精一杯のお願いごと

スマートフォンに届く杏寿郎からのLINEのメッセージを見つめて小さく溜息を零す。どの面下げて杏寿郎に会おうというのか。
あの日以来彼の自宅に行っていなかった。行ったところで杏寿郎の優しさに甘えるだけで、結局私はまた杏寿郎を傷つけてしまうんだと思えた。それは今もこの胸の奥底にあって消えてくれない不死川主任への気持ちがあるからだと。あんなに傷ついたというのにどうして消えてくれないのだろう…

「一ノ瀬ちょっと」

先日の甘露寺さんと行った児童書の編集に使う保育園の子供たちの写真をカチカチと眺めていた私は、部長室から私を呼ぶ悲鳴嶼さんの声に立ち上がる。
なんだろう…
不死川主任の席を通る時は相変わらず反対側を向いて小走りで通り過ぎる。そんな私をholiday編集部の人達は心配そうに見ているなんて知らずに。

「失礼します」

ドアを閉めると悲鳴嶼部長はちょっとだけ眉毛を下げて私を見つめた。ドクンと胸が一つ音を立てた。

「急遽人事異動の話が一件入ってきてな。児童書編集部でどうしても飽きが出てしまって手一杯だそうだ。もし一ノ瀬の気持ちが固まっているなら押してあげる事もできる。それに、あちらは一ノ瀬を指名してきている。先日の取材でお気に召した様だ」

頭に浮かぶ甘露寺さんの顔にドクンとまた一つ心臓が脈打つ。これを受けたら私はもう不死川主任の部下では無くなる。本当にいいの?

「…あの、」

言葉が出てこない。あんなに自分で望んでいたはずなのに、いざそれが目の前に来たら手を伸ばして掴む事すらできずにいる。

「すみません、」

気づくと俯いていた頬に涙が零れ落ちていた。慌ててそれを手の甲で拭うけどまたすぐに新しい涙が頬を伝う。止まらなくて、こんな時に。
静かに席を立った悲鳴嶼部長が私の前に来てそっと肩に触れた。

「不死川と話したらどうだ、一ノ瀬。そんな気持ちではここにいても仕事どころではないだろう。他のみんなもお前たちを心配している事に気づいてないだろう。いつも仲が良かった2人が言葉を交わさなくなるだけで周りは心配する。…胸に突っ変えている気持ちは、吐き出さない事にはいつまでたっても何も変わらない。一ノ瀬が言いづらいのなら、俺から不死川に話す時間を作るように指示しようか?」
「いえ、すみません。プライベートの事を仕事に持ち込む私が未熟なんです。不死川主任とは自分で時間を作って話します。異動のお話、受けます。私でよければ児童書編集部に行かせてください」
「…そうか。分かった。それで先方に話をつけておく。本当にいいのだな?」

悲鳴嶼部長の言葉にコクリと頷くと私は堪えきれない涙をまた手で拭って一礼すると、そのまま編集部を出て女子トイレへと直行した。運良く誰もいなくて、個室に座ってポケットに入っていたハンカチタオルを顔に乱暴に押し付ける。
馬鹿みたい、もうどれ程泣いた所で現状は何も変わらないのに。不死川主任には愛莉がいる。あの二人が別れるなんて事はないだろうし、別れたとしても不死川主任が私を見てくれるなんて事は一ミリもない。
もう叶わない恋なのに、それでも忘れられなくて、前に進むこともできずに、留まっているだけでこんなにも苦しい。せめて、ちゃんと失恋できていたのなら、こんなにも引きづらずにいれたのだろうか…。
とめどなく零れ落ちる涙が落ち着く頃にはもう一時間も経っていたなんてーー


とぼとぼとholiday編集部に戻るとデスクに付箋が貼ってあるのを見つける。手書きで書かれた雑で下手くそな字で【資料室に来い】って一言。名前すら書いてないそのメモが誰からかなんて直ぐに分かった。
でも絶対に行くもんかとその付箋を取ると私はクシャッと丸めてゴミ箱に投げ込む。用があるならそっちから来い!ってんだ。こんな事で意地張っても何も変わらないけれど、素直になれない自分が馬鹿だと分かっていてもどうにも変えられずにいた。
その日は一日不死川主任を避けた。悲鳴嶼部長には自分で話す時間を作りますなんて大見得張ったというのにその心に反してどうしても不死川主任と話す気になどなれずにいた。

そして、嫌な事はこうも重なるもんだという事も…

「ほらあの子じゃない?」
「ほんとだ、あの子だ。堪んないよね、人のもんばっか手出すなんて」
「私も彼氏取られないように気をつけなきゃ」

なんだろう。すごくすごく視線が痛い。そして嫌な視線と共にそんな言葉を浴びせられる。え、私に言ってんの?はぁ?人の男なんて興味ねぇし。
カフェの一角。いつもの様にミルクティーを待っていた私の後ろから聞こえてきたヒソヒソ声に振り返るとくるりと向きを変えて逃げるようにカフェを出て行く何処ぞの女たち。
なんなの?と、苛つく気持ちでミルクティーを受け取った所でハルが私を見つけて駆け寄ってきた。

「ゆき乃!!ちょっとこっち来て」

腕を取られてカフェの奥のカウンター席の端っこに連れてこられてそこに2人で座った。
困った様に眉毛を下げていたハルが私を見て泣きそうな顔で言った。

「変な噂が広まってる。ゆき乃が誰とでも寝る女って。人の男に手を出す最低なヤツ…だと。他の誰かの口から耳に入る前にって探してたよ、こんなの酷い。許せない…」

唇をギュッと噛み締めて私の腕を握るハル。

「なんだそれ、笑える」
「笑えないよっ!!侮辱罪だよっ、犯罪だよっ!!わたし達の大事なゆき乃を悪く言う奴なんて絶対許さない!!わたしが捕まえるから!!ゆき乃の事何も知らないくせに」

怒りながらも泣き出しそうなハルに私は微笑む。
なんだかよく分からないけど、誰かに嫌われているらしい。特段身に覚えはないけれど、人に嫌われてしまうのはちょっと悲しいよね。
ギュッと腕を掴んだまま離さないハルにコツっと頭突きをすると、「い、痛い…」ハルが涙目で手を離しておデコを押さえた。

「ありがとう、教えてくれて。なんかよく分からないけど私は気にしてないよ」
「でも、」
「ハルが分かっててくれればそれで大丈夫よ」

そう言うとブワッとハルの目から涙がこぼれ落ちる。うっ、て嗚咽を堪えてハルは俯く。

「…不死川さんの事は、大丈夫?」

あぁそうだ。この前アイスにも言われていた、ハルも心配していると。

「ゆき乃は自分の事あんまり話してくれないから、不死川さんの事が好きだってわたし達に教えてくれた時はすごく嬉しかったの。だから頑張って欲しいって思ってた。でも、…辛いよね」

昔から恋愛で泣くなんて馬鹿馬鹿しいって思ってきた。誰かに依存するのは好きじゃない。でも…不死川主任を好きになってからは泣いてばかりになってしまった。
また止まっていた涙が溢れてくる。そしてハルの前で我慢する事はないんだと、ハルの瞳が言ってくれている。全部吐き出していいのだと。

「ハルあのね、私…杏寿郎とできなくて」
「え!?」
「…セックス。どうしてもできないの…。不死川主任の事まだ全然好きなの。どうしても不死川主任の顔がチラついて、杏寿郎を受け入れられなくて、あんなに優しい人を傷つけてる。もう…別れるしかないと思ってる。そしたら愛莉にもちゃんと話せるかな…」

ボロボロだった。
愛莉がいない寂しさと、杏寿郎を傷つけている罪悪感。そして、不死川主任への女々しい恋心。アイスが言っていた「愛莉の代わりはいない」という言葉がずっと頭に残っていて離れなくて…

「杏寿郎と付き合わなきゃよかった。こんな風に傷つけたい訳じゃないのに。好きになれたら楽なのに…頭がついていかない…不死川主任の事が好き。どーしようもなく、好き。愛莉が羨ましいよ。主任に愛されてる愛莉が羨ましくて堪らなくて…すごく苦しい…」

誰か助けてと縋りたかった。この苦しみから助けて欲しい…と。でもそれで人を傷つける事はもうしたくない。
自分で蒔いた種だと分かっているけれど、自分の行動が受け止めきれない。

「うう、ゆき乃っ、辛いね、うん、めっちゃ辛いよねっ」

喉まで出かかったSOSが言えなかった。それでもこうしてハルが私の支えになってくれている事は確かで、定時が過ぎてholiday編集部から人が居なくなっても私はまだ画面に向かったままだった。
今日は席を外してばかりで一日のノルマに達して居らず、杏寿郎の所に行くことも無くただ無心でPC画面を見つめてキーボードを叩いていた。


「上司を無視とはいい身分だなァ」

聞こえた声にドキリと背筋が伸びた。え?嘘でしょ。だって外出時の行先と戻り時間に視線を向けると一度見た時と同じNRになっているというのに。帰ってくると知っていたら残業なんてしていない。

「…お疲れ様です」

視線も合わせずに言葉だけそう言う。普通に見たら相当態度の悪い部下であろう。

「悲鳴嶼さんに聞いたぞォ」
「えっ!」

思わず振り返ると、変わらない不死川主任の顔がそこにあって、私を見下ろしていた。

「やっとこっち向きやがった。たく」

あくまでいつも通りを装う不死川主任がどうしようもなく苛つく。

「仕方ないじゃないですか、悪いと思ってるけど、普通に接することなんてできません。不死川主任だって私がいない方が仕事しやすいでしょう!私は…もう忘れたいんですっ、」
「オイなんの事だァ」

瞳を見開いて三白眼がこちらを困惑気味に見下ろしている。なんの事って、「異動の事、悲鳴嶼部長に聞いたんですよね?」…私の言葉に不死川主任は更に目を大きく見開いたなんて。

「そりゃ初耳だァ、バカタレ」

不死川主任は逃げ出そうとする私の手首をギュッと掴むとそのまま力任せに椅子に座らせられた。

「異動届け出したのか?」

静かな声に不死川主任を睨みつける。

「カマかけたんですか?」
「…一ノ瀬が仕事で泣いたのは初めてだろう。上司として心配して何があったか聞こうと思ったがてめぇは尽く俺を避けてやがるからなぁ。こうするしかねぇと思った。異動ってどーいう事だ、説明しろォ」

グッと、逃がすまいとしているのか不死川主任が握る手に力がこもった。

「愛莉と付き合ってる不死川主任をこれ以上見たくないからに決まってるでしょう!どーしてそんな事も分からないんですかっ!?どーして私に好きって言わせてくれなかったのぉっ。ちゃんとフッてくれたらこんな女々しい気持ちは残ってない。…好きなんです主任が。馬鹿みたいに愛してるんですっ!!!もう、離してぇっ、気持ちがないなら優しくなんてしないでくださいっ、放っておいてくださいっ、お願いだからっ」

力任せに不死川主任の腕を振り払って私は鞄を手にするとそのままPCも消さずに編集部から逃げ出した。
当たり前に追いかけてこない不死川主任を責める気にもなれず、もう何もかもがおしまいだ…と、また涙が溢れ落ちる。だけど、タンッ!!って聞こえた足音と、掴まれる腕に振り返るとそこには肩で大きく呼吸をしている不死川主任がいて。

「待てよっ」

信じられないと思った。こんな時に追いかけるなんて狡いと。もう限界で、何も考えられなくて、顔を崩して泣き出す私は迷うことなく不死川主任の胸に飛び込んだ。背中に腕を回して強く抱きつく。二人の間に何も入れないように強く、強く。

「不死川主任が好き。不死川主任しか好きになれない。お願いだから愛莉のとこに行かないでっ。お願いっ」

泣き出す私を不死川主任は決して抱きしめ返す事はしない。それでもこの温もりを離したくなかった。