二文字の勇気

 学生の頃は沢山の人を好きになっていた。それが本気かただの憧れかも分からないくらいいつの間にか消えていく恋もあった。
 それでも傷ついて泣いたり、苦しいと思ったり…そーゆう感情はあまり無かった気がする。
 今思えばそれは恋とは呼べない憧れだったのだと理解する。あの頃は本気だと思い、毎日を楽しんでいただろうが。
 三十路を過ぎて周りの友人達があれよあれよと結婚していく中、ぽつんと独り残された様な気持ちになるのは今に始まった事ではない。
 そんな私にも今好きな人がいる。同じ会社の上司で四十路を迎えたその人はいつだってキラキラと輝いている。
 コロナ前に付き合っていた恋人と別れてからずっと、彼女はいないはず。
「雪乃ちゃん、悪いんだけどこれ20セットコピーお願いできるかな?」
 午後からの会議に使う資料なんだけど!そう付け足して足早に私のデスクに資料を置いた上司の直人さんこと、片岡部長。私服オフィス内でも一際お洒落な服装の彼はみんなの人気者だ。
「はいっ、直ぐに」
「急がなくていいよ。午前中にやっといてくれれば。俺また別の打ち合わせだから、悪いね」
「全然です。いってらっしゃい片岡部長」
「おう、いってきます」
 受け取った資料を胸に抱きしめながら去りゆく後ろ姿を見つめる私の心音は爆音だ。もしここに聴診器を当てられたら確実に異常判定をされてしまうだろう。危うく再検査にならぬ様に冷静を装って立ち上がりコピー機へと行くその足取りは軽い。
 はぁ〜今日も朝から直人さんと話しちゃった。ふふふふ、気を抜けば完全に頬が緩んでしまっているだろうと分かっていても止められない。窓から差し込む日光を存分に浴びながら鼻歌なんて口ずさみながら資料をセットして枚数を打ち込む。
「よしOK、レッツゴー」
 ポチッとボタンを押せばコピー機が小冊子を作り始めた。

「もー早く告白したらいいんじゃ…雪乃さん好き好きオーラがダダ漏れ。部長も絶対満更じゃないと思いますよ」
 お昼休み。私より3年後輩の朝海ちゃん。同じ部署に配属されて1年だけれどこうして仲良くしてくれている。恋愛においてはきっと私より上級者だと思うけど、絶賛片思い中って所が嘘みたい。
 桜が開花し始めているからって、クアアイナでハンバーガーをテイクアウトしてこうして社外の小さな公園でランチをしているとそんな事を言われた。
 隣のバスケットコートでは近場の大学生達だろうか、真っ昼間から汗を流して走り回っている。それを横目で若いなぁと思いながらも齧りついたバーガーから肉汁がたっぷり口いっぱいに広がってまた違う意味で頬が緩んだんだ。
「え?いや…今繁忙期だし…」
 年度末である3月下旬。大抵の企業は業務に追われているだろう。それはうちの会社も同じで、ありとあらゆる取引先と年間の見積りを出して貰い予算を計算する非常にシビアな時期である。とはいえ、もうそれもだいぶ慣れてきた。忙しいのは忙しいけれど、それをこなす技量も培ってきたのは事実である。
 故に、繁忙期は理由にはならない…。
「見ていてもどかしいです。さっさとくっついて下さい」
「私から告白するべき?」
 狭き門だなぁ〜と細身のポテトにケチャップをつけてパクつく。
「部長から言うのが一番ですけど、ちょっと雪乃さんの気持ちを楽しんでる様に見えちゃうんですー。私の苦手なタイプ…」
 相変わらずハッキリしてるねぇ〜って笑う。春風がふわりと吹いて朝海ちゃんのショートヘアがさらりと揺れた。風に吹かれるだけでこんなにも可愛い子がいるんだーなんて内心こっそり感心してしまう。爽やかな笑顔でメロンソーダをごくりと飲んだ彼女は、スマホを見てふぅと溜息を零した。
「両想いなんですから、雪乃さんと部長は」
 哀愁漂わせちゃう朝海ちゃんは、神谷くんからの連絡を待っているのかもしれない。あちらもかなりの恋愛上級者っぽいしなぁ…。
 そもそも私と直人さんは両想いじゃないし。そんな確信持てた事なんてただの一度も無いのに。
 ちらりと視線を朝海ちゃんに移すと据わった目でこちらを見ている。いやこれはもしかしたら半分呆れているのかもしれない。
「うーん、それ私には信憑性無いって」
「見てれば分かりますよ、私じゃなくても。部長は雪乃さんの事好きですよ」
 言われて嬉しくない訳はないのだけれど、気持ちが心がついていかなくて。だから何処か客観視してしまっていた。
 数メートル先の桜の花弁がピンク色に色づいていて、薄いピンク色の花を咲かせているのに心癒やされながらも直人さんに告白する自分を想像してみた。それだけで胸がまた激しく爆音を鳴らす。
「想像しただけで心臓痛いなぁ〜」
「好きって言うだけですよ、雪乃さん」
 いやいやその二文字が言えないからこうして今も悩んでいるんだよーって。難しいとか簡単とかそーゆー事じゃなくて、もっと心の深い奥底で怖がっているんだってまぁ分かってはいる。
 でも三十超えてからの本気な告白は、やっぱり勇気の次元が違う。学生の頃みたいにふわって言えない。臆病になっているのは自分に自信がないからで、結局断られるのが怖いだけなのかもしれない。
「もたもたしてたら、いくら部長が鈍感でも、他の誰かに取られちゃうかもですよ。それでもいいの?雪乃さんは」
「よく、ない」
「でしょ!じゃあチャンスがあれば告白しましょうね」
 そうだね〜!なんて調子づいて言ってしまった私に、まさかこんなにも早くそのチャンスが舞い降りてくるなんて思いもしない。

 ◇◆◇

「送るよ俺車で来てるから」
 …――一ノ瀬雪乃、最大のピンチ!もとい、人生最大のチャンスだ!!!
 朝海ちゃんに大見得切ってから3日後の夜だった。急遽取引先の担当者が代わり、見積りの書式も全替えで苦戦していたものの、漸く修正が終ったら頃にはもうとっくに定時を過ぎていた。気づけばデスクの周りの席には誰もいなく、一人ぽつんとPCのキーボードを叩く音が止まり小さく息を吐き出す。
 椅子に寄りかかって大きく伸びをしていた所、外出していたであろう直人さんが帰ってきたのだ。
「雪乃ちゃんまだ残ってたの?」
 社内に入り私を見るなりつぶらな瞳を大きく見開いてちょっと吃驚した表情で口を開く。打ち合わせのあった今日は上下スーツ姿でそんな格好も素敵だ。思わず見惚れそうになる自分を隠して「ちょうど今終わりました。もう帰ります」デスクの上を片付けてPCの電源を落とすと私はそそくさと殻になったコップを洗いに給湯室へと歩く。洗い終えてロッカーから春コートを手にデスクへと戻れば、ホワイトボードの行き先を綺麗に消していた直人さんが振り返って言ったんだ。
「送るよ俺車で来てるから」
 トクンと胸が激しく爆音を立ててどうしようもなく身体が熱くなる。
「…だ、大丈夫です。まだ電車も残ってますし」
 無理だ絶対。そんな勇気も心構えも今は何も持っていない。朝海ちゃんにバレれば本気で怒られそうだけれど、急に二人きりなんて心臓が持たない…。
「なら飯でも行かない?それならいいでしょ?」
 や、それ、もっと駄目!直人さんの前で大口開けてご飯なんて食べられない。絶対味なんて分からないよ…。
 何も答えられない私の肩を押すと、直人さんは楽しげに歩き出す。
「始めてだね、サシで行くの。雪乃ちゃん何食べたい?」
 逃げられない…そう思いながらも、恐怖とは裏腹に直人さんの隣を歩く事の嬉しさを感じずにはいられないんだ。半歩前を歩くその姿を見て心音が高鳴る。少し腕を伸ばせば掴める距離に直人さんがいて、香水だろうか心地良い香りが仄かに鼻腔をくすぐる。
 時計の針は間もなく21時を回る所で、近場の飲食店はどこも賑わっているだろうか。それでも色んな場所を知っている直人さんは、スマホ片手にカーナビにお店の電話番号を登録すると、アクセルを踏んで車を発車させた。
「酒飲めないから飯重視で選んだけど。次は酒美味いとこも連れてってやるからね」
 ポスっと運転席から伸びてきた直人さんの手が私の髪に触れて一無でするとハンドルに戻って行った。
 私はただ単純に、次もあるんだ…とそこに嬉しさを感じずにはいられないんだ。
 物凄く緊張していてどうしたらいいのかも分からないけれど、直人さんとこうして二人でご飯に行ける事への喜びをただ噛み締めていた。

「ご馳走様でした。すいません奢って頂いて…」
「可愛い部下から金取る訳にはいかないからねぇ。お礼なら愛情でいいから」
 ニカッてどら焼き型の口を横いっぱいに開いて八重歯を見せて笑う直人さんにまた胸の奥がトクンと音を立てる。
 食事は終始直人さんが喋っていて私はそれに相槌を打つ程度だった。それでも直人さんの話は楽しくて、時にモノマネを混ぜつつ話してくれて、緊張はしていたけれどそれ以上に楽しさが勝った。
 このまま時間が止まればいいのに…と、何度となく思ってしまう程に。
 助手席に乗り込んだ私を見てニッコリ微笑む直人さん。え?なに?
「少しは緊張がとけたかな?」
 …お見通しなのね、もう。素直にコクリと頷けば頬を緩めた直人さんが「可愛い」独り言の様に小さく呟く。
 朝海ちゃんの言う『部長は雪乃さんの事、好きですよ』って言葉が鮮明に脳を刺激する。もしかしたら本当にそうなの、かも?なんて始めて思えたんだ。
 ごくりと生唾を飲み込む私。ふぅ〜と小さく息を吐き出す。ちらりと視線を直人さんに移すと手持ち無沙汰な手がハンドルを握った所だった。
「あ、煙草、吸って下さい」
 そう言えば直人さんはよく食事の後一服しに行っていたのをふと思い出す。
「あーいいのいいの、雪乃ちゃんに煙かける訳にいかねぇから。飲んでる訳じゃないから吸わなくても大丈夫だよ。まぁ口寂しいけど…――キスでもしてくれる?」
「!!!!!な、部長…何言って…」
 顔事直人さんの方に向き習うとふにゃりと笑われた。それからスッと伸びてきた手がまたポスっと私の頭頂に乗っかる。
「冗談だよ。本気にした?本気にしてくれたなら俺はいつでも大歓迎だけどな」
 余裕綽々の笑顔を見せてポンポンと頭を撫でると直ぐに離れていく直人さんの手。
 心臓が痛いどころじゃない。直人さんにとっては楽しんでる事の一つかもだけれど、私には冗談にも本気にもできなくて、胸が苦しい。こーゆう時、朝海ちゃんならどーするんだろうか。本気にとってキスしちゃうのかな?
 戻っていく直人さんの腕を空中で捕らえる。ぎゅっと腕を握って俯く私に「雪乃、ちゃん?」ほんのり声のトーンを落とした直人さん。
「ごめん俺からかった訳じゃなくて…ちょっと自分でも舞い上がってて…言い方悪かったよね?」
 焦った様な直人さんの声色に首を横に振る。どうしよう、泣きそう。たった二文字言えばいいだけ。その二文字が喉の奥、ここまで出かかっているのに言えない。
「ごめん雪乃ちゃん、マジで調子乗った」
 私が何も言えないから直人さんがまた謝る。そうじゃなくて違くて。
 言え、雪乃。言うんだ―――
「好き…」
 一生分の勇気を振り絞って口から出した言葉は残念なくらいに震えていて消え入りそうだった。垂れた髪で顔を覆っているから直人さんの表情は読めない。
「雪乃ちゃん…」
 もう一度、今度は顔を上げて直人さんの瞳を見ながら「直人さんが好き」そう震える声で伝えた。
「ほんと?」
 困惑した表情の直人さんを見るのは後にも先にも今が始めてだ。いつも飄々としている直人さんらしからぬ不安気な声に私はもう一度コクリと頷く。
 次の瞬間直人さんはくるりと手の平を反転させて私に向ける。照れ臭そうに笑うと低い声で続けた。
「手、震えちゃったよ俺。うん知ってた、ありがとう雪乃ちゃん」
 …ん?知ってた?知ってたの?なんで!?
 瞬きを繰り返す私に直人さんは手を引くと同時、私の方に身を投げ出してふわりと抱きしめられる。いやちょっとかなり不格好じゃないかな、これ。
「なな、直人さん…あのっ」
「そうじゃないかな〜って思ってた部分と、俺の願望か?って部分と2つあったんだけどね。薄々気づいてたけど確信があった訳じゃねぇからさ。…俺の事好き?」
 少し距離を取られて顔を覗き込む様にド至近距離で直人さんにそう聞かれた。やっぱりその表情は少し余裕があって、そんな自信に満ちた直人さんも好きだから仕方がない。
「好きです…」
「嬉しい。俺も、雪乃が好きだよ」
 待ち望んでいた言葉が直人さんの声で、直人さんの言葉で私に伝えられる。どーしよう、胸がいっぱいで、苦しい。
「心臓が、痛いです…」
「えっ!?大丈夫?俺触診してやろうか?」
 わざと胸の前で厭らしい手付きで揉む仕草をする直人さんにフッと力が抜けて笑う。その瞬間、ちゅってリップ音と共に触れる唇に、全身の血液が顔に集中したなんて。
 触れるだけのキスにこんなにもドキドキしたのは生まれて初めてだろう。
 暗闇の中、見つめる先の直人さんはまたゆっくりと顔を近づける。無言で目を閉じれば今度はもっとちゃんと唇が重なった。それでも数秒で離れていく唇。それを追いかける様に直人さんの腕を掴んで自分から近寄ると、それを待っていたのだろうか、直人さんのほんのり開いた唇の隙間から舌が出てきて私の口内に入り込んだ。柔らかい舌に鼻息が漏れる。口内でにゅるりと私の舌を舐める直人さんに、スーツの裾をきゅっと強く握る。頬に触れる直人さんの手が誘導する様に顔を動かされてどんどんキスが深くなっていく。合間に息を吸い込んでまた舌を絡ませると直人さんの唇がハムりと唇を挟んで甘噛み。そのまま舌先で唇をツーっとなぞられて身体の中をぞくりとした快感が駆け巡る様だ。
「はぁっ…直人さん…」
「ごめん、理性吹っ飛んでた」
 ポンポンと頭を撫でてくれる直人さんとの距離が近くてドキドキが止まらない。どーしよーこのまま帰りたくない。そんな事言えないけど。顔の前を手で仰ぐ私を見て「暑い?」そう聞かれて。
「熱いです。恥ずかしくて死にそう…」
「死なれちゃ困るわ俺が!どーする?このままさらっと帰る?それとも、もう少しドライブする?…それとも、」
 キョロキョロと辺りを見回した直人さんは、言うなればエロ目で窓の外を指差して続ける。
「あのお城入っちゃう?」
「入りません!もう少しドライブしたいです…」
「ガード硬いなぁ雪乃ちゃん。じゃあ仕方ない車出すね。気が変わったら直ぐ言えよ」
 直人さんはちょっとチャラいよなぁ…なんて思いながらも、こんな大人な展開もありかな…半分以上お城に入りたくなっている私がそこにいた。

◇◆◇ 
​「甘い残響と、いつも通りのデスク」

​ 昨夜のことが夢だったんじゃないか。
 そう疑いながら、私はいつもより念入りに鏡を見て、ほんの少しだけ明るい色のリップを引いた。
 出勤中も、イヤホンから流れる音楽が全く頭に入ってこない。ただ、昨夜車の中で重なった唇の感触と、直人さんの低い声が鼓動を早める。
 「おはようございます……」
 オフィスのドアを開ける。真っ先に視線が向いたのは、窓際のデスク。
 そこには、いつものようにパリッとしたシャツを着こなし、部下に指示を出している「片岡部長」の姿があった。
「あ、雪乃ちゃん。おはよう」
 直人さんが振り返る。その目は、昨日車の中で私を蕩けさせたあの熱い眼差しではなく、完璧な「上司」の顔だった。
「おはようございます、部長」
 声が震えないように、精一杯事務的な挨拶を返す。なんだ、やっぱり仕事モードなんだ……。少しだけ寂しさと、それ以上の安堵が混ざった溜息を飲み込んで自分の席に着こうとした、その時。
「あ、そうだ。雪乃ちゃん」
 呼び止められて心臓が跳ねる。直人さんがスッと私のデスクに歩み寄ってきた。
「昨日お願いしたコピー、やっぱりあと5セット追加してもいいかな? 急ぎじゃないから、落ち着いたらでいいよ」
「あ……はい、承知しました」
 手渡された資料の端。直人さんの指先が、私の指にほんの一瞬だけ、確信犯的に触れた。
 驚いて顔を上げると、直人さんは周囲に背を向けた隙に、私にだけ見える角度でいたずらっぽく片目を瞑ってみせたのだ。
「……っ!」
 顔がカッと熱くなる。
 直人さんは何食わぬ顔で「よろしくね」と自分の席に戻っていったけれど、私の手元に残された資料の山には、小さな付箋が貼られていた。
『昨日はよく眠れた? 俺は全然。早くまた二人きりになりたい。』
 殴り書きのような、でも力強い直人さんの字。
「雪乃さーん、おはよーございます。……って、あれ? 顔真っ赤ですよ。熱でもあるんですか?」
 背後から朝海ちゃんの鋭い声が飛んでくる。
「な、なんでもない! ちょっと、朝のコーヒーが熱かっただけ!」
「へぇー?……あ、部長。おはようございまーす」
 朝海ちゃんが直人さんに挨拶をすると、彼はまた「おう、おはよう」と爽やかに笑っている。
 ……この人、本当にずるい。
 あんなに余裕たっぷりな顔をして、私をこんなに振り回しておいて。
 私は付箋をそっと手の中に隠し、誰にも見られないようにデスクの引き出しの奥にしまった。
 コピー機へと向かう私の足取りは、昨日よりもずっと、浮き足立ってしまっていた。
 
 ◇◆◇
​「21:03、内緒の通知」

​ 定時を過ぎて、オフィスには数人の同僚と、カチカチと響く時計の音だけが残っていた。
 朝海ちゃんは「神谷くんから連絡来たんで、お先に失礼しまーす!」と、嵐のように去っていった。
 私は自分のデスクで、不自然なくらい丁寧にPCをシャットダウンする。
 視線の先、部長席の直人さんは、難しい顔をして電話を耳に当てていた。
(やっぱり、昨日の今日で、いきなり二人で帰るのは無理だよね……)
 一日の終わりに近づくにつれ、朝の浮かれた気持ちは、少しずつ現実味を帯びた不安に変わっていた。
 「お疲れ様でした」と、忙しそうな直人さんに小さく頭を下げて、私はオフィスを後にした。

 夜の冷たい空気が、熱を持った頬に心地いい。駅までの道を一人で歩きながら、スマホを握りしめる。
 ――その時、ポケットの中でスマホが短く震えた。
『駅の反対側のロータリー、黒のセダン。ハザード出してる。』
 送り主は、直人さん。
 慌てて周囲を見渡し、私は駆け足で歩道橋を渡った。
 言われた場所へ向かうと、暗がりに見覚えのある車が停まっている。
 助手席のドアを開けると、そこにはネクタイを少し緩め、ハンドルに腕を乗せて待っている直人さんがいた。
「……お疲れ様。待たせちゃったかな」
「いえ、私も今駅に着いたところで。……直人さん、電話してませんでした?」
「あー、あれはフェイク。雪乃ちゃんを先に帰さないと、みんなに怪しまれるでしょ」
 直人さんはそう言って、クスクスと笑った。
 車がゆっくりと走り出す。昨日の、あの爆音のような心臓の音がまた戻ってくる。
「朝の付箋、びっくりしました。朝海ちゃんに見られたらどうしようかと……」
「ごめんごめん、どうしても何か伝えたくてさ。……で、返事は?」
「返事?」
 信号待ちで止まった車内。直人さんがこちらを向き、昨日よりもずっと柔らかい、でも独占欲の混じった瞳で私を見つめる。
「『早く二人きりになりたい』っていう、俺の独り言への返事」
 不意打ちの言葉に、私は言葉を詰まらせた。
 直人さんはハンドルから手を離すと、私の膝の上でギュッと握りしめていた手を、優しく包み込む。
「俺、今日は一日中、会議中も雪乃ちゃんの横顔ばっかり見てた。……正直、仕事にならなかったよ」
「私も、です。直人さんのこと、意識しすぎて……」
「そう。じゃあ、今日は『お城』の前に、ちょっと寄り道しようか」
「寄り道?」
「俺の家。ゆっくり、雪乃ちゃんの声が聞きたいんだ」
 昨日の「チャラい誘い」とは違う、どこか切実で、甘い誘惑。
 繋がれた手から伝わる体温が、冬の終わりの夜空を、一瞬で春色に変えていくようだった。

 ◇◆◇
​「三月のカクテルと、解かれた結び目」

​ 直人さんのマンションは、彼そのもののように清潔感があって、どこか都会的な香りがした。
 広いリビングの照明が少し落とされると、窓の外に広がる夜景が、まるで宝石を散りばめたように輝いている。
​「立ち話もなんだし、座って。適当に何か淹れるよ。……あ、お酒は飲めるんだっけ?」
「少しなら……。でも、今日は直人さんの顔を見てるだけで、もう酔っ払っちゃいそうです」
​ つい口をついて出た本音に、自分で自分の頬を叩きたくなる。
 直人さんはキッチンで手を止め、ふっと肩を揺らして笑った。
​「雪乃ちゃん、それ反則。俺を試してる?」
​ 彼はカチャリと音を立てて、琥珀色の液体が入ったグラスを二つ、テーブルに置いた。
 ソファの私の隣、肩が触れるか触れないかの絶妙な距離に彼が腰を下ろす。
​「……今日一日、会社で君が俺を見ないようにしてたの、知ってるよ。寂しかったなぁ」
「だって、見たら全部顔に出ちゃいそうだったんですもん。……部長が、あんまりかっこいいから」
​ 直人さんの手が、私の髪にそっと触れる。指先が耳の裏をなぞり、そのまま顎を優しく持ち上げた。
 視線が絡み合う。逃げ場のない、直人さんの熱い瞳。
​「かっこいいのは、俺のセリフ。……昨日のキスの続き、していい?」
​ 答えを待たずに、彼の唇が重なった。
 昨日の車の中での焦ったようなキスとは違う。深く、丁寧に、私の輪郭を確かめるような甘いキス。
 直人さんの腕が私の腰に回り、ぐいっと彼の方へ引き寄せられる。
​「ん……なお、とさん……」
​ 名前を呼ぶと、彼の動きが一瞬止まった。
 彼は私の肩に顔を埋め、深く息を吐き出す。伝わってくる鼓動は、私のものと同じくらい速い。
​「……雪乃、ごめん。俺、自分が思ってるより余裕ないわ。三十過ぎて、こんなに心臓がうるさいなんて思わなかった」
​ そう言って苦笑いする直人さんの耳が、ほんのり赤くなっているのを見つけて、私の心は愛しさで爆発しそうになる。
 いつも完璧な「片岡部長」が、私の前でだけ、一人の「男」として揺れている。
​「……私、帰らなくていいです。明日の朝まで、直人さんの隣にいたい」
​ 精一杯の勇気を込めた言葉。
 直人さんは顔を上げると、驚いたように目を見開き、それから今までで一番甘く、少しだけ危険な笑みを浮かべた。
​「……後悔しても、もう返さないよ?」
​ 彼の手が私の春コートのボタンに掛かる。
 外の夜景も、三月の冷たい風も、もう二人の耳には届かない。
 部屋に満ちているのは、重なり合う吐息と、二人だけの特別な時間の始まりを告げる音だけだった。

 ◇◆◇
​「三月の熱帯夜と、柔らかな光の朝」

​ 直人さんの指先が、私のブラウスのボタンを一つずつ、焦れったいくらい丁寧に外していく。
 視線を逸らそうとすると、彼は空いた方の手で私の頬を包み込み、逃がしてはくれなかった。
​「……雪乃、ちゃんと俺を見て。誰といるか、わかってる?」
「っ……直人、さん……」
​ 名前を呼ぶたび、彼の瞳に熱い火が灯るのがわかる。
 そのままソファに押し倒されると、彼の低い体温がダイレクトに伝わってきた。スーツのジャケットを脱ぎ捨てた彼の肩は思いのほか逞しく、抱きしめられると自分がちっぽけな存在に思える。
​ 首筋に落とされる、深く、熱いキス。
 彼の舌が這うたび、背筋をゾクッとした快感が駆け抜ける。
​「あ……はぁっ……直人、さ……」
「……可愛い声。もっと聞かせて」
​ 耳元で囁かれる低音ボイスに、思考が真っ白に溶けていく。
 昨夜の車の中でのキスなんて、ほんの序の口だった。直人さんの大きな手が私の肌をなぞり、熱を分け与えていく。
 理性がパチンと音を立てて切れる。私は彼のシャツを掴み、自分からもっと深く、彼の胸の中に飛び込んだ。
​ 三十路を過ぎての恋。
 怖かったはずのその一歩は、彼の手によって、今、最高に甘い熱帯夜へと塗り替えられていった。
​ 翌朝。
 カーテンの隙間から差し込む、柔らかな三月の陽光で目が覚めた。
​ ふわりと漂う、直人さんの香水の残り香と、石鹸の匂い。
 横を向くと、そこにはまだ夢の中にいる直人さんの寝顔があった。
 会社で見せる凛々しい表情とは違う、少しだけ幼さの残る無防備な顔。
​(本当に、夢じゃなかったんだ……)
​ そっと彼の頬に触れようとした瞬間、ガシッと大きな手に手首を捕まえられた。
​「……捕まえた」
「っ! 起きてたんですか?」
​ 直人さんは薄く目を開けると、ニヤリと確信犯的な笑みを浮かべ、私の体を軽々と引き寄せて腕の中に閉じ込めた。
 布団の中で、彼の逞しい胸板と私の体が密着する。
​「おはよ、雪乃。……まだ、帰りたくないって顔してるね?」
「な……っ! そんなこと、言ってません」
「言わなくてもわかるよ。俺も同じだから」
​ そう言って、彼は私の額に、鼻筋に、そして唇に、小刻みに何度もキスを落としていく。
​「ねぇ、今日……会社、休んじゃう?」
「部長! ダメですよ、繁忙期なんですから!」
「わかってるよ。……でも、こうしてると離したくなくなるんだよね」
​ 直人さんは私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
 「よし」と気合を入れるように体を起こした彼は、ベッドの上で髪をかき上げ、私を見下ろして微笑んだ。
​「夜まで、会社では『完璧な上司と部下』でいよう。……その代わり、定時になったら、また俺だけの雪乃に戻って」
​ 彼の瞳には、昨夜の熱がまだ微かに残っていて。
 私は顔を真っ赤にしながら、小さく、でも幸せを噛みしめるように頷いた。

◇◆◇
​「隠しきれない残り香と、午後のミッション」

​ オフィスに入った瞬間、私は自分の「歩き方」がぎこちないことに気づいた。
 昨夜の熱がまだ体に残っているような、ふわふわとした感覚。平静を装ってデスクに座り、PCを立ち上げる。
「おっはよーございまーす、雪乃さーん」
 背後から、獲物を狙う鷹のような声がした。朝海ちゃんだ。
 彼女は私の隣に座るなり、クンクンと不自然に鼻を鳴らした。
「……あれ? 雪乃さん、香水変えました? なんか、スパイシーで……男の人っぽい匂いがする気が……」
「えっ!? そ、そんなことないよ! 柔軟剤かな、ほら、最近変えたし!」
「ふーん? 柔軟剤ねぇ。……それにしては、肌のツヤが異常にいいし、なんか『やり遂げた女』の顔してますよ?」
 朝海ちゃんがジリジリと顔を近づけてくる。
「白状してください。昨日、部長と何かありましたね? あの後、二人で消えたの私知ってるんですから」
「ななな、何もないってば! ただのご飯!」
「ご飯だけでそんなに頬が緩みます? ほら、今も部長のことチラッと見た!」
 図星を突かれて固まる私。その時、向かいの席から「コホン」とわざとらしい咳払いが聞こえた。
「朝海ちゃん、朝から賑やかだね。仕事、進んでる?」
 直人さんだ。完璧な「片岡部長」の顔で、手には分厚いファイルを持っている。
「あ、部長! おはようございます。雪乃さんがなんだか今日、色っぽいなーと思って取り調べてたんです」
「色っぽい? ……そうかな。俺にはいつも通り、真面目な部下に見えるけど」
 直人さんは真顔でそう言うと、私のデスクにそのファイルを置いた。
「雪乃ちゃん、これ。至急確認してほしい資料。……特に『12ページ目』の修正案、よく読んでおいて。返事は内線か、チャットでいいから」
「あ、はい! 承知しました!」
 直人さんが去った後、朝海ちゃんは「ちぇー、ガード硬いなぁ」と自分の席に戻っていった。
 私は心臓のバクバクを抑えながら、言われた「12ページ目」をめくる。
 そこには、付箋どころか、資料の余白に小さな文字でこう書かれていた。
『朝海ちゃんに詰められてる時の顔、可愛かった。
 ……昨日の続き、今日もしていい?
 20時に、昨日と同じ場所で待ってる。
 返事は「承認」のスタンプで。』
 ――承認。
 そんなの、即レスに決まっている。
 私は震える指で社内チャットを開き、直人さんの個人アカウントに、勢いよく「承認(済み)」のスタンプを送りつけた。
 数秒後。
 部長席の方から、短くスマホが震える音と、それから……。
 資料を読みふけるフリをしながら、口元を隠してクスクスと笑う直人さんの姿が見えた。
 
 ◇◆◇
​「20:15、チェックインの共犯者」

​ 昨日と同じ黒のセダン。
 助手席に乗り込んだ瞬間、直人さんは一言も発さず、私の後頭部を引き寄せて深いキスを贈った。
 シートベルトの金具がカチリと鳴る音さえ、ひどく扇情的に聞こえる。
​「……行き先、変更なしでいい?」
「……はい。直人さんに、ついていきたいです」
​ 直人さんは低く笑い、アクセルを踏んだ。
 向かったのは、繁華街の喧騒から少し離れた、重厚な石造りのホテル。
 「お城」というにはあまりにモダンで隠れ家のようなその場所は、日常を忘れさせるには十分すぎる空間だった。
​ エレベーターの扉が閉まった瞬間、直人さんは私を壁に押し当てた。
 チーン、という到着音と共に、彼は私の手を引いて部屋へと滑り込む。
​「……雪乃。昨日からずっと、仕事中も、このことばっかり考えてた」
​ 部屋の明かりをつける間も惜しむように、彼は私のコートを脱がせ、ブラウスの薄い生地越しに熱い肌を這わせる。
 大きな手が私の腰を抱き上げ、そのまま広いベッドへと沈められた。
​「直人、さん……っ、真っ暗で……」
「いいよ。その方が、雪乃の肌が熱いのがよくわかるから」
​ シーツの摩擦音と、重なり合う吐息。
 直人さんのネクタイが床に落ちる音が、静かな部屋に響く。
 彼は私の耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に、普段の「部長」からは想像もできないような、低く掠れた声を漏らした。
​「……今日はもう、逃がさないよ。全部、俺のものにしていい?」
​ 頷く代わりに、私は彼の首に腕を回した。
 重ねられた唇から伝わるのは、昨日よりもずっと激しく、独占欲に満ちた熱量。
 大きな手が私の肌に触れるたび、そこから溶けてしまいそうな感覚に陥る。
​ 三十路を過ぎて、こんなに誰かに求められ、求めてしまうなんて。
 暗闇の中で光る直人さんの瞳は、獲物を捉えた獣のように鋭く、それでいて私への愛しさに溢れていた。
​「……あ、なおと……っ」
「……名前、もっと呼んで。……雪乃、愛してるよ」
​ 夜景の光がカーテンの隙間から細く差し込み、シーツの上に二人の影を複雑に描き出す。
 春の嵐のような情熱は、夜が明けるまで、何度も何度も二人を飲み込んでいった。

 ◇◆◇
​「午前10:15、取り調べはコーヒーの香りと共に」 

​ 昨夜の余韻が、体の奥底に重く、甘く沈んでいる。
 直人さんの腕の強さ、耳元で囁かれた掠れた声。それを思い出すたびに、手元のキーボードを叩く指が止まってしまう。
「……雪乃さーん。コーヒー、淹れに行きません?」
 背後から忍び寄る影。朝海ちゃんだ。その声は心なしか、昨日よりも「獲物を見つけた」確信に満ちている。
 断る隙も与えられず、私は給湯室へと連行された。
 ドアが閉まった瞬間、朝海ちゃんはコーヒーメーカーのスイッチも入れず、私の目の前に立ちはだかった。
「……雪乃さん。白状してください。昨日、お城行きましたね?」
「なっ……! な、なな、何を唐突に……!」
「隠しても無駄です。今日の雪乃さん、歩き方がしなやかすぎるし、何より……その首元!」
 朝海ちゃんが指さしたのは、春コートで隠していたはずの、鎖骨の少し上。
「……コンシーラーで隠しきれてないですよ、赤い跡。部長、意外と激しいんですねぇ」
「っ……! あ、朝海ちゃん、声が大きい!」
 真っ赤になって首を押さえる私を見て、朝海ちゃんは「ひゃーっ!」と声を上げ、口元を両手で覆った。
「やっぱり! やったー! おめでとうございます! ……で、どうでした? 部長のあのお洒落なスーツの下、凄かったですか? 余裕たっぷりにリードしてくれました?」
「もう、やめてよ……。……凄かった、っていうか……その……」
「その?」
「……『余裕ない』って、言われちゃって」
 小さな声で漏らすと、朝海ちゃんは一瞬呆然とした後、机をバンバンと叩いて悶絶し始めた。
「最高じゃないですか……! あの片岡部長にそんなこと言わせるなんて、雪乃さん、罪な女ですよ!」
 その時。
 ガチャリ、と給湯室のドアが開いた。
「……何が最高なのかな。俺も混ぜてくれる?」
 立っていたのは、噂の主、直人さん。
 朝海ちゃんは一瞬で「仕事モード」の顔を作り、私にウインクをしてから、すれ違いざまに直人さんの耳元でこう囁いた。
「部長、雪乃さんのこと、大事にしてくださいね? ……跡、バレてますから」
 直人さんの肩がピクッと跳ねる。
 朝海ちゃんが嵐のように去っていった後、給湯室には私と直人さんの二人きりが残された。
 沈黙。
 直人さんは少し決まり悪そうに髪をかき上げると、私の目の前まで一歩踏み込み、コンシーラーの跡をじっと見つめた。
「……ごめん。そんなに目立つ?」
「……うん。朝海ちゃんには、完全にバレちゃいました」
 すると直人さんは、周囲を確認してから、私を冷蔵庫の陰に追いやり、耳元で楽しそうに囁いた。
「……隠すのが大変なら、いっそ『俺のものだ』って全員に公表しちゃおうか。……ダメ?」
 また、あの確信犯的な意地悪な笑み。
 でもその瞳の奥には、冗談だけではない真剣な独占欲が見えて、私はまたしても「承認」のスタンプを押してしまいそうな自分を、必死で抑えるしかなかった。
 
 ◇◆◇
​「月曜日08:50、春の嵐を連れて」

​ いつもなら、一駅前で降りたり時間をずらしたりして、細心の注意を払って出社するはずだった。
 けれど今朝の私は、直人さんの車の助手席に座っている。
​「……本当に、いいんですか?」
「何が? 俺が自分の彼女を会社まで送るだけだよ」
​ 直人さんは涼しい顔でハンドルを回し、会社の地下駐車場へと車を滑り込ませた。
 エンジンを切った瞬間、彼は私の手を握り、その甲にちゅっと音を立ててキスをする。
​「行こうか。……大丈夫、俺が隣にいるから」
​ エレベーターを降り、オフィスの自動ドアが開く。
 ざわざわとしていたフロアが、私と直人さんが「並んで」入ってきた瞬間、水を打ったように静まり返った。
​「「……おはようございます」」
​ 二人の声が重なる。
 いつもは足早に自分の席へ向かう直人さんが、今日は私の隣で歩調を合わせている。その距離、わずか5センチ。
 デスクでコーヒーを飲んでいた同僚がカップを止め、資料を配っていた先輩が動きを止める。
 そして、入り口に一番近い席にいた朝海ちゃんが、大きく目を見開いて立ち上がった。
​「ちょ、ちょっと待ってください……二人揃って? え、それって……」
​ 静寂を切り裂く朝海ちゃんの声。
 すると直人さんは、全社員の視線を一身に浴びながら、私の肩をごく自然に、でも力強く抱き寄せた。
​「みんな、朝から悪いね。……報告。俺たち、付き合ってるから。以上」
​「……っ!!」
​ フロア中に「ええええええっ!?」という絶叫と悲鳴(主に直人さんファンの女子社員)が響き渡る。
 直人さんはそんな喧騒をどこ吹く風で、「さ、仕事仕事!」と手を叩いて場を締めると、私の耳元でだけ聞こえる声で囁いた。
​「……これでよし。もう誰にも、君を『ただの部下』とは呼ばせないよ」
​ 真っ赤になって自分の席に逃げ込む私の背中に、朝海ちゃんからの「後で全・部・吐いてもらいますからね!!」という強烈な視線と、直人さんからの甘いウィンクが突き刺さる。
​ 三十路を過ぎて、こんなに派手な春の嵐に巻き込まれるなんて。
 でも、隣で堂々と微笑む直人さんの横顔を見て、私は初めて、独り残されたような寂しさから完全に解放された気がした。

 ◇◆◇
​「12:15、給湯室は取調室」

​「はい、確保! 雪乃さん、屋上か非常階段、どっちがいいですか?」
​ お昼のチャイムが鳴り響くと同時に、朝海ちゃんを筆頭に女子社員3人が私のデスクを包囲した。逃げ場はない。結局、私たちは人目の少ない社内の休憩スペースに集まることになった。
​「……で? いつから? どっちから? 何がきっかけなんですか!」
「朝海ちゃん、詰め寄りすぎ……っ」
​ お弁当の蓋も開けさせてもらえない。
「だって! あの鉄壁のガードで有名な片岡部長ですよ!? 社内の女子が何人も玉砕してきた、あの部長! 私が『部長、雪乃さんのこと好きですよ』って言ったとき、雪乃さん『信憑性ない』って言いましたよね!?」
「それは……本当にそう思ってたから……」
「昨日の今日で公表なんて、部長、相当雪乃さんに首ったけじゃないですか。あんなに独占欲全開な顔、初めて見ましたよ」
​ 同僚の香織さんも身を乗り出す。
「ねぇねぇ、告白は部長から? どんな言葉だったの?」
​ 私は真っ赤になりながら、昨夜の車内や、あの「お城」での出来事を必死でオブラートに包んで話した。
「……あの、『俺の事、好き?』って聞かれて。それで……」
「きゃあああああ!!」
​ 女子たちの悲鳴が休憩室に響く。
「何その破壊力! さすが四十路の余裕!」
「でも、公表するって決めたのは部長なんですよね? 雪乃さんの立場が悪くならないように、先に『自分の女だ』って宣言しちゃうなんて……かっこよすぎて吐きそう」
​ そんな時、ふと、休憩スペースの入り口に誰かが立った。
「……俺が何だって?」
​ 聞き覚えのある低い声に、女子たちが一斉に飛び上がる。そこには、コーヒー片手にひょっこり現れた直人さんがいた。
「ぶ、部長! 取調べ中です、邪魔しないでください!」
 朝海ちゃんが強気に言い放つと、直人さんは困ったように笑いながら、私の隣に自然に腰を下ろした。
​「あんまり雪乃をいじめないでよ。ただでさえ今朝からずっと、顔を上げてくれないんだから」
​ そう言って、彼はみんなの前で私の頭をポンポンと撫でた。女子社員たちの「ひえぇ……(尊死)」という声が漏れる。
​「雪乃、午後からの会議の資料、俺のデスクに置いておいて。……あ、あと、これ」
​ 直人さんが私の膝の上に、小さな紙袋を置いた。
「甘いもん食べて、午後の尋問も乗り切りな。頑張れ、彼女さん」
​ 中には、私のお気に入りの店の高級チョコレート。
 直人さんが去った後、朝海ちゃんが震える声で呟いた。
​「……雪乃さん。私、今決めました。今日から雪乃さんのこと『師匠』って呼びます。今の見ました!? 餌付けですよ、餌付け!!」
​ 結局、お昼休みが終わるまで、私は女子たちの興奮を鎮めるのに必死だったけれど、机の下で握りしめたチョコレートの袋が、誇らしくて、温かくて、仕方がなかった。
 
 ◇◆◇
​「21:30、公認カップルの静かな夜」

​ 結局、あの後の午後も大変だった。
 すれ違う人に「おめでとうございます」と言われたり、直人さんのファンだった後輩に恨めしそうな顔をされたり。
​ ようやく直人さんのマンションに逃げ込むように入った瞬間、背後から抱きしめられた。
​「……はぁ。やっと二人きりだ」
​ 直人さんは私の肩に顔を埋め、深く息を吐き出した。
 コートも脱がないまま、玄関先で。
​「お疲れ様でした、直人さん。……あの公表、本当にびっくりしましたよ」
「俺だって、言う前は結構緊張してたんだよ? ……でも、どうしても言いたかったんだ。雪乃が、誰のものでもない俺の彼女だってこと」
​ 直人さんの腕にギュッと力がこもる。
 リビングに移動して、ソファに二人で並んで座っても、彼は私の手を離そうとしない。それどころか、指の間を埋めるように指を絡める「恋人繋ぎ」をして、じっと自分の大きな手と私の小さな手を見つめている。
​「……雪乃の手、柔らかいね」
「直人さんの手は、すごく温かいです」
​ ただ手を繋いでいるだけなのに、そこから心臓の音が伝わってきそうで、顔が熱くなる。
 直人さんは私の指先を一つずつ、愛おしそうに唇でなぞった。
​「ねぇ、雪乃」
「……はい」
「会社では部長って呼ばなきゃいけないから、ここでは、もっと名前呼んでよ。……昨日みたいに」
​ 昨日の「お城」での、熱くて濃厚な記憶がフラッシュバックする。
 私は彼の方を向き、勇気を出して、彼の首に腕を回した。
​「……直人さん」
「……ん」
「……直人。……大好き」
​ 呼び捨てにすると、直人さんの瞳が一瞬で潤んだように揺れた。
 彼はそのまま私を押し倒し、覆いかぶさるようにして、何度も何度も、確認するような甘いキスを落とす。
​「……困ったな。指輪はまだ早いって言われたけど、これじゃ毎日でもプロポーズしたくなるよ」
​ 直人さんの手が、私のTシャツの裾からするりと入り込み、熱い肌に触れる。
「今夜は、寝かさないからね。……会社でも、ずっと我慢してたんだから」
​ 耳元で囁かれた掠れた声に、全身の力が抜けていく。
 外はまだ三月の冷たい雨が降り始めたけれど、この部屋の中だけは、真夏のような熱量で満たされていた。

 ◇◆◇
​「07:30、エプロン姿の独占欲」

​ ふわりと鼻をくすぐる、香ばしいバターとコーヒーの香り。
 重たいまぶたを開けると、隣にいたはずの直人さんの姿がない。
​「……なお、とさん?」
​ 寝ぼけ眼でリビングへ向かうと、そこには驚きの光景が広がっていた。
 シャツの袖を捲り上げ、その上からネイビーのエプロンをつけた直人さんが、手慣れた手つきでフライパンを振っている。
​「あ、起きた? おはよう、雪乃」
​ 完璧な焼き色のオムレツを皿に盛り、彼はニカッと少年みたいに笑った。
 仕事中の「デキる上司」とも、昨夜の「色気のある男」とも違う、家庭的な彼の姿に心臓がギュッとなる。
​「直人さん、料理できるんですか……?」
「一人暮らし長いからね。……でも、誰かのために作るのは久しぶりだよ」
​ 私が椅子に座ろうとすると、「こっち」と手招きされた。
 言われるがままに近づくと、彼は後ろから私を包み込むように抱きしめ、自分の膝の上に座らせた。
​「あの、直人さん……食べにくいです(笑)」
「いいの。俺が食べさせてあげるから。はい、あーん」
​ フォークで切り分けられた、ふわっふわのオムレツが口元に運ばれてくる。
 恥ずかしさに震えながら口にすると、プロ並みの美味しさに目を見開いた。
​「おいしい……!」
「よかった。……雪乃の口元にケチャップついてる」
​ 彼が指で拭ってくれるのかと思いきや、そのまま唇でチュッと吸い取られた。
​「……っ! もう、朝から……!」
「朝から、何? ……俺はまだ、足りないんだけど」
​ 直人さんは私の首筋に顔を埋め、クンクンと匂いを嗅ぐように鼻を寄せた。
​「……雪乃、今日もお揃いの匂いがする。……会社行くの、本当にやめない? 有給、俺が許可してあげるから」
「部長、職権乱用です(笑)。ほら、冷めないうちに食べてください!」
​ 結局、朝食を食べる間も、彼は私の腰から手を離さず、一口食べるごとに頬や髪にキスを落としてきた。
 常に密着して、常に甘い言葉を囁かれる。
 直人さんの「意外な一面」は、一度捕まえたら二度と離さない、底なしの深い愛情だった。

 ◇◆◇
​「08:15、玄関先での甘いストライキ」

​ スーツもしゃきっと着こなし、あとは靴を履くだけ。……なのに、直人さんは玄関の壁にもたれかかって、私の腰に腕を回したまま動こうとしない。
​「……無理。雪乃、俺今日、行けない。会議室じゃなくて、ベッドに戻りたい」
「もう、直人さん! さっきまでエプロン姿でかっこよくオムレツ作ってたのは誰ですか(笑)」
​ 困ったように笑う私を、直人さんは上目遣いでじっと見つめてくる。
「……雪乃から、やる気が出る魔法かけてくれたら頑張れる気がするんだけどな」
「魔法?」
「……チュ〜して。雪乃から」
​ あの片岡部長が、唇を少し突き出して、おねだりしている。この姿を朝海ちゃんが見たら腰を抜かすに違いない。
 私は顔が真っ赤になるのを自覚しながら、背伸びをして、彼の柔らかい唇に「ちゅっ」と短く触れた。
​「……はい、頑張ってくださいね、部長」
「……短すぎ。でも、めちゃくちゃ効いた」
​ 直人さんは一瞬で「男」の目になり、私の頭をぐいっと引き寄せて、玄関先で濃厚な「おかえし」をたっぷりしてくれた。
​「15:00、給湯室の秘密の体温」
​ そして午後。職場の空気は、朝の大発表の余波でまだどこかソワソワしていた。
 私はコーヒーを淹れるために給湯室へ。すると、背後でカチャリとドアの鍵が閉まる音がした。
​「……直人、さん……っ」
​ 振り返る間もなく、私は壁と彼の長い腕の間に閉じ込められていた。
「……朝のチュ〜のせいで、午後の会議中、雪乃の唇ばっかり見てて内容が入ってこなかった」
「ちょっと、誰か来たらどうするんですか! 鍵まで閉めて……」
「いいよ。今、みんなミーティングルームにいるから。……三分だけ、チャージさせて」
​ 直人さんは私の首筋に鼻先を押し当て、深く息を吸い込む。
​「……あ、なおとさ……っ、そこ……」
「……雪乃、いい匂いする。……もう、抱きしめるだけじゃ我慢できない」
​ コーヒーの香りが漂う狭い部屋で、彼の熱い手のひらが私のブラウスの上から腰の曲線をなぞる。
 社内というスリリングな状況が、二人の鼓動をさらに速めていく。
​「……夜まで待てない。ねぇ、今日の残業、俺の部屋でしない?」
​ 耳元で囁く直人さんの声は、今朝の「駄々っ子」とは別人の、色気たっぷりな「雄」のトーン。
 私は彼のシャツの胸元をぎゅっと握りしめて、ただただ熱い体温に身を委ねるしかなかった。

 ◇◆◇
​「20:30、夜桜の並木道にて」

​ 会社を出て少し離れた場所で合流し、私たちは直人さんのマンションへ続く桜並木を歩いていた。
 街灯に照らされた淡いピンクの蕾が、夜の闇に浮かび上がって幻想的だ。
​「……綺麗ですね、直人さん」
「本当だね。でも、俺は花よりこっちの方がいい」
​ 直人さんはそう言って、繋いだ手を自分のコートのポケットの中に引き入れた。
 ポケットの中で、彼の大きな手のひらが私の指を一本一本包み込む。
​「……雪乃、手が冷たいよ」
「直人さんのポケットの中、すごく温かいです……ふふ、なんだか学生の頃の理想のデートみたい」
「学生の頃、か……。あの頃の俺じゃ、雪乃をこんなに独り占めする余裕なんてなかっただろうな」
​ 立ち止まった直人さんが、不意に私の前に回り込む。
 風が吹いて、数枚の花びらが私たちの間に舞い落ちた。
​「……さっきの給湯室から、ずっと考えてた。……雪乃、今夜の『残業』、覚悟できてる?」
​ 直人さんの瞳が、街灯の光を反射して怪しく光る。
 彼は私の腰を引き寄せると、咲きかけの桜の木の下、誰にも見えない影の中で、深く、深く、吸い付くようなキスをした。
 外の寒さとは対照的に、重なり合う唇からは熱い火花が散るようだ。
​「……んっ、なお、とさん……外、ですよ……」
「わかってる。……だから、続きは部屋で。……もう、ウォーミングアップは終わり。いいよね?」
​ 直人さんの指先が、私の唇を名残惜しそうになぞる。
 その顔は、優しく微笑んでいるけれど、瞳の奥には隠しきれない情熱が渦巻いていて。
​「……急ごうか。一秒でも早く、雪乃をまっさらにしたい」
​ そう囁いて、直人さんは私の手を強く握り直し、早足でマンションへと向かい始めた。

 ◇◆◇
​「21:15、衝動と慈しみの境界線」

​ マンションのドアが閉まり、鍵がかかる音がした。
 その瞬間、私は背後のドアに押し付けられていた。
​「っ……なおと、さ……」
「……我慢、限界」
​ 直人さんの熱い吐息が首筋にかかり、そのまま吸い付くようなキスが鎖骨まで降りてくる。
 彼の大きな手が私のコートを乱暴に脱がせ、床に落ちる。昨日よりもずっと余裕のない、切実な力。
 重ねられた唇は、熱くて、深くて、息をするのも忘れてしまうほど。
 直人さんの舌が私の口内を支配し、身体中の力が抜けていく。
 このまま、玄関の床に沈んでしまうんじゃないか――そう思った時、直人さんがふっと顔を離した。
​「……はぁっ。……ごめん、雪乃。……ちょっと、急ぎすぎた」
​ 彼は私の額に自分の額をこつんと預け、肩で息をしている。
 瞳にはまだギラついた熱が残っているけれど、私の震える指先に気づいたのか、ふにゃりと優しく微笑んだ。
​「……寒い中歩かせたし、まずは体温めようか。……一緒に入ろ?」
​ ゆらゆらと湯気が立ち上るバスルーム。
 服を脱ぎ捨て、真っ白な肌を晒すのは恥ずかしかったけれど、直人さんは「綺麗だよ」と何度も囁きながら、私の体をお湯で温めてくれた。
​ 広い浴槽に、背後から抱き合って座る。
 直人さんの逞しい胸板に背中を預けると、トクトクと響く彼の鼓動が直接伝わってきて、それだけでまた熱が上がってしまいそう。
​「……雪乃」
「……ん?」
​ 振り返ると、すぐそこに直人さんの顔があった。
 水滴に濡れた彼の髪が色っぽくて、私は自分から、彼の唇にそっと触れた。
​「……おかわり、ですか?」
「……よくわかってるね」
​ 今度は、玄関の時とは違う。
 お湯の中で浮遊する体のように、ふわふわと甘く、溶けてしまいそうなキス。
 頬に、瞼に、鼻先に、そして唇に。
 雨が降るように何度も何度も、直人さんは私に甘い「チュー」を繰り返す。
​「……あ、なおとさん……くすぐったい……ふふっ」
「笑ったね。……やっと、緊張解けたかな」
​ 直人さんは私の肩に腕を回し、耳たぶを甘噛みした。
​「……お風呂上がったら、さっきの続き、ちゃんとするから。……覚悟しとけよ?」
​ 湿度の高い空気の中、彼の低い声が響く。
 温まったはずの体は、期待と少しの怖さで、また心地よく震え始めていた。

 ◆◇◆
​「22:15、ドライヤーの音と甘い囁き」

​ お風呂から上がり、お揃いのバスローブを纏ってリビングのソファに座る。
 直人さんは迷わず私の後ろに回り込むと、手際よく大きなタオルで私の髪を包み込んだ。
​「……あ、自分でやりますよ、直人さん」
「いいの。今日は俺に全部させて」
​ 低い声で言われ、私は大人しく彼に身を預けた。
 ドライヤーの温風が吹き付けられる。直人さんの指先が私の髪を漉き、地肌に優しく触れるたび、心地よい刺激にうっとりしてしまいそう。
​「……雪乃の髪、細くて柔らかいね。……すごくいい匂いする」
「直人さん、手つきが優しすぎて……眠くなっちゃいそうです」
「眠らせないよ? 昨日の続き、まだ一歩も進んでないんだから」
​ ドライヤーの音に紛れて、耳元でさらりと危険なことを言われる。
 やがてスイッチが切られ、静寂が戻った部屋。直人さんは私の髪を指先で一束掬うと、そこに愛おしそうに口づけをした。
​「……よし、乾いた。……こっち向いて」
​ 促されるままに体を回すと、直人さんは私の膝の間に割り込むようにして座り、私の顔をじっと見つめた。
 お風呂上がりで少し火照った彼の肌から、石鹸の清潔な香りと、彼自身の熱い体温が立ち上っている。
​「……雪乃。さっきお風呂で、髪乾かしてあげたら『新婚さんみたい』って思わなかった?」
「えっ、なんでわかったんですか……?」
「顔に書いてあった。……俺も、同じこと考えてたから」
​ 直人さんは私のバスローブの襟元に手をかけ、ゆっくりと、でも迷いのない手つきで肩を露出させた。
 剥き出しになった肌に、夜の空気が触れて少しだけ震える。
​「……もう、ウォーミングアップも、準備運動も終わり。……いいよね?」
​ 彼は私の腰を抱き上げ、そのままベッドへと私を運び込んだ。
 ふかふかのシーツに沈み込む体。見上げれば、そこには「完璧な上司」の仮面を完全に脱ぎ捨てた、情熱的で、独占欲に満ちた直人の瞳。
​「……雪乃、愛してるよ。……今夜は、一瞬も離さないから」
​ 重なり合う体温。
 髪を乾かしてくれたあの優しい手は、今度は熱を帯びて、私の全身を甘く、激しく、愛で満たしていく。

◇◆◇
​「07:00、一生分の幸せを抱きしめて」

​ 窓の外から聞こえる小鳥のさえずりと、カーテン越しに差し込む柔らかな春の光。
 ゆっくりと意識が浮上してくると、まず感じたのは、背中越しに伝わるドクドクと力強い鼓動だった。
​「……ん、直人、さん……?」
​ 寝返りを打とうとしたけれど、腰に回された腕がそれを許さない。
 昨夜「一瞬も離さない」と言った言葉通り、直人さんは眠っている間もずっと私を抱きしめていたみたいだ。
​「……起きた? 雪乃」
​ 耳元で、少し掠れた、朝一番の低い声。
 直人さんは私のうなじに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
​「……おはよう。……あー、やっぱり夢じゃなかった。幸せすぎて、起きた瞬間怖くなったよ」
「直人さんでも、そんなこと思うんですか……?」
「思うよ。……三十路を過ぎて、こんなに誰かを愛おしいと思うなんて、俺の人生の計算外だったから」
​ 直人さんは腕の力を緩めると、私をくるりと自分の方へ向かせた。
 シーツの中で重なり合う足。触れ合う肌の熱。
 目の前にある彼の瞳には、昨夜の情熱が嘘のような、穏やかで深い慈しみの光が宿っている。
​「……雪乃。学生の頃の恋は憧れだったって、いつか言ってたよね」
「はい……」
「俺にとっても、今までの恋は全部、この瞬間のための練習だった気がする。……雪乃、愛してる。これから先、何十年経っても、今日みたいに君を抱きしめて朝を迎えたい」
​ それは、どんなに豪華な指輪よりも重く、温かい約束。
 私は彼の胸に顔を埋め、溢れそうになる涙を堪えながら、力一杯頷いた。
​「……私も。私も、直人さんが大好きです。ずっと、隣にいさせてください」
​ 直人さんは愛おしそうに私の目尻を指で拭うと、誓いを立てるように、優しく、でも確かな熱を持って唇を重ねた。
​ オフィスでは秘密のアイコンタクトを。
 週末には二人で、ゆっくりと指輪を選びに。
 そして毎晩、こうして体温を分け合って眠る。
​ 三十路を過ぎて始まった、本気の恋。
 それは春の嵐のように激しく、そして、咲き誇る桜のように美しく、二人の人生を彩り続けていく。
​【Fin.】