最初で最後のわがまま

 どれだけ泣いても夜は明ける。そして朝が来れば、STUDIOSEVEN本社への出勤を拒否する理由はない。

​ 鏡に映る自分の顔は、目の周りがひどく腫れていた。昨夜、美月と共に会社の外に出てからも涙は止まらず、追ってきた勇征の前でまた情けない姿を晒してしまった。
 勇征はただ静かに、私が落ち着くまでそばにいてくれた。直人さんの結婚報告で目の前が真っ暗になった時、脳裏に浮かんだのは、皮肉にもいつも私を支えてくれる勇征の穏やかな横顔だった。
​ こうして前を向いて出勤できたのは、少なからず勇征の存在があったからかもしれない。けれど、その時の私はまだ、その事実に気づかないフリをしていた。
 
​「おはよう、雪乃」
 
 ​いつものように直人さんは爽やかな笑顔で私に声をかける。その声を聞いただけで、昨夜の痛みが鮮やかに蘇ってくる。隣に座る直人さんの左手には、まだ指輪はない。それが私にとっては最後の救いであり、最大の苦しみだった。

 ​その日一日、私は完璧な秘書を演じきった。彼の婚約を心から祝福している、最高のパートナーとして。この関係を続けるには、そうするしかなかったからだ。
​ 定時を少し過ぎた頃、直人さんがデスクから離れたタイミングで、私は意を決して直人さんを追いかけて未使用の会議室へと連れ込んだ。
 
​「直人さん。少しお話ししてもいいですか」
「ん?どうした雪乃。顔色が悪いな、昨日の疲れがまだ残ってる?」
 
 直人さんは私の体調を心配する、いつもの優しい声で答えた。
 
​「私、直人さんのことが、好きです」
 
 別のことを話したらいつまで経っても好きと言えないと思い、間髪入れず言葉にした。​声が震えないように、まっすぐ彼の目を見て、はっきりと告げた。直人さんの優しい表情が一瞬にして凍りつき、そして、戸惑いに変わる。
 
​「…え、雪乃…?」
​「12年間、ずっと好きでした。直人さんのために生きるのが、私の人生でした。今、直人さんの隣にいるのが私ではないと知って、自分の人生を終わらせるくらい、辛いです」
 
​ 目に涙が滲むが、今度は絶対に溢れさせないと唇を噛んだ。これは別れのための告白。この関係に終止符を打つための儀式だ。
 
​「最初で最後のわがままを聞いて欲しいんです」
 
​私は一歩、直人さんに近づいた。
 
​「一度でいいから、壊れそうなくらい強く抱きしめてください。仕事のパートナーとしてじゃなくて、私を本気で想ってくれる男みたいに」
 
​ 直人さんの目が大きく見開かれた。彼は深く息を吐き、机に手をついた。
 
​「雪乃、気づいてやれなくて…本当にごめん」
 
 ​直人さんはそう謝罪の言葉を呟くと、私の腕を強く引き寄せ、その身体全部で私を包み込んだ。
 
​「ごめん、雪乃…本当に、本当に」
 
​ 抱きしめられた瞬間、直人さんのワイシャツの柔らかな布地と、直人さんの香りが全身を包む。頭が真っ白になり、このまま時間が止まってしまえばいいと願った。
 壊れそうなくらいに強い抱擁は、直人さんが私を深く傷つけてしまったことへの後悔と、自責の念の表れだった。彼は自分の愚かさに気づき、私をさらに強く強く抱きしめた。肋骨が軋むほどの抱擁。私の12年間の恋の終止符だ。

 ​私は、直人さんの腕の中で、そっと首元を抱くように彼の白いワイシャツに顔を埋めた。前夜、美月と化粧直しをした時に使った、少し濃い紅いルージュの跡が、直人さんのワイシャツの肩口に小さく、しかし鮮明についた。
 ​これが最初で最後の、私のわがまま。
 こんな事くらいで婚約者と直人さんとの関係が終わることはないだろう。それでも、このぐらいの痕跡は許して欲しい。
 そう心の中で言い聞かせながら、私は直人さんの腕の中から静かに離れた。

top  buck