隣りにいることが、自然になるように

 ​直人さんのワイシャツにつけた紅いルージュの痕跡は翌朝には跡形もなく消えていた。恐らく、自宅に戻ってすぐに婚約者が気付いて処理されたのだろう。直人さんは、私がルージュをつけたことにも、それが最後で最大のわがままだったことにも気づいていない。
 ただ一晩眠って、私の告白は「一時的な動揺」として処理されたらしい。彼はいつものように私を「最高のパートナー」として扱い、その変わらない態度に私は安堵と、言葉にできない虚しさを覚えた。
​ それでも前を向く時間は確実に必要だった。そんな私をひどく心配していたのが勇征だった。

 打ち上げから数日後、勇征は新作の打ち合わせで本社に来た際、私のデスクにそっとミルクティーを置いて食事に誘ってくれた。
 
​「雪乃さんお疲れ様です。よかったら今夜、少しだけ俺に時間をくれませんか」
 
 ​勇征の瞳はいつもの穏やかな笑顔の奥に、強い心配の色を宿している。直人さんのような「仕事のパートナー」としての優しさではなく、私という一人の女性に向けられた、純粋な気遣いだった。その違いが今の私には痛いほど響いた。

 ​居酒屋ではなく静かなカフェレストランで向かい合って座る。勇征は私が口を開くのを急かすことなく、ただ静かに私の話を聞いてくれた。
 
​「直人さんを無理に忘れようとしなくてもいいです」
 
 ​私が直人さんへの想いを断ち切ろうとしていることを察して、勇征はそう言ったんだろう。
 
​「雪乃さんがどれだけ長く直人さんを想ってきたか俺には想像もできない。だからいますぐ俺の方を向いてなんて言いません」
 
 勇征は一呼吸置いて、まっすぐ私を見つめた。
 
「ただ、俺が雪乃さんの隣にいることが『自然』になるように、俺が頑張ります。雪乃さんが一人で泣かないように、俺がそばにいます」
 
​ その言葉は、まるで固く閉ざした私の心の扉をそっとノックするように響いた。直人さんは、私の心に気づくことなく、永遠に変わらない「最高のパートナー」としての地位を私に与えた。
 けれど勇征は違った。勇征は私が苦しんでいることを認め、その上で自分の力で私を幸せにする努力を惜しまないと言ってくれた。
 
​「勇征…」
 
​ 勇征の真剣な眼差し、隠し立てのない真っ直ぐな言葉を信じてみたい。このまま一人で直人さんを想い続けるより、勇征の優しさに身を委ねて、新しい人生を歩み始めるべきだ。直人さんへの想いを断ち切ると心に決めた今、それは私にとって、前に進むための唯一の道だった。
 
​「…ありがとう勇征。私、勇征と向き合ってみる」
 
​ そう告げた瞬間、勇征の顔に今日一番の明るい笑顔が咲いた。
 その日から、私と勇征の新たな関係が始まった。

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