好きな人
STUDIO SEVEN。最近有名になりつつあるアパレルブランド。学生の頃からの友人片岡直人がデザイナーのここで私はもうずっと長い事彼と一緒に過ごしてきた。
人生のパートナーと言っても過言ではないナオは、学生の頃から変わらず私の心の中にいる。でもそれを口や態度に出す事など今まで一度もなかった。あくまでビジネスパートナーを崩したくなかったなんてのは表向きで、本音は自分の気持ちをナオに気づかれたくなかった。想いを伝えて否定されるのが怖いだけ。だからナオ以外の男と適当に付き合ってきた。ナオ以上に好きになれればそれが一番だと思い今日まできたのだけれど、ナオを超える男に出会う事もなかった。
「俺さ…結婚しようと思う」
季節が秋から冬に変わり、人肌恋しい12月。大事な話があるからサシで飲みたいというナオについて行けば、飲み屋の個室の中でおしぼりで手を念入りにふいた後、そんな言葉がナオのどら焼き型の口から飛び出してきたんだ。
グラスを持つ手に力が入る。震えない様にしっかりと握るけど、全然笑えない。俯いた顔をゆっくりとあげた先、ナオが私を真っ直ぐに見ている。
「彼女…いたんだ…」
小さく聞いた言葉は私の本音で。恋愛してる感じなんて全く見せなかったナオ。だから驚いている。私の言葉に少しだけ口端を緩めたナオは、グラスの中のワインをごくりと一口飲む。
「まぁうん」
ナオらしくない自信なさ気な声に聞こえた。けれど目の前のナオが嘘をついているとも思えず、そもそも私相手にそんな嘘をつくなんて事が有り得ない。
「お…めで…と。よかったね」
カタコトの外国人みたいになっちゃったけど、それでもナオが幸せになるならなんでもいい。なんでもいいの、ほんとに。
◇◇◇
カランと木でできた重たいドアを開けて中に入る。西部劇に出てきそうなこの地下BARは、私達の行きつけで、だいたい誰かしらがここで夜を明かす。
ナオとの飲みの途中で後輩の美月からの申し訳なさそうなラインが届く。
【どうしても八木くんが雪乃さんと飲みたいって言ってて。いつものBARにいるのでもし興味があればお待ちしております】
八木くんは、新入社員の人気ナンバー1のビジュがいい子で勿論私も知っている。美月の直の後輩で仲が良いということも。
美月からのメッセージをナオに伝えると「行ってきな。俺はもう少し飲んでから帰るから」そう送り出してくれた。というかぶっちゃけ救世主だよ美月。だって自分が何を話していたのか全く覚えていないし、ちゃんと笑えていたのかも分からない。ただ目の前のナオの話す言葉に相槌を打っていただけ。お酒の味も食べ物の味も何もしない料理は生まれて初めてだ。
「雪乃さーん!」
ドアが開いたタイミングで私を迎えに来る美月。ドアが開く度に私じゃないか確認していたんだろうなって思う。コートを脱ぐとそれを受け取ったのは八木くんで、ぐるぐるに巻き付けた白いマフラーをゆっくりと解いてくれる。
「あ、いい匂い、雪乃さんの匂いだ」
子供みたいにマフラーに鼻を寄せてそう言う無邪気な八木くん。
「予定…大丈夫でした?直人さんと、でしたよね?」
「うん平気。話は直ぐに終わったから…」
三十路を手前にして振られた可哀想な女…とまでは言わないけれど、心に傷を負ったのは間違いない。涙すら流れていないけれど、心臓に刺さったナイフはそう簡単には抜けそうもない。
「…雪乃、さん…?どうしたんですか?」
目の前で美月が思いっきり顔を歪ませた。心配そうに私を見つめる美月がボヤけて見える。私の手を引いてBARの端まで寄せる美月はいつもいい女の香りがしていて心地良い。今日もそれは健在で、サラリと肩までのセミロングの髪が揺れて甘い香りが鼻を突く。
「どうもないよ」
口端を緩めてそう言うと、美月は首を横に振った。
「雪乃さん、なんで泣いてるの?直人さんと何かあったんですか?」
美月に言われて小首を傾げる。泣いてる?私が?まさか…
手で頬に触れると湿っていて…
「雪乃さん、どうしたの?」
美月の後ろから聞こえた八木くんの心配そうな声に瞬きをすると、ボヤけが取れた。それと同時に頬を伝う雫が涙なんだと理解した。
やだな私。涙なんて出ないってさっき思ったのに。別に失恋くらいどうってことないって…
ぎゅっと美月の腕を掴む。一人じゃ立っていられなくてズルズルと落ちそうになる私を八木くんの片手が横から伸びてきて軽々と支えてくれる。そのまま腕の中に包まれる様にして抱きしめられた。
さっき八木くんがいい匂いって言ってくれたけど、私なんかより八木くんの方がいい匂いじゃんね。「大丈夫、俺が傍にいる」呪文みたいにずっと耳元でそう言ってくれる八木くん。せっかくのスーツが台無し。涙で化粧もぼろぼろで、それでもそんな私を誰一人として笑わなかった。ざわつく金曜日の夜、いつものBARで私の周りだけが優しさで溢れていたんだ。