勝てない人

 昼休み。いつも使う社食ではなく、人気のイタリアンを予約してくれていた先輩のゆき乃さんが「ハピおめ〜」と笑顔で紙袋をこちらに差し出した。可愛らしい袋の中には丁寧に梱包された布袋が入っていて、それがわたしへの誕生日プレゼントだと直ぐに分かった。忘れられた事なんて一度もないし、正直な所期待していなかったわけではない。けれどこうして改めて貰うとやっぱり嬉しい。
「えーんゆき乃さぁんありがとぉ」
 泣き真似しながらマトリョーシカの様な袋を開けるとそこにはピンク色の瓶に入った香水が入っていた。
「桜、可愛かったから。これからの季節に合うと思って。あともう一つはヤミさんから」
 クククって肩を竦めて笑うゆき乃さんに視線を紙袋に移せば…ハッと顔が熱くなっていくのが分かった。何のオブラートにも包まれちゃいないその0.01ミリのゴールデンボックスが眩しいくらいにキラキラと輝いていて、わたしはそれを掴んで袋の外に出した。
「部長と使えって!サイズはヤミさんと同じでいけるわよね?」
「…わからないよぉ」
「はいはい、猫かぶんなくていーから」
 ポカっとゆき乃さんの痛くない鉄拳が飛んでくるけど、その気持ちが何より嬉しかった。
「でも最近忙しいから今日もまだ連絡来てなくて…」
 金曜日の今日はできれば恋人である七海さんと逢いたいと思っている。彼が忘れていなければ、明日のわたしの誕生日を一緒に過ごせるはずなんだけれど。新年度に変わって何かと忙しい営業部の七海部長。人事部のわたしとは仕事上全く絡む機会もない。同じ会社で努めていても部署が違ければ顔を合わせる事なく一日を終える事なんて茶飯事で。偶然エレベーターであったり、社食やラウンジで逢えた日には内心めちゃくちゃ嬉しいと思えるわけで。
 運ばれてきたマルゲリータをぎこぎこと切っていくゆき乃さんはアイメイクばっちりの綺麗な目元から鋭い視線を飛ばしてくる。ピンクのラメがあんなに似合うのはゆき乃さん以外いないって思う。可愛いくて色気もあるゆき乃さんはわたしの憧れだ。思っている事をちゃんと口にできる所も。
「なんだそれ。誕生日に好きピと逢えないなんて絶対有り得ない。ヤミさんと逢えなかったらゆき乃会社辞めるわ」
 プッて笑うわたしをジロリと睨みつけたゆき乃さんはとりわけ皿にマルゲリータを置いてくれる。手についたトマトケチャップをペロリと舐めるその姿はセクシーというか小悪魔っぽくて女のわたしでもドキドキする。ゆき乃さんの切ってくれたピッツァを一口食べると想像以上に美味しくてパァーっと口端を緩めた。
「ゆき乃さんこれめっちゃ美味い」
「当然。ゆき乃が選んだんだから。ここのマルゲリータは絶品よ。今度部長に連れて来て貰いなさいな」
 ゆき乃さんの言葉にわたしは小さく息を吐いた。今何してるんだろ、七海さん。逢いたいよぉ…。今夜はどうしてもどうしても逢いたいよ。

 ゆき乃さんのお陰で楽しい美味しいランチを過ごしたものの、LINEのトークルームのメッセージが今だに既読にすらならず、モヤモヤする気持ちがなかなか収まらない。さっきからもう何度目だろう?壁時計ばかりを見つめていて…不意にポカっと頭頂部をチョップされる。
「痛っ、」
「おいハル。なんて顔してんだ、たく。もう今日はさっさと帰れ。ここに居ても迷惑だ」
 人事部の相澤消太部長。わたしの直属の上司であるこの人は、口も目付きも悪いけど根は優しくてとても頼りになる人だ。何も言わなくともわたしの気持ちを察してくれる人だ。もし七海さんと付き合っていなかったのなら、この人を好きになっていたなんて事がもしかしたらあり得るのかもしれないなんて。そんな事絶対に誰にも言えないけど。そもそも七海さんを前にするとそんな事すら全部何もかもが吹っ飛んでしまうけれど。
「ハル〜。ヤミさんがディナー奢ってくれるって言ってるけどご飯行く?」
 ゆき乃さんが定時の5分前に既に帰り支度を済ませた格好で人事部に顔を出した。隣にはゆき乃さん達の広報部長でもあり、ゆき乃さんの恋人でもあるヤミさんが煙草を咥えて「よぉ」と、軽く手を振っている。ヤミさんだからきっと素敵なお店に連れて行ってくれるだろうって思う。でも――
「ありがとうございます。でもお気持ちだけ受け取っておきます」
 七海さんと逢えるならどんなに遅くても待っていたいし、直ぐに飛んで行きたい。そんな色馬鹿な事を思う自分がいるなんてわたし自身今まで知らなかったなんて。恋してるって感じで今の自分は前程嫌いじゃない。いつも自分に自信がなくて、こんな自分の事を好きになんてなれずにいた。それでもそんなわたしを好きだと言ってくれた七海さんをわたしは信じている。大きな手でぎゅっと抱きしめて欲しい。
「ハハッそうか!んじゃ遠慮なくこいつを堪能させて貰うわ」
 ゆき乃さんの肩に腕を回してそう言うヤミさんに七海さんを重ねてきゅんとする。あんな風に堂々とわたし達も恋人って言えたら…なんて思うけれど、ハルはぜーんぶ顔に出ちゃうから交際宣言しない方がいいわよ!なんてゆき乃さんに言われていた。七海さんはルックスもいいから女性人気も高いし嫉妬の対象になるって。誰もが振り向く美人でもない限り、堂々と七海さんと交際宣言なんてできやしない。それでもゆき乃さんやヤミさんがわたしと七海さんとの事を分かってくれているのが嬉しかった。少なからずこの二人の前ではわたしは堂々と七海さんの恋人をできるのだから。
「なんだぁ?ニヤニヤしちゃって。俺のやったボックス、使う気満々じゃねぇか、ハル」
 くしゃってヤミさんがぱっつんなわたしの前髪に触れて笑った。ヘビースモーカーなヤミさんからは常に煙草の匂いがする。へへってわたしは笑うと「大事に使わせて貰いますね」なんて笑い返した。
「ゆき乃さん色々ありがとう」
 笑顔で手を振るわたしにゆき乃さんも手を振り返す。ヤミさんに肩を抱かれながら社内を後にした二人に続き、わたしも相澤部長に挨拶をしてそのまま七海さんの住むマンションへと移動した。
 駅前のスーパーで腹の足しになるような適当な惣菜を買い込んで駅から徒歩3分という高級マンションのエントランスでしばらく待つことにした。そこそこ時間は潰してきたものの、七海さんからの連絡もなければ既読にもなっていない。仕事が立て込んでいる時は返信も深夜になったり翌朝早朝だったりとあるけれど、必ず返信はくれる人だ。日付が変わる前に帰ってきてくれれば一緒に誕生日を迎えられるなーんて惚気けた事を思っていたら、マンションの前にタクシーが止まる。駅から3分だし流石にその距離にタクシーを使うわけないでしょーなんて思いながらも興味本位で視線を向ければ、後部座席のドアが開いて、逢いたくて仕方のなかった七海さんが出てきたんだ。途端にわたしの心臓は爆音を鳴らし、疲れも何もかもを吹っ飛ばしてカツンとヒールを鳴らす。エントランスの階段を駆け下りて声を掛けようとしたまさにその時――反対側のドアが開いて中から知らない女が姿を見せた。
 …その人誰?なんで一緒にいるの?なんで七海さんのマンションの前で降りたの?まさか二人で部屋に入る?え、待ってわたし、フラれる?
 咄嗟に色んな事が脳内を占領していて、今の今まで動いていた脚は鉛のように固まって動けない。見えてる世界が一瞬でグレーに変わってしまうなんて。ポケットに仕舞い込んだスマホをぎゅっと強く握りしめる。今からゆき乃さんに連絡したら会ってくれるだろうか?とてもじゃないけどこんな現実受け止められない。誕生日前日にフラれるだなんて…。なんなら当日じゃなくてよかったのか?なんて馬鹿なことすら浮かんでしまい、月明かりに照らされた七海さんを、この後に及んでかっこいいと思えてしまうなんて。駄目だ、このままここに居たら気づかれる。そう思ったわたしは、エントランスから逃げるようにタクシーの後ろに周り、高級マンションから一歩一歩と離れてゆく。
 ――でも、「愛沢さん?」聞こえた声にドクンと心臓が鷲掴みにされたかのようで、こんな時なのにわたしって存在に気づいてくれた事が嬉しくて堪らない。それなのに素直になれない捻くれたわたしは、カツカツとこちらに向かってくる脚音から逃げるように走る。胸が苦しくて喉の奥が痛い。気を抜いたら涙すら出てきそうな悲しい夜。わたしよりずっと脚の長い七海さんがわたしに追いつかない訳がなく、腕を掴まれて前に回り込んだ。息の切れているわたしと、通常呼吸の七海さん。
「どうしたんです?何故、逃げたのでしょうか?」
 惚けてるの?わたしはギロッと七海さんを睨みあげる。
「何を勘違いされてるのか大体検討はつきますが、一応言っておきます。今日は重要な仕事の打ち合わせで一日スマホを見る時間がありませんでした。ですのでもし貴方が私にメッセージを送ってくれていたのならまだ確認できていません。仕事が終わってからゆっくり連絡をするつもりでしたので。それとあちらの女性とはなんの関係もありませんので。取引先の部長さんですので本来なら私がお送りするつもりでしたが、つい色々話してしまい…今日は早く帰ったほうがいいと先に私を降ろして下さったので…」
 七海さんの言うことはいつだって誠実で正しい。間違えなんて一つもない。そんな人だからこそ全てにおいて信用している。きっと本当になんの関係もないんだって思う。思うけど…「わたしは今日一日ずっと七海さんに逢いたかったのに…」わたし以外の人の隣に行かないで!なんてそんな子供みたいなヤキモチさすがに許されない。
「まぁ貴方のことですから、余計なヤキモチでも妬いてくれたのでしょう…ハル、こっちにおいで」
 駄目だ勝てない。全部お見通しだこの人は。握られている手にぎゅっと力を込めればそれごと七海さんはわたしを包むように後ろから腕を回されて抱き寄せられた。
「狡い、」
「なにがです?」
「全部です。七海さんには勝てない…」
「馬鹿ですね貴方は。私の方がこうしてハルを抱きしめている事に緊張しているのですが」
 思っても見ない返答に眉毛が下がる。耳元を掠める七海さんの低音に固くなっていた身体の力が自然と抜けていく。
「ほんとに?」
「ええ。ほら私の心臓の音を聞いてみてください」
 背中に伝わる七海さんの心音は想像以上に早く、思わずぷっと吹き出した。
「ほんとだ、めっちゃ早い」
「気を抜くと頭の中がハルで埋まってしまう男をどうしてくれるんだ、全く」
 漸くくるりと反転させられたわたしに、月明かりに照らされて耳まで真っ赤になっている七海さんと目が合った。その新鮮な反応にわたしまでドキドキしてしまって…「好き…」そう言うとまるでそれに応えるかの様、七海さんの大きな手が頬に添えられてゆっくりとわたしの視界を埋めた。
 寒空の下、冷たくなった唇に触れた温もりにトクンと胸が脈打った。こんな公共の場で路ちゅーなんて事、ゆき乃さんにバレたら怒られる。でも無理、止まんない…
「もっとちゃんとしてください」
「全く貴方って人は。言われなくともしますがね、続きは私の部屋でという事でよろしいでしょうか?」
「はい」
 スッと手を出す七海さんのそれに重ねれば、指を絡めてその手を包み込まれた。
 当然ながら先程のタクシーはとっくのとうにここからいなくなっていて、わたしは七海さんに連れられてエレベーターへ乗り込んだ。その間もずっと手を繋いでいてくれて、ホテルみたいにカードキーでドアをあけると直ぐに、七海さんの大きな身体がわたしを抱きしめた。
「ハル、俺も逢いたかった…」
 そう言うが少し強引に首の後ろに回した手でわたしを引き寄せて口づける。生温い舌が歯列をなぞって下顎を舐めるとゾクリと子宮が熱くなる。そのまま上顎を掠めて口内でわたしの舌をちゅるりと絡める激しいキスに女にしては身長が高めのわたしですら、脚ががくがくして倒れそうになってしまう。舌を何度も絡めながら、片手でネクタイを外し終えると自身の薄い銀縁乃眼鏡をカチャリと外した。それから徐にわたしの鼻にかかった茶色いフレームの眼鏡も外す。
「七海さん、ここでするの?」
「今はプライベートだよハル。俺の事も名前で呼んで欲しい…」
 そう言われてまたトクンと胸が脈打つ。本当の本当は建人さんって呼びたかったから嬉しくて。脳内では何度も練習してきた名前呼びにわたしはこくりと頷いて建人さんの首に腕を掛けた。
「建人さん、ここでするの?」
 そしてもう一度同じ台詞を口にすれば建人さんは口端を緩めるとふわりとわたしを横抱きにする。急にお姫様抱っこをされて慌てて建人さんの首に回した腕に力を込めた。連れて行かれた場所は勿論ベッドルーム。キングサイズの特大ベッドの上にゆっくりと押し倒されると、「ここなら文句ないだろ」鼻の頭を擦りつけて優しく微笑んだ。
「ハルにはこれだけ着けてて貰いたいから」
 そんな言葉共にわたしの右手の薬指に嵌められた指輪。ピンクゴールドで赤と緑の石が重なってツイている可愛らしい指輪だった。
「誕生日おめでとうハル。心から愛してる。これからもずっと傍にいて欲しい」
 時計の針はちょうどてっぺんを超えた所で、やっぱり何もかもがお見通しのこの人には一生勝てないんだって思えた。ぐずっと鼻を啜るわたしをさも愛おしそうな顔で触れる建人さんを、わたしも心から愛しています。