淡い期待を胸に抱いて

わたしの変態まがいの発言からも、煉獄さんは普通に接してくれた。会議の日以外にも仕事が推していて残業していると分かれば、1階のカフェで差し入れを仕入れてくれて…むしろ前よりも少し距離が縮まっているような気がするのは、きっとこの状況に舞い上がっているからだろう。
これが恋だというのは、もう30年も生きていれば流石に分かる。ただこんなにも心臓が跳ねる事が久しぶりで、尚且つ例え恋人がいた時でもそう経験することのない程の甘い心音だった。
彼の存在が気になることは認めよう。ただこれが本当に恋なのか、簡単に「好きな人が出来た」と両手を上げて喜べるほど若くないわたしには、まだ自分一人の心にこの想いを留めるしかなかった。

デザインの仕事に答えはない。納品してクライアントに気に入ってもらえて初めて良かったのだと実感ができる。だからこそ、自分で納得のいくものを作るまで時間が掛かってしまう。
煉獄さんとの仕事以外でも抱えている案件があり、定時を過ぎた後もオフィスに残っていた。
今日は午前中に煉獄さんとの定例会議があり、心が若干浮ついていた。その所為で他の仕事に身が入らずに残業なんて、社会人としては失格だろう。それでも、このくすぐったいこの感情が少しだけ心地よかった。

「やはり、まだ残っていたのか」

知った声にパソコンから視線を上げた。扉の近くで揺れる金糸に胸がとくんと大きく跳ねた。わたしではないかもしれない、と辺りを見回すも、知らない内に居残って仕事をしているのが自分だけだったのだと気づく。

「お疲れさまです、煉獄さん」
「先程帰ろうとしたら藍沢さんが根詰こんつめているようだと同期の村田から聞いてな。無理してないか?」

村田さんは同じ制作部の先輩だ。その時初めて煉獄さんと同期だということを知った。意外と周りを見てくれていたのか。あまり目立つ人じゃないけど。

「無理はしてないです…納得できるまでと思っていたらなかなか落とし所が見つからなくて」
「どれ、ちょっと見せてくれ」

わたしの元にやってきた煉獄さんが、椅子に座るわたしの背後に立ちディスプレイを覗き込む。伸ばされた腕がデスクに置かれ、まるで後ろから抱きしめられてるような錯覚に陥る。煉獄さんの温もりがわたしを包み込んでくれているようだった。

「なるほど、凄いな藍沢さんは。参考になるかは分からないが、俺はこの右側のデザインの方が好きだな」
「…好き、ですか」
「あぁ、シンプルながらも目立っている」
「ありがとうございます…参考にします」

胸がドキドキして煩くて、うまく言葉が出てこない。この心音が彼の耳に届いてしまわないかと不安になる。

「もう遅い。キリが着いたら帰るとしよう」
「はい…お疲れさまでした」
「家はどの辺なんだ?」
「…え?」

てっきり煉獄さんはもう帰るのかと思って返事をしたのだけど、話が噛み合わない。疑問が顔に出ていたのだろう。煉獄さんが笑いながらわたしの肩に触れた。

「遅いから送ると言っているんだ。こんな時間に女性ひとりで帰すわけにはいかないからな」

女性扱いされて嬉しくない人はいないだろう。生物学的に女だからと言っているだけで深い意味はないのだと頭で言い聞かせてはいても、微かに期待が過ぎってしまう。女として彼の目に映ってくれていらいいなと。
煉獄さんはわたしを優しくエスコートしながら最寄り駅まで送ってくれた。目が合うと顔が熱くなり、腕が触れそうになると心臓が掴まれたみたいにきゅっと締まった。
ずっと胸が鳴りっぱなしで、甘い痛みがわたしの思考を麻痺させていくみたいだった。