名も知らぬ女

「…初めまして、名前です」

そう言ってニッコリ微笑むその人に胸がドクンと音を立てる。目の前で優しい笑みを浮かべたそれが、初めましてじゃねぇのにそう言うっつーのは、俺との事を隠したい…そう言う意味かよと、苛つく。
そう思うとあの出逢いが、眩しくて儚くて、夢だったんじゃねぇかと思えた。

ーー忘れもしない一ヶ月前の夜だった。

その日はトーマンの集会帰りで、場地さんとペヤングを食った後、別れて家路に着く。バイクで走っていると見知らぬ女が家の傍にある公園のブランコに座っていた。
俯いていて髪が顔にかかっているから見えねぇけど、俺は何故だか気になって公園前でバイクを停めた。

「何してんの」

そう声をかけるとパッと顔を上げる。その瞬間その女の瞳から零れ落ちた涙に、俺はその場に立ち尽くしたまま見惚れたんだ。長い赤髪と気の強そうな猫目。細い手足を晒した露出した格好にドキリと心臓が高鳴る。
ヤベェ、クソタイプ!!!!うーわ、クソ可愛い…
内心そう思うも、彼女は泣いていて…

「どうしたの、なんかされた?」

もう一度そう聞くと彼女はブランコから降りると俺の懐にふわりと飛び込んできた。甘い香りと一緒に柔らかな感触が俺の身体を纏う。

「…家に帰りたくない…」
「ふーん。どっか連れてってやろーか?」
「…いいの?」
「まぁ、バイクでよければ」

公園の入口に停めてある愛機を指さして言うと彼女は、まだ濡れたままの瞳でニコリと笑った。
その笑顔がまた可愛くてドクンと心拍数が上がったのが分かった。
俺のメットを彼女につけてあげると「優しいんだね」なんて言う。別にメットつけてやっただけだと思うのにそれでも嬉しそうに彼女は笑う。
正直女と付き合ったことも無く、どう接していいのか分かんねぇ。女に優しいなんて言われた事もねぇし。興味がないわけじゃない。ただ、そーいう女と出逢わなかっただけだと。そのまま俺は彼女の細い腰に手をかけると、ほんのり力を込めて抱き上げて後部座席に乗せた。柔らかな感触と、揺れた髪から香るなんとも甘い香りにまた一つ心臓がドクンと蠢いた。

「ちゃんと捕まって、危ねぇから」
「ん、」

ギュッと俺に後ろから抱きつく彼女を確認してからエンジンをかける。そのままゆっくりと発車させて、それから一時間ぐらい適当にバイクを走らせた。

街の景色が一望できる高台にバイクを停めた俺は、女をバイクから下ろす。その場でメットを外すとまた髪が揺れて甘い香りが鼻を掠めた。

「ここ穴場。好きなだけ見てていいよ」

わー!すごーい!そう言って感動している彼女を背に俺はバイクに寄りかかってポケットから煙草を取り出す。口に咥えて場地さんに貰ったジッポで火をつけると、心地よく煙を肺に送る。上を向いて煙を吐き出すと、星空が広まっていた。
そういや最近は色々忙しくてこうやって星空眺める事もなかったな…なんてボーッと思っていたら、高台の柵に手をかけていた彼女がくしゅんとクシャミをする。まぁ、んな格好してたらな…
俺は着ていたパーカーを脱ぐと彼女の肩にそっとかけた。

「え、いいよ。大丈夫」
「いいから」

ちょっと被せ気味でそう言うと、彼女は「ありがとう」と、俺のパーカーにくるまった。ただそれだけの仕草なのに、俺はどうしてか目の前のこの女に心を奪われていた。灯りの点った夜景を見下ろす彼女の伏し目がちな目が綺麗だとか、ふんわりしたウェーブがかった赤い髪に触りてぇだとか、細い身体を抱きしめたらどうなんだろとか、そんなくだらねぇ事が脳内を充満している。
場地さんに聞いたら、この俺のモヤモヤした気持ちを理解してくれるだろうか?この行き場のない気持ちを分かってくれるだろうか?

「うちさ、小さい時に両親離婚しちゃってずっとママと二人で暮らしてきたの。ママはなんてゆーか、男の人がいないと生きていけない女でね。それは別にいいんだけど、今度新しいパパができるみたいで…ーーちょっとだけしんみりしちゃったの。…私に新しい弟ができるんだって。弟だよ、急に。仲良くできんのかな…自信ない。でもママは綺麗だし大好きだからママには女としての幸せを掴んで欲しいって素直に思ってるの。だからまぁなんというか、こーいうしおらしいのは今日で最後にしようと思って。でもなんかそしたらさ、脚が動かなくなっちゃって、ずーっとあのブランコに居たの。そしたらーー君が現れた!名前も素性も分からないこんな女にまで優しくしてくれる君は、王子様みたいだね」
「…柄じゃねぇよ」

照れくさかった。
全くもって王子キャラなんかじゃねぇ。でも、ただのガキの不良だなんて言いたくなかった。彼女の目にそう映ってるのなら、それでいいなんて。

「王子、一つお願いがある」
「なに?」
「今だけこうしてて」

夜景を背にして彼女は俺の腕の中に飛び込んできた。ふわりと甘い香りを漂わせて。さっきまでどうしたら抱きしめられるのかと思っていた俺は一瞬これが夢なんじゃねぇかと思えた。でも現実に女は俺の胸に顔を埋めて小さく泣いている。俺らガキはどうしたって親の決断に逆らえない。だけどそれなりに感情はあって、みんなそーゆーもん抱えてそれ誤魔化して笑顔作ってんだって。

「なぁ、」

ポンと頭を撫でて小さく呼ぶと、潤んだ瞳で顔を上げる。そこに被さるように俺は女の視界を奪った。目を閉じて唇の感触を確かめる。やべぇ、止まんねぇ…
舌を絡めてきたのは俺じゃなく女の方で…夜景をバックに俺たちは気の済むまでそこでただ唇を重ねたんだーー。

それから女を送り届けた。
でも最後まで家も名前も教えてはくれず、もう会うこともねぇんだと思う他なかった。
これが、恋なのかすら分かんねぇ俺は、その時一歩踏み出すこともできなかったんだ。
だけど時間が経てば経つほど、逢いたさは募って、思い出すのはあの抱きしめた時の柔らかい感触と、刺激的な舌の感触…。

それから一ヶ月。
親父が再婚する事になって、「明日から新しいお母さんとお姉さんがこの家に引っ越して来る」昨日の夜言われて、ふざけんな!って怒鳴り散らしたけれど、時間は止まる事もなく、翌朝俺の前に現れた女を見て、胸がドクンと音を立てた。