ミナ山/鷹梁先生アンソロ寄稿
なるべく音を立てないように鍵をあけ、扉をあける。先に寝ていてほしいと連絡をしてあるが、連絡をしていても起きている時は起きているし、連絡をしていなくても寝ている時は寝ているのでよく分からない。真っ暗な廊下に明かりを灯し、また鍵をかけるがしんと静まり返った部屋の中から声が聞こえることはない。本当ならもっと早く帰ってきて一緒に夕飯が食べられるはずだったのに、という恨み言を口にすれば、仕方ないなと言って笑った山田さんの顔が脳裏に浮かぶ。
ちょうどお互いに休みが取れたし、折角だからと言って祝う事にしたはずの、付き合いだして一年の記念日は病院からの急な呼び出しの電話によって泡と消えた山田さんの好きな料理ばかりを並べる予定だった食卓にはその為に買ってきた材料だけが寂しく取り残されているし、シンクの三角コーナーには山田さんの夕食になったのだろうインスタントラーメンの細かい麺が残されている。
今日人からもらったばかりの紙袋の中身を確かめもせずに机の上に放りだして、山田さんの姿を探すがどこにも見当たらない。先に寝ているのかもしれない、と寝室にしている部屋の扉をそっと開ければベッドの上に人影が見える。
シャワーは明日の朝でいいか、と早々に諦めてしまって、部屋着に着替えてから寝室に足を運べば山田さんはベッドの中で眠っていた。山田さんがギュッと抱きしめて眠っている抱き枕にさえ嫉妬してしまう心の狭さに笑いがこみ上げるが、一緒に買い物に行ったときに「ミナトくん二号」という名前にすると言いながら買っているのを見ているからこそ嫉妬してしまうのかもしれない。
起こさないようにそっと抱き枕を腕の中から引き抜いて、抱き枕が横たわっていたスペースに身体を横たえれば疲れも吹き飛ぶような気分になる。起きてしまわないだろうかと少しだけ躊躇いながらも我慢できずに頬に手を伸ばし、髪に触れた。小さく声が上がり、瞼がゆっくりと瞬きを始め、大きく長いあくびをするのを見つめながら、起こしてしまったという罪悪感に苛まれる。
「すいません、起こしましたか?」
「んー、違う。……ミナトだ、おかえり」
へにゃ、と柔らかく笑う山田さんに釣られて笑みを返せば眠そうにまぶたを擦りながら、大きな深呼吸が返される。
特に意味もなさそうなうめき声と共に近づいてくる山田さんの顔にぎゅっと目を瞑れば、鼻を摘まれて耳元で期待した?と囁く声が聞こえた。
「しました」
笑うような鼻息が耳元で聞こえたかと思えば、すっと身体を引いた山田さんが後ろへと下がっていく。ぼんやりと眺めていればそのままベッドから降りてどこかに行ってしまうような気がして心が波立つ。
「どこ、行くんですか?」
あ、と思った時にはもう遅い。指先は山田さんの部屋着をしっかりと掴んで離さないし、引き止めたいというわけではなかったのに引き止めるような形になってしまう。こんな変な時間にベッドから抜け出して行くような場所なんて限られているのに、つい手を伸ばしてしまった。
「ミナトは可愛いなぁ、トイレ行ってくる。すぐ帰ってくるから待ってろよー」
別に整えていたわけではないから構わないけれど、まるで大きな犬にでもするみたいに頭をくしゃくしゃと掻き回されて、額に唇が触れる。
「それともタカハシ先生は寂しくて待てない?」
「待てませんけど待ってるので早く帰ってきてください」
人の頭を撫でるだけ撫でたら満足したのか、それともただ飽きただけなのかふらりと離れていく山田さんの腕をつかもうと手を伸ばしそうになっていた自分に気がつく。
待っていると言ったばかりなのに情けない、と自分の行動を笑いながら大人しく帰りを待っていれば、帰ってきた山田さんの手には見覚えのある紙袋が握られていた。
「仕事行ってこんな時間に帰ってきたのにワイン買いに行く時間あったんだな」
袋の中身をのぞきながら今から飲むのはちょっと無理だけど、明日の夜時間あったら飲むか?と笑いながらワインの瓶に口付ける山田さんは控えめに言ってもかっこいい。
「その中身ワインだったんですか?」
「あれ、ミナトのじゃない?」
職場で今日貰ったばかりで中身の確認もせずにとりあえず持って帰ってきていた袋の中身はワインだったようだ。職場で貰うものは美味しいと評判だったから買ってみた調味料やお菓子が多かったので、今回もてっきり瓶にはいった調味料かと思っていた。ワインを好きだと口外した記憶もなければ飲みの席でも特に注文したりはしないので、どうしてワインだったのか気にはなるが気にしても仕方ないだろう。
案外人から貰ったものの飲めないからくれたのかもしれないし、料理に使うと良いと評判のものなのかもしれない。
「人にもらったものなので中身は知らなくて」
「悪い、先に開けた」
「大丈夫です、今度一緒に飲みましょうか」
「……ミナトこれ女の子から貰った?」
「えっ?確かに女性からもらいましたけど」
「今度タカハシ先生のおうちで一緒に飲みたいですってメモ入ってる、見なかった事にするから女の子呼んで二人で飲んでもいいぞ」
「飲みませんよ、今度会った時に断っておきます」
別にいいのに、と笑いながらワインを眺めている山田さんを引き寄せて、手の中から奪いとったワインは割れないように気をつけながら床に置いたが倒れてしまったようでゴトリ、と大きい音がなる。抱きしめた山田さんの身体からはほんのりとトイレに置いてある芳香剤の香りがする。嫌いな匂いでもないが別に好きでもない。首筋に頭を埋めて深呼吸をすれば、ボディソープと体臭の混ざった慣れた香りが鼻を掠める。
「おかえりなさい」
「ただいま……っていつもと逆だな」
「そうですね」
腕のなかからするりと抜け出す山田さんの行く先を追えば、体勢を変えたかっただけのようでどこに行くわけでもなく、さっきと変わらず腕の中にいてくれる。ベッドの上に押し倒されるがままに倒れれば、人の身体の上でくつろぎ始める山田さんの体重が少しだけ重くて、その分だけ幸せな気持ちが湧き上がる。
「今日は遅くなってすいませんでした」
「お互いに約束が守れなかった理由が仕事の時は謝らないって約束しただろ」
ここがシワシワになるぞ、と楽しげに笑いながら眉の間をぐりぐりと押してくる山田さんの指を捕まえて、指を絡めた。確かにそんな約束もしたが、だからといって偶然とはいえ二人で祝おうと思っていた記念日のために用意したほとんど全てが無駄になったのを謝らなくてもいいとは思えない。
「でも」
「でもじゃない」
今度は捕まえている指とは反対の手が伸びてきて、額を軽く弾かれる。
「どうしても気になるなら今度美味しいご飯作ってくれればそれでいいから」
「……はい」
最初から怒ってもいない山田さんの優しい妥協案で、何となく話がまとまったような気持ちにはなるが何も解決していない。そもそも怒ってもいないのに許すも許さないもないだろうし、自分が逆の立場だとしても怒らないでまた今度、と言うだろうからこれ以上話を続けても意味がないだろう。
「明日は朝から病院?」
「昼からです、山田さんは?」
「朝から、でもミナトは朝起きてこなくていいし弁当も作らなくていいからな」
でも、と言いそうになって口をつぐむ。こういう時にでも、と言葉を続けて受け入れてもらった記憶がない。今度こそという淡い期待がないわけではないが、急になくなってしまった休日のせいで連勤記録を更新しそうな我が身を鑑みれば到底受け入れてもらえるとは思わない。料理が苦手な恋人の為に食事を作りたい、というささやかな希望は病院の激務と両立させるのが難しい。
はい、と返事を返せば山田さんの腕が伸びてきて、いい子だといいながら頭を撫でていく。今度の休みには山田さんの好物ばかりを並べて、過ぎてしまった記念日を祝おうと密かに心に誓い、山田さんの背中にそっと手を回す。
「今何時?」
何もやましいことなんてないはずなのに、どうしてか後ろめたく感じて山田さんの背中に回そうとしていた手を振り上げて誤魔化すように自分の髪に触れれば山田さんは全てを見透かしたようにふっ、と笑った。
「えっ……と、四時くらいですね」
「じゃあもうちょっと寝る」
身体の上から降りていってしまう山田さんを引き止めるか悩んでいる間に横になってしまった山田さんが何かを探して手を彷徨わせている。山田さんがいつも使っている枕もすぐ近くにあるのに、と一緒になってそこにはない何かを探すために考えていれば、一つだけ思い当たるものがあった。
「そういえばミナトくん二号は?」
ミナトくん二号は心の狭いどこかの誰かが床におろした、とは言えない。ミナトくん二号が必要なくなるような何かはないものかと、必死に言葉を探すがそんな都合のいい理由なんてあるはずもない。諦めて床に置き去りのはずのミナトくん二号に手を伸ばそうとすれば、山田さんに腕を引かれる。
「まあミナトくん一号がいるから、代わりのミナトくん二号はいなくてもいいよ」
最初は本当に探していたんだろうが、途中から探すのをやめてこちらの様子をじっとうかがっていたので、誰がどこへやったのか察しはついていたのだろう。
それでも白旗をあげて降参しかけるまでは何もいわない、そんなところも愛おしい、恋は惚れた方の負けなら負けでいい。
山田さんの柔らかい唇が鼻先に当たり、そのついでに、と頬にも口づけが落ちてくる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ああ、この人には、敵わない。
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