マリヒュ







貴方を殺す夢を見た


沈んでいく。
落ちて、落ちて、落ちて、最後にはなくなってしまうんじゃないかと錯覚するほどに深く沈む。沈み続けて、しばらくしてからやっと底に辿りついたようで、ぼんやりと地の底が視界に浮かび上がってくる。
今まで真っ暗だった視界が晴れていくのと同時に、だんだんと息が苦しくなる。肺から空気が根こそぎ持っていかれる。上へ上へと登っていく空気の泡が恨めしい。何も好きでこんな地の底にいるわけではないというのにどうしてこんな目に遭わなければいけないのだろうか。
体中の空気が全てなくなって、そのまま地中に埋まってしまうそうだ。
沈んで、沈んで落ち切った先でまだ沈む。空の海。
落ちる先なんてもう分からない。落下と共に空気が凍てつき、出来もしない呼吸で肺から凍りつく。指から順番に凍りついてバラバラと指ごと溶けていく。僕の指が水になる、消えてしまう。
手が消えて、今までずっと一人で抱えてきた、重たい物全てが落ちていく、失われていく。手の中からみんな溢れて、地位も、名誉も、友人も、恋人も、家族も、みんな、みんな、なくなってしまう、いなくなる。取り零してしまう。
地中に埋まっているのか水に溶け込んでいるのかもはや分からない。指の先から、足の先から全てが失われていく。
失われた身体とともに今まで体を支えていた地面まで失ったような気さえする。体が溶けていくのと同じ速度でゆっくりとじわじわと地中に叩き落とされる。

次の瞬間、突然視界が真っ白になった。ついさっきまでは溶けてなくなっていた手も、腕も、身体も、すべてが元通りに戻っている。おまけに両手はいつの間にやら何かをしっかりと握りしめている。真っ白な視界の中ではその握りしめているものがなんなのか分からないが、人の肌のような独特の暖かさとべたつきがある。
ゆっくりと戻る視界に信じたくないものを見た。指が動かない。爪がぎちぎちめり込んで苦しそうな顔がどんどん力をうしなっていく。放さなければいけないと理解はしているのに指が動かない。まるで指先が、手が、腕が、石像になってしまったかのように固く、自分の意思が全く効かない。抵抗するように手首に指が絡みつく、お願いだからそのままこの腕を引き剥がしてくれ、僕はこんな事をしたくはない。
貴方を傷つけたくなんてない、苦しめたくなんてない、叶うのなら、優しいまどろみのなかで、ゆったりと、気の安らぐように過ごしてもらいたいんだ、お願いだから、この手を乱暴に引き剥がして、傷付けるなら、傷付くならどうか僕だけで。
絡みついていた指先がとうとう力を失い何の抵抗もしめさなくなる。ぐたりと体を横たえたまま息をやめ、瞳が光を失っていく。
ああ、僕はこの人を殺したんだ。僕が。僕が?

「ヒューバート!」
誰かの声で目が覚める。夢でよかったと思いながらサイドボードに置いていた眼鏡をかけた。目の前で心配そうな表情を浮かべるのはさっき夢で見た顔だった。
「大丈夫か?だいぶうなされていたぞ」
動揺を隠すように空気を吸い込む。深く、ゆっくりと吐き出して落ち着いてから口を開く。
「……平気です」
「そんな真っ青な顔して大丈夫なんて言われても信用できんな」
「少し、夢見が悪かっただけですから」
「どうした、随分と素直だな」
「失礼ですね、僕はいつも素直ですよ」
「どうだか」
ベッドに腰を下ろした男の背に触れてみる。温かいし触れる事だってできる、少なくとも死んではいない。まさか本当に自分が殺したとは思っていないし、夢で起きた事が現実に影響するなんて非科学的な事が起きるとは思っていなかったが、少なからず安心したのは事実だ。夢であっても親しい人、とりわけ好意を抱いている人を傷つけるのは良い気持ちがしない。
「どうかしたのか?」
「なんでもありません」
「気は進まないだろうがもう少し寝ておけ、顔色が良くない」
「………あの、眠るまででいいんですが側に、いてくれませんか?」
「安心しろ、起きるまで側にいてやる」
「すみません」
「そうやって甘えられると俺も嬉しいんだ、謝られるとまるで俺が迷惑しているみたいだろう?」
茶化すような声に安堵を覚えた自分に困惑しながらもそうですね、と苦し紛れに言葉を吐きだした。吐きそうなくらい気持ちが悪い、僕はこの人を、この人を殺したんだ。
「大丈夫か?本当に顔色が悪い、具合が悪いようなら医者にかかるか?」
「いえ、本当に平気です。夢の中で人が死んだんです、大切な人が。僕が、殺した」
貴方が、とは言えなかった。言ってしまえばすべてが壊れてしまうような気がして言葉にできなかった。夢の中の話とはいえ、人の死が重くのしかかる。軍人になると決めた時に覚悟はしていたが敵国の名前も知らない人間を殺すのと、恋人を殺すのとでは訳が違う。
殺した、と口に出した瞬間、取り返しのつかないことをしてしまったような気がして手をギュッと握り込む。爪が食い込むほどに固く握った手がじんじんと痛む。もう何も傷付けないようにときつく握った手を解かれ、両手で包みこまれた。よく知った優しい感触に恐怖が和らぐ。そこに至ってようやく自分が感じていた漠然とした不安が、また大切な人を失うかもしれない恐怖だと悟った。
「大丈夫だ、お前は誰も殺してない。」
小さな子供に言い聞かせるかのように、ゆっくりと、大きな声ではっきり告げられる。その言葉で止まっていた思考が動き始める。
「もう寝ろ、なんなら添い寝してやろうか?」
いつもならここで何を馬鹿なことを言っているんですか、とか貴方に添い寝してもらわなくても一人で寝れます、と答えるのだが今はとてもそんな憎まれ口をたたけるような気分ではなく、少し言いよどんでから結局小さな声でお願いしますとだけ答えた。添い寝してやろうかと言った当の本人もまさか肯定の返事が返ってくるとは思っていなかったようで、驚いてはいたがすぐに横になってくれる。当たり前のように差し出された腕を枕がわりにして一緒に横になった。今度こそ自分がこの人を絞め殺してしまうんじゃないかと怖くなり服をぎゅっと握り締めれば大きな手が頭を優しくなでてくれた。何も言わずにただ頭をなでてくれるその手は暖かい。
「マリクさん」
「なんだ?」
「……なんでも、ありません」
手をつないで下さいという喉元まででかかっていた言葉を飲み込んだ。僕はこの人に対して求めすぎている。甘え、すぎている。手をしっかり握っていてくれれば誤ってもこの人を締め殺してしまうことなんてないだろうと思ったが、ただでさえ睡眠を邪魔してさらには添い寝までしてもらっているのにこれ以上迷惑をかけるべきではない。口に出せばマリクさんは迷惑だと思っていないと言うのだろうが、そんなはずがない。
マリクさんがこうまでしてくれてはいるが、このまま眠ってしまうのが怖くて仕方がない。また悪い夢の中で誰かを殺してしまうかもしれない、僕が誰かを手にかけなくとも大切な人が死んでしまうかもしれない、そんな気がしてならないのだ。所詮夢の話で、夢の中で誰が死んだところで現実に死ぬわけではないし、ましてや見る夢なんて選べやしない。今から眠って必ずしも悪夢を見る、なんてことはないのは分かっているつもりだが、それでも眠る気にはなれない。
しかし眠りたくないのと眠いのは別問題で、次第に瞼が重くのしかかってくるが、閉じそうな瞼を無理やりこじあけて必死に耐える。最初はそれでなんとかなっていたが時間が経つにつれ、そうもいかなくなってきた。
深呼吸を一つ。眠りたくないのに無情な睡魔に負けてしまうそうだ。
「眠りたくないのか?」
返事の変わりに視線を合わせ、肯こうとしたところで欠伸が漏れる。欠伸のせいで涙まで出てきた。欠伸が収まってから気を取り直して小さく頷けば、納得はしていないが理解はしているといった様子でまた優しく頭を撫でられた。
眠ろうとする度に先の夢の中のマリクさんと視線が合う。目を開ければそこには優しく笑うマリクさんがいるのに、目を閉じればそこにいるのは青白い顔で恨めしそうにこちらを見ているマリクさんだ。
耐え切れない。冷水でも被って頭が冴えればこの眠気も悪夢の名残も消えるだろうか。
「少し、頭を冷やしてきます」
上手に笑えたと思いたい。できるだけ自然に、心配なんてかけないように心がけたつもりだったが本当に上手くいっているのだろうか。
ベットからスルリと抜け出し、マリクさんと目も合わせないまま脱衣所へ向かう。あの視線に絡められてしまうときっと動けなくなってしまう。
あんな夢のせいでかいていた汗も流せて一石二鳥だと思いながら、脱衣所で手早に服を脱ぎ捨てる。思い切ってシャワーの蛇口を捻れば予想以上に冷たい水に身体が強張るが、じっとしているうちにその冷たさに慣れてくる。冷たくないわけではないが我慢できない程ではない。頭から冷水を思い切り浴びれば頭の中がすっとした。身体の芯まで冷えきっていく。
同時にあの手のひらのべとついた感触が蘇ってくる。あの人を殺したのは紛れもなく僕だ。
「ヒューバート!何やってるんだ!!」
急に腕を掴まれ冷水の下から引きずり出される。いつの間に入ってきたのだろう、全く気が付いていなかった。ぼーっとしていて僕が気づいていなかったんだろうが、逆にそこまで集中力を欠けさせるほどに、あんな夢なんかにダメージを受けてしまっていたのかと思うと笑えない。
目の前でマリクさんの服が水分を吸って重く色を変えた。掴まれた腕の、マリクさんが触れているところだけが、熱い。
「様子がおかしいからと思って見に来てみれば、水なんか被って何やってるんだ!」
頭が回らない。手のひらだけが無性に暖かくべたついて、何もかもがわからなくなる。暖かい手のひらには今、何もないはずなのにいつまでもマリクさんの首の感触だけが残っていて。その感触だって夢の中の話で本物なのかもわからないのに。僕が、
「貴方を、殺した」
言うつもりなんてなかったのに口をついて出た言葉はもう取り返せない。
不思議そうな顔をしたのは一瞬ですぐに何もかも見透かしたように自慢げに笑う。
きっと今の一言で全て見透かされた。もっと前に大切な人を殺したと言ってしまっているのだ、この状況ではその大切な人とはマリクさん以外の誰でもありえない。自ら墓穴を掘っている気分だ。いや、気分などではなく確実に自分で墓穴を掘っている、平常心だとかそういった普段ならあるものがきっとどこかへ行ってしまったのだ。もしかしたら僕が殺したのはマリクさんではなく自らの平常心だったのかもしれない。
「俺がそう簡単に死ぬと思うか?」
「でも……」
確かにさっきこの人は僕の目の前で、僕の手の中で、死んだんだ。
「大丈夫だ、俺は死なない」
熱に浮かれたみたいに頭がふわふわする。この人は何の根拠があってそんなことを言っているのか全く理解できない。
「そうだ」
これは何か良くないことを思いついた子供の顔だ。この顔を見たあとに、僕にとっていい事が起こることのほうが少ない。近づいてくる顔を止めようと手を伸ばしたがその手を捕まれ、額にキスをして悪戯好きの子供の顔は離れていった。
「良い夢が見られるおまじないだ」
「何バカなこと言ってるんですか」
「失礼な奴だな。俺のおまじないはよくきくんだぞ」
いつの間にかすっかりとマリクさんのペースに乗せられて、笑っていた。悪い夢のあとで何もかもを悪い方向に考えすぎてしまっていたようだ。
「ほら、ベットにもどるぞ」
この人にだけはいつまでたっても敵わないなと思いながら冷え切った身体を拭いて服を着る。一足先にベットへと戻っているマリクさんから声がかかる。
「なんなら一晩中トランプでもやるか?俺は強いぞ」
「誰かさんが僕が起きるまで傍についていてくれるそうなので今日は遠慮しておきます」
冷たい身体を布団の中に潜り込ませれば、中は痛いほどに暖かかった。
「随分と冷たい湯たんぽだな」
「じゃあ貴方が温めてください」
「任せろ」
言葉が帰ってくるのと同時にぎゅっと抱きしめられる。熱すぎない人の熱が心地よい。暖かくなればなるほどにまた睡魔がひょっこりと顔を覗かせる。次第に瞼が重くなり、目を開けていることの方が困難になり、訪れた睡魔に素直に身を任せることにする。



起きた時には隣に大切な人がいるから、もう怖くない。











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