ミナ山
「山田さん、僕の練習見てもらえませんか?」
「いいけど俺は厳しいぞぉ」
茶化して口にした言葉はそれほど本気でもなく、かといって全てが冗談というわけでもない。誰が相手だろうがダメなところはダメだし、褒めるべきところは素直に褒めるべきだ。
今なら誰もいないみたいなので今からでも大丈夫ですか?と聞かれたまでは別に良かった。皆に内緒で上達したい、形はどうあれそんな向上心は持っていた方がいい。
「山田さんのプリズムショー見たいんですけどお願いできませんか?」
「い、やだ」
「リンクは、怖いですか?」
今まで誰も何も言わなかったから、これからもずっとそうなんだと思っていた。プリズムショーは練習の手本に跳んでみせるのとは違う、誰かのためのプリズムショーにはどうしたって過去が付きまとう。
今だけ、ほとぼりが冷めるまで、と思っていたら、いつの間にか跳べなくなっていた。それが普通で当たり前で、跳ばなくてもそれなりに楽しくてそれなりに面白くなかったから、それでいいと思っていた。もう自分には必要がないんだと、とうに失くしてしまったものだからと諦めてしまっていた。だから今更、向き合えない。
大好きだったはずのプリズムショーは相変わらずキラキラと輝いているのに、自分だけが過去に足を取られてあの場所から動けないでいる。手を伸ばせばきっと届くのに、手を伸ばすことすらしなかった。そんなぬるま湯のような毎日も、何年も続けばそれが当たり前になって、もうそれで良かったのに、どうして今更。
「お願いします、山田さんのプリズムショーどうしても見たいです。……ダメ、ですか?」
「……分かった、みんなには内緒だぞ」
どうにもミナトのこの顔に弱い、駄目ですか?と疑問形で言われるとなんとなく駄目だと言ってはいけない気がしてくる。惚れた弱みなのかもしれない。
手本に少し跳ぶこともあるかもしれないと思って持ってきた靴に足を入れれば、真夏だというのに冷や汗がでてくる。大丈夫、観客はミナトだけだ。過去の事を事実だと信じている奴はここにはいないし、心無い野次も罵倒も嘲笑も絶対にない。乾いた唇を舐めれば口の中に血の味が滲んだ気がした。
足が竦む、野次なんて聞こえないはずなのに、ミナトがかけた音楽は何度も聞いた曲で身体に染み付いているはずなのに、手が上手く動かない、足が遅れる、自分の身体なのに思い通りにならない。
心臓がうるさい、内蔵が痛い、四肢がバラバラになって飛んでいってしまいそうだ。目が霞んで視界がぼやける、着地点さえ見えないのに何故かこけたりしないし、ふらついているようにも思えない。頭がクラクラして倒れそうなのに、何故か身体だけが勝手に動いている。
沢山の目が、冷ややかにこちらを見つめて、あの人気は偽物だと笑っている気がする。金と身体で手に入れた、寂しいトップスター。頭の中に新聞記事とテレビの報道がフラッシュバックする、苦しい。こんなに苦しいのに、歌えない、踊れない、プリズムショーなんてとても、出来ない。跳べるはずが、ない。
視界の端で緑色がチラチラと揺れて、目が眩む。勝手に動いている身体がジャンプを跳んでいるはずなのに、何をしているのか分からなくなる。寮生に教える時に飛ぶのは平気だったのに、これが練習ではなくてプリズムショーだと思うと途端に怖くなる。
他の誰に何を言われたっていい、でもミナトには、失望されたくない。
吐き気がする、胃の中のものを全て出してしまえば少しは楽になれるのだろうか。ぶつ切りで脈絡のない思考、音がもうほとんど聞こえない、ぼやけて何を見ているのかもわからない、視覚も聴覚もおかしくなってしまっている気がする。酸素が足りない、吐き出す息は白くて煙のように消えていくのに、肉を伴ったこの身体が消えてしまう事はない。
ピンと伸ばした指先の感覚がない、そこに確かに肉はあるはずなのに自分のものではない気がする。そこで指を曲げると綺麗に見えない、と口に出そうとして誰に向けての言葉なのか分からなくなった。
足元からゆっくりと氷水に浸かって、神経が死んでいっているような感覚。どうして凍りついていないのか不思議な程に寒いのに、何故か身体は動いていて、肉体の操縦権を誰かに乗っ取られたようだ。
一層の事本当に誰かがラジコンを操作するように、プリズムショーを代わりにやってくれればいい。そうすればこんなに苦しい思いなんてしなくて済む、そうすれば何も心配する事なんてなくなる。たった一枚の写真と記事に振り回されたりなんてしなくてもいい、血液が沸騰するような怒りに支配される事も、内蔵が抉られるような苦しみを味わう事もなくなる。
遠くに聞こえていた音が鳴りやんで、ぼんやりした頭を引きずってリンクの外で座っているミナトの前まで戻れば、ミナトが手を叩いていた。
大きく深呼吸してみれば徐々に音が戻ってくる、たった一人の拍手を聞いても、ミナトの目を見るのが怖い。きっと腕が上がっていなかった、きっと声が出ていなかった、きっと足が上がっていなかった、きっと音楽と合っていなかった、きっとひどい顔をしていた、ジャンプを跳べたのかも記憶にない。
とてもじゃないがこんな状態で人に物を教えられるとは思えない。ミナトだってこんな男が過去のプリズムキングなのかと呆れてしまっただろう。
「すごかったです!!」
ミナトの言葉に顔を上げれば、キラキラとした二つの瞳がこちらを向く。
「すいません、顔色あんまり良くないですね。無理させちゃいましたか?」
「気にするな」
「でも、山田さんすごかったです!また、プリズムショーはやらないんですか?」
何度も聞いた言葉を頭の中で繰り返す。答えはいつだって決まっている。
「また、気が向けばな」
イエスでもノーでもない言葉は、期待する程の熱量を持たず、失望する程のものでもない。プリズムショーから逃げたくせにプリズムショーの事は嫌いになれなくて、プリズムショーにしがみついてようやくここに行き着いた自分にはちょうどいい言葉だ。すごかった、なんて言われても自分では何をやっているのか分からないのにまたステージになんて立てるはずがない。
「山田さん、僕いつまでも待ってますから」
何を、と口にしようとして、言葉にならなかった。舌が麻痺しているような気がする。
ミナトの横に座ったままの体制で、身動きも取れないままに冷たい空気を肺いっぱいに吸い込めば、肺が刺すような痛みに襲われる。
「僕は先にステージで待ってますから、いつか気が向いたときにきてください。山田さんと一緒にプリズムショーしてみたいです」
期待でも羨望でも落胆でも憎悪でも侮蔑でもない、ただ気遣うような優しい瞳。ミナトに手を握られている事にも気付いていなかった自分の余裕の無さに今更気が付く。
ミナトが触れたところから熱が伝わって、リンクの上で凍りついた身体がゆっくりと溶かされていく。この優しさに、惚れ込んだんだった。
自分のためではなくて誰かのためのプリズムショー、自分のためではなくて誰かのための料理、それを他人に押し付けない優しさ。もう一度深く息を吸い込めば、今度は冷たい空気で頭まで冴え渡る。
ついさっき鈍って失ったものが少しずつ身体に戻っていく感覚、ミナトの声を聴く聴覚も、ミナトに触れる触覚も、ミナトを見る視覚も、動かない身体も、少しずつ正常に戻っていく。
ステージの上は怖かった、ステージの上にいたくなかった、ステージの上は苦しかった、ステージの上は寂しかった。好きの声よりも嫌いの声の方がより大きく心を抉っていく。ファンだと言う名前も知らない他人が、それぞれが見たいと思う架空の山田リョウの名前を呼んで、自分が擦り切れていくような気さえした。プリズムショーではなくて、プリズムキングという肩書きだけが求められ、事実でもないことを騒ぎ立てて勝手に失望して、勝手に期待してそんな声にうんざりしていたのに。
人間の策略がひとつ挟まっただけで運命の女神に見捨てられたんだから、もう次はないと思っていたのに、ミナトが望むのなら今はまだ踏み出せなくても、いつか一緒にステージに立てたならと夢をみてしまう。儚くて眩しい夢、手を伸ばせば消えてしまうのかもしれないけれど、それでもこの夢をミナトと一緒に追いかけてみたいと思う。
「ミナト」
「はい」
「……生意気、次のプリズムキングが鷹梁ミナトくんだったら一緒にプリズムショーをしてやろう」
「頑張ります、山田さんこそ今からちゃんと練習しておいてくださいよ。現役プリズムキングの横でプリズムショーしてもらいますからね」
ありがとう、というには何故か照れくさくてつい茶化してしまう。久しぶりのプリズムショーの観客がミナトで良かった。じんわりと溢れてくる涙を隠すようにミナトの肩に寄りかかれば、横から練習の前にあったかいココアでも飲みませんか?と声が聞こえる。まだ何もしてないのに休憩かと笑いながら靴紐を解いて、プリズムスタァからただの寮長に戻れば、ミナトもそうですねと笑った。
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