、抱きしめてくれませんか?」
「しかし、」
「もしかしたら……最後かもしれないから」
小さく呟かれた最後の言葉が俺の耳に届いた刹那、何も答えず俺はその手を伸ばした。
こんな事が優しさだとは思わない。むしろ彼女を辛くさせてしまう結果になるのかもしれない。そうと分かってはいても、この温もりを抱きしめずにはいられなかった。
◇
「煉獄さん、お疲れ様です!」
藍沢さんとの定例会議がある木曜日。あの日から顔を合わせていなかった為少しばかり緊張していた俺に、彼女は花が咲いているかのような笑顔を向けた。
別れ際に見せた、無理をして笑う儚げな表情から一転している。吹っ切れたようなその表情に、心臓が激しく脈を打ち始めた。そこに昨晩の川谷との出来事から来る動揺だけでなく、別の理由が含まれていると気づいたのは、彼女が以前のように距離を詰めて俺の隣に座ったからだろうか。
「今日でこの会議も終わりですね。あとはデータ入稿して商品が出来上がるのを待つだけですから」
「あぁ、そうだな」
「わたしね、煉獄さんと一緒に仕事が出来て嬉しかったです!初めて深く携われた仕事だからってだけじゃなくて…きっと一生忘れないと思います」
「一生だなんて、大袈裟だな」
俺の言葉に、藍沢さんは眉を下げて笑う。彼女とはこの先も別の案件で一緒になるかもしれない。それなのに今生の別れのようなそんな気さえ起こってしまった。
「煉獄さん…ありがとうございました」
差し伸べられた手。華奢なその白い手を掴むと、彼女は嬉しそうに笑った。
自分の気持ちがどこにあるのか。どうしたいのか。その手が教えてくれたような気がした。