存分に私を愛してくれた悟は、私がつけたキスマークを見て嬉しそうに笑うんだ。そんな姿を見ていると勘違いしたくなる。悟はもしかして、本気で私を愛しているんじゃないかって。
「名前、名前!!ちょっと聞いてる?」
「へ?ごめん、ごめん、なんだっけ?」
週明けは月曜日から雨が続いていた。
雨はあまり好きじゃない。気圧の変化で頭痛はするし、お洒落して巻いた髪も湿気でボロボロ。パステルカラーのスカートだってしなびれてしまう。おまけに可愛いらしい花の飾りのついたパンプスも雨でびしょ濡れ。そんなのは御免だ。
とはいえ、天候が人間に変えられる訳もなく、憂鬱な雨をボーッと見ていたら同じ受付の黒河内さんこと黒ちゃんに名前を呼ばれた。
お洒落女子な黒ちゃんは歳も同じで滅法気があった。仕事終わりにはよく2人でお洒落なカフェを散策したりする同期である。
「あの人、イケメンじゃない?」
コソコソと小声でそう言う黒ちゃんの視線の先、長身のスーツ男が雨に濡れたスーツやら鞄やらをグレーのハンカチで拭いていた。銀縁の眼鏡と七三分けの髪。今時七三分けはないだろ〜なんて思うものの良く似合っている。
諸々拭き終えた彼が私たちのいる受付まで歩いてくると、黒ちゃんがスッと立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
45度の綺麗なお辞儀とキャピッていない大人ボイス。スタイルのいい黒ちゃんのお辞儀はピカイチだと思う。それを横目に私もスッと同じようにお辞儀をすると、彼と目が合った。
「15時に社長とお約束している七海と申します」
…七海?時間がスローモーションの様だった。無意識で脳内再生される甘酸っぱい思い出…ーー懐かしい記憶に私はカッと目を見開いた。
「建人っ!?」
素っ頓狂な声をあげる私を見てニッコリと微笑んだ彼は、続けてこう言った。
「やっぱり名前だったか。久しぶり」
トクンと胸が脈打つ。これは、初恋のトキメキとよく似ていて…目の前にいる初恋の相手。私の全てを捧げた初彼の建人にドクンと心臓が大きく高鳴ったんだ。
「知り合いだったの?」
黒ちゃんにゆさゆさと腕を掴まれて小声で聞かれる。もう建人は社長の所へ行ってしまったものの、まだ胸がザワついていた。
「あーうん、高校の同級生だった」
「もしかして、元カレ!?」
鋭い指摘に苦笑い。隠した所で何って事でもないから素直に頷くと、黒ちゃんが大きく溜息をついた。それから肩につくかつかないか程度のふわ髪をサラりと手でなぞると「なるほど」と一言。
「え?なに?」
「名前を見て一瞬固まったように見えたから。いいなぁあんなイケメンが元カレなんて」
…固まったの建人?
吃驚しただけなんだろうけど、私だってそれは同じで。頭の中に強烈に流れ込んでくる建人との思い出が無駄に身体を熱くした。
◆
その後は建人に会うことはなかった。
今日はやたらとお客が多くて受付もわりとひっきりなしに動いていた。
定時を回ってロッカーで制服から私服に着替える。普段なら地下鉄直通出口に真っ先に行くのだろうけど、今日は別館の総務部に書類を一つ渡しに行く用があった為、仕方なく傘を指して正面の社用出口から一歩外に出た。
雨はまだ止んでおらず秒で憂鬱な気分になった。
「名前」
…え?聞き覚えのある低音に振り返ると、黒い傘を指した「建人、どうして…」私を待っていたと言うのだろうか?建人が私の横に歩いて来た。
「何時に終わるか分からなかったから待たせて貰った。すまない、こんなストーカー紛いの事」
「いいけど…ずっと待ってたの?」
「社長との打ち合わせは一時間程度だったから」
腕に光るロレックスの時計を見て「小一時間程度だ」なんて言うんだ。
「受付で声掛けてくれればよかったのに」
建人は私の言葉にほんのり顔を逸らして「プライベートだから…」照れくさそうに呟くなんて。
こっちまでドキドキしちゃうんだけど…。