はじまり
夢と少年 西岐は床に寝転がっていた。
お世辞にも清潔とは言えない床だ。泥と機械の油、食べ物のカス、煙草の灰や吸い殻があちこちにへばりついている。
不自由な体で身じろぐと頬に砂の粒が刺さった。
どうやら廃工場の一室のようだ。
窓際に立って光を半分遮っていた男が振り返る。逆光で顔はよく見えない。
何か叫んでいるようにも見えるが声が聞き取れない。音が耳に入ってこない。
大きな音や怒号が入り混じる感覚、何かがひっくり返ったような慌ただしい空気だけが伝わってくるが、音として捉えられず、意識もどこかふわふわしていた。
勢いよく扉が開く。
蹴破ったのであろう人物の足の裏が視界に飛び込んできたのと同時に光の筋が目の前をよぎる。景色を歪ませて映す銀色。それが何かと察する前に頬に当てられた金属の冷たさだけがやけにリアルに感じられた。
床で拘束されナイフを突きつけられた西岐によって、踏み込んできた男の行動が阻まれたらしい。怯んだところに紐状のものが飛び掛かり彼を拘束してしまった。
あっ、と思う。
焦りが走る。
銀色の光の筋に意識が吸い込まれる。
そこで目が覚めた。
けたたましい物音とそれを飲み込んでしまえるほどのざわめきが現実に引き戻した。HRが終わってクラスメイト達がおのおの立ち上がったり後ろの席に振り向いたり部活だと叫びながら廊下へ駆け出したりしていた。
机の上には現国の教科書があるから五限目・六限目・HRと続けて居眠りしていたらしい。
寝ぼけの抜けない顔で帰り支度をするべく、ノソリ……と動き始める。
「西岐くん!!」
四角四面な性格が溶け出した声に顔を上げると、奇妙な手の動きと共にこちらへ歩いてくる飯田の姿。
「君だけまだ進路希望のプリントを提出していないらしいな。先生から早く提出するようにと伝言を預かった」
飯田の言葉に『進路希望』と小さく呟く。
リアクションを待つ飯田をよそに西岐は思考の海に沈み始める。
そういえばそんなものもあったな。そういえば提出していなかったかもしれない。そういえば何を書けばいいかで悩んだ気がする。そうだ何を書こう。進路の希望なんてものがない場合どうしたらいいのだろう。
気長でのんびりした西岐の思考タイムはせっかちなきらいがある飯田が焦れるには十分だった。
「西岐くん、早々に提出したまえ!!」
目の前に両手を差し出される。
どうやら今すぐ提出しろということらしい。
「あ……まだ書いてない」
独り言ともとれるボソリとした返事。
「この場では書けばいいのではないか?」
「……決まってない」
「そうか。ならば先生に明日まで待ってくれるように頼んでおこう」
当然のように希望先が決まっていると思っている飯田の様子にそういえば彼は入学当時から大っぴらに雄英志望だと公言していたなと思い出す。西岐のために提出期限の延長の交渉をわざわざ買って出た彼にはヒーロー職がピッタリに違いない。
しかし折角飯田が交渉してくれたところで恐らく明日でも提出できないだろう。
一日や二日で自分の将来への希望が見えてくるはずがないのだ。
思い返せば西岐はこの中学三年の春になるまで一度も自分から何かをしたい、何某かを目指したいと思ったことなどなかった。ぼんやり過ごして今に至るのだ。いきなり何か希望を言えと言われて浮かぶわけがない。
明日への希望に満ち満ちているのであろう飯田の背中を見送って小さくため息をついた。
create 2017/09/22
update 2017/09/22
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