決定的な光景
勇征との関係は順調に進んでいた。ほとんどの週末には約束をして、お互いの時間を共有する。勇征は決して急かすことなく、いつも私のペースに合わせてくれた。そんな穏やかな日々が、私が直人さんを忘れ、勇征を好きになるための必要な時間なのだと信じていた。
そんな勇征と夕食の約束をしていた日だった。直人さんがオフィスで突然、高熱を出して倒れてしまったのだ。
「直人さん、大丈夫ですか?婚約者さんに連絡取りましょうか?…」
私は心配して尋ねたが、直人さんは苦しそうに顔を横に振った。
「いや大丈夫だよ。薬飲んで少し寝れば治ると思う。でもごめん、あとは雪乃に任せてもいいかな?」
タクシーで帰って行った直人さんの家には婚約者がいるかもしれない。それなのに、直人さんが倒れたという事実は、12年間彼の秘書であり続けた私の身体を反射的に動かした。
『勇征ごめん。直人さんが急に体調を崩してしまって…今日はキャンセルさせてください。本当にごめんなさい』
そうメッセージを送り、私は看病に必要なものを手に、直人さんの住む都心の高級マンションへと向かった。
エレベーターを降り廊下を歩く。直人さんの角部屋のドアの前まで来た時だった。
カチャリ。内側から玄関が開く音がして、一人の女性が姿を現した。細身で品のいいカジュアルなワンピースを着た、とても美しい女性だった。彼女はドアの内側にいる直人さんに笑顔で話しかけている。
「じゃあ明日また来るね。無理しないで、お大事に」
「ああ、ありがとう。助かったよ」
直人さんの弱々しいけれど親密な声。
二人が一緒にいる場面を見てしまい、私は思わず足を止めた。彼らは私に気づくこともなく、女性は直人さんにそっと頬にキスをし軽く手を振ってエレベーターの方へ向かい始めた。
その光景を見た瞬間、私の胸の奥は、ちくりとも痛まなかった。
あれ?どうして?
直人さんを想ってきた12年間であれば、嫉妬と胸が張り裂けるような激しい痛みに苛まれたはずなのに。婚約者と仲よさげに話している直人さんを前に、私の心は驚くほど静かだった。
ついいつもの癖で、直人さんの所へ来てしまったけれど、プライベートの直人さんに私は必要ないのだ。直人さんの隣には、もうちゃんと「パートナー」がいる。公私の区別は直人さんによって既に明確に引かれていた。
その事実を突きつけられ、ようやく私の心は直人さんから完全に解放された。そして、その反動で、今、誰が必要なのかが痛いほどよくわかった。
こんな時、いつだって私が一人で泣かないようにと抱きしめてくれていたのは、勇征だった。泣くために勇征が必要なんじゃなくて、私が心から満たされて幸せになるために勇征が必要なんだ。
勇征の優しい笑顔、大きな手、そして、まっすぐな瞳。今、会いたいのは、勇征しかいない。
その場に立ち尽くしたまま、私は震える指でスマートフォンを取り出し、メッセージの履歴から勇征の番号を探した。
【勇征ごめん。やっぱり、今すぐ逢いたい】
そう電話をかけたいのに、着信音は鳴らなかった。代わりに、背後から驚くほど近い声が聞こえた。
「雪乃さん…?」
振り返ると、そこには息を切らした勇征が立っていた。約束をキャンセルされても、私のことが心配で、直人さんの自宅まで来てくれたのだろうか。
「勇征…」
毎日会社で顔を合わせていたというのに、今目の前にいる勇征は、まるで別人のように愛おしくて、私の心を占める全てだった。どうしようもなく勇征を好きな気持ちが溢れて止まらない。直人さんへの想いが消えた分、その全てが勇征へと流れ込んだように感じた。
勇征は、私のただならぬ様子と、私が直人さんのマンションの前に立っている状況を見て勘違いした。
「やっぱり…直人さんが、雪乃さんを泣かせたんですか?俺がいるのに…!」
勇征は、今も私が直人さんのために泣いていると思い込み、悔しさと怒りに顔を歪ませた。
その誤解を私は涙を流しながら訂正した。
「違うの…!違くて、勇征、違うの…。私、今、直人さんのことで泣いてるんじゃない…」
一歩、勇征に近づき、私は戸惑っている勇征の胸に飛び込んだ。彼の身体の温かさが私の全てを満たしていく。
「勇征のことが…好きすぎて、泣けてくるの」
そう。私の涙は、もう失恋の涙ではない。それは、やっと本物の愛に辿り着けた、歓喜の涙だった。
クリスマスを翌日に控えたイヴに、私は勇征に心の底からの告白をした。